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Re: 『国民学校1年生』 その6

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三蔵志郎

通常 Re: 『国民学校1年生』 その6

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/5/5 23:59
三蔵志郎  半人前 居住地: 河内の国 金剛山麓  投稿数: 35
○昭和20年(1945年)
 あやかさん、おじいさんが国民学校1年生だった昭和20年は大変な年でした。そうです、昭和16年12月8日から始まった太平洋戦争も、この昭和20年の8月15日に敗戦の日を迎えました。
 その前年の昭和19年になると、連合国との戦局は悪化するばかりとなっていました、10月の台湾沖の航空戦では敗北を喫し航空戦力の大半を失い、フィリピンのレイテ沖海戦でも我が国の連合艦隊が壊滅状態になりました。制空権・制海権を失くした日本軍に対し、アメリカ軍は昭和20年から日本本土への空襲を本格化していきます。昭和20年3月10日に東京空襲は、広島・長崎の原爆に匹敵する大規模な被害をもたらしと云われています。それまでのボーイングB29は、高度1万m以上の上空を飛び、その攻撃目標も軍需工場などが中心でしたが、3月10日の東京空襲は非戦闘員を対象にした無差別絨緞《じゅうたん》爆撃だったそうです。B29 334機が爆弾・焼夷弾《しょういだん》を約2千トン搭載《とうさい》し襲来してきました。東京の下町に落とされた爆弾・焼夷弾は折からの風速20~30mの烈風に煽《あお》られ次から次ぎへと燃え広がり、火は火を呼んで町全体が火の海となり、死者は10万人を超えたと云われています。

 大阪市が最初の空襲を受けたのは、昭和20年1月3日です、B29が10機襲来してきたが殆《ほと》んど被害がなかったそうです。最初の大空襲があったのは3月13日です、B29約300機が低空で大阪市内の上空に現れ約7万個の焼夷弾を投下し、大阪市の19区をほぼ焼き尽くしたといわれています。
大阪市への空襲は8月14日の空襲を最後に、計33回に及んだそうです。この間の大阪市への無差別絨緞爆撃で、計12,620人が死亡、32万2,000戸が全焼し、罹《り》災者が125万5千人を数えたといわれています。

 東京、大阪以外の名古屋、横浜、川崎、清水、浜松、神戸、尼崎、堺、西宮、呉、宮崎、都城、鹿屋等の我が国の都市は殆んど空襲の被害を受けています。敗戦までの原爆被害を除いた本土の空襲被害は、少なくとも死者約26万人、家屋全壊焼221万戸、罹災者920万人といわれています。

 このような本土空襲のほかに、多数の住民を巻き込んだ太平洋戦争最大の悲劇といわれる“米軍の沖縄本島上陸”がありました。連合軍は空母40隻、戦艦20隻を中心とする艦船約1,500隻、空母艦載機約1,600機、上陸部隊七個師団18万2,800人と云う膨大な兵力で、20年4月1日にこの戦争で、最大といわれる上陸作戦を敢行してきました。この作戦で、日本軍は将兵の85%に当たる9万4,000人が戦死し、一方米軍の死者は陸海軍あわせて1万2,500人であったそうです。一般住民の死亡者は餓死・病死を含め15万人と云われております。

 この年の5月7日には、同盟国であったナチス・ドイツが連合国に無条件降伏をします。そして、7月26日にトールマン、チャーチル、蒋介石の米英中三国首脳が日本に無条件降伏を要求する「ポツダム宣言」を発表。そこには、アメリカ軍による日本本土攻撃による日本破壊の可能性、戦争指導者の追放、日本の国家主権の本土への制限などの内容が盛り込まれていた。
 これに対し、当時の鈴木首相は「三国の共同声明(ポツダム声明)を黙殺、戦争完遂に邁進《まいしん》するのみ」と記者団に発表。このポツダム宣言は、広島・長崎への原爆投下による惨事を避け得る最大のチャンスであり、国体護持にこだわり多くの国民の空襲などの被害に気を配らなかった当時の政府首脳者達の責任は重いのではないか、と思います。

 8月6日 広島に原爆投下、8月8日 ソ連が、日本に宣戦布告、8月9日 長崎に原爆投下。
そして、8月15日に天皇陛下の直接の採決である「聖断」という形で、ポツダム宣言受諾が決まります。
大日本帝国は、ポツダム宣言を受諾し米英などの連合国に無条件降伏したのです。

 この8月15日のことは、ぼんやり記憶に残っています。丁度、夏休みで木曽川の川原で遊んでいて、お昼過ぎに疎開先の家にかえると、おとな達があちらで2,3人、こちらで3,4人、ボソボソと小声でなにやら話していました。多分、コレカラ日本ハドウナッテイクカなど話していたのでしょう。
 帰宅した時間がお昼を大分すぎていたためか、それとも辺鄙《へんぴ》な田舎で各戸にラジオ受信機がなかったためか、いわゆる終戦を告げる陛下の玉音放送のことについて、周りのおとな達が話しているのを聞いたような記憶はありません。
 あやかさん、ちょっと難しいかも知れませんが、その玉音放送の一部を紹介します。
「正午の時報のあと、アナウンサーがーマイクに向かい“只今より重大な発表があります。
全国の聴取者の皆さん、御起立願います”。続いて『君が代』。奏楽の余韻が消えて、“天皇
陛下におかせられましては、全国民にたいし、かしこくもおんみずから大詔を宣《の》らせたもう
ことになりました。これより、謹みて玉音をお送り申します” 」
『朕《ちん》深ク世界ノ大勢ト帝国トノ現状二鑑《かんが》ミ非常ノ措置ヲ持ッテ
 時局ヲ収拾セント欲シ茲《ここ》二忠良ナル爾《なんじ》臣民ニ告グ。朕ハ帝国
政府ヲシテ米英支蘇《そ》四国ニ対シソノ共同宣言ヲ受諾スル旨通
告セシメタリ。(後略)』

あやかさん、この8月15日を人々はどのように受け止めていたのでしょうか。おじいさんは国民学校1年生で、その辺のところはよく分かりませんでした。あとで、見聞きしたところによりますと当時オトナであった人たちはいろいろな反応を示したそうですね。
・無条件降伏の敗戦、茫《ぼう》然自失、何をどう考えていいのか分からず混乱する人。中には発狂してしまった人もあった。
・自決や停戦の拒否という形で、敗戦という現実を拒否した人。
・“あなうれしとにもかくにも生きのびて戦いやめるけふの日にあふ”(河上肇)と詠んだ人。
・お昼の玉音放送を聞いても、微動もせず断じて芋を刻むことを止めなかった人。等々

8月28日連合国の第1次本土進駐が始まり、米国兵約150名が厚木飛行場に着陸。2日後の30日に連合国最高司令官マッカーサー元帥が厚木飛行場に到着する。
アメリカなどの占領軍は、わが国の非軍事化と民主化を押しすすめました。天皇を現人神《あらひとがみ》とし軍国主義国家であった我が国に自由と人権、民主主義という、当時の曾おじいさんたちがこれまで、全く経験したことのない価値観が持ち込まれました。そして、大きな変革、例えば農地改革、労働組合の公認と団体交渉権の保障、婦人参政権の獲得などが8月15日から数ヶ月の間に進められました。
        (2004.5.5)
               ---- 続く----  

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