Re: 大変な力作、ご苦労様でした。
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『国民学校1年生』 (三蔵志郎, 2004/3/28 1:09)
- Re: 『国民学校1年生』 (マーチャン, 2004/3/28 16:41)
- Re: 『国民学校1年生』 (あんみつ姫, 2004/3/28 19:06)
- Re: 『国民学校1年生』 (らごら, 2004/3/29 8:24)
- Re: 『国民学校1年生』 その2 (三蔵志郎, 2004/3/30 1:33)
- Re: 『国民学校1年生』 (変蝠林, 2004/3/30 11:49)
- Re: 『国民学校1年生』 (らごら, 2004/4/1 8:27)
- Re: 『国民学校1年生』 その3 (三蔵志郎, 2004/4/2 10:24)
- Re: 『国民学校1年生』 その3 (らごら, 2004/4/3 8:39)
- Re: 『国民学校1年生』 その4 (三蔵志郎, 2004/4/8 16:30)
- Re: 『国民学校1年生』 その4 (らごら, 2004/4/8 20:55)
- Re: 『国民学校1年生』 その4 (番外) (三蔵志郎, 2004/4/11 21:38)
- Re: 『国民学校1年生』 その4 (番外) (マーチャン, 2004/4/11 22:42)
- Re: 『国民学校1年生』 その4 (番外) (三蔵志郎, 2004/4/12 11:26)
- Re: 『国民学校1年生』 その5 (三蔵志郎, 2004/4/17 11:34)
- Re: 『国民学校1年生』 その6 (三蔵志郎, 2004/5/5 23:59)
- Re: 『国民学校1年生』 資料編01 (三蔵志郎, 2004/5/8 2:29)
- Re: 『国民学校1年生』 資料編02 (三蔵志郎, 2004/5/9 21:50)
- Re: 『国民学校1年生』 その7 (三蔵志郎, 2004/5/17 5:10)
- Re: 大変な力作、ご苦労様でした。 (オアシス, 2004/5/18 22:03)
オアシス
居住地: 東京都世田谷区
投稿数: 26
志郎さん、良くお調べになり 上手くまとめられましたね。
敬服です。
昭和14年小学校へ、昭和20年旧制兵庫県立芦屋中学校入学
学校は焼夷弾・爆弾で壊滅、西宮市夙川の住い ならびに近辺は
1トン爆弾、焼夷弾の被害甚大、空襲警報で帰宅中機銃掃射を
浴びました。
20年6月疎開をしました。
貴方と同じく大阪に父を1人残して、石川県金沢の父の本家を
頼って縁故疎開、間もなく市外松任母子4人移住、21年8月
伏見で一家四人ようやく一緒の生活をした私、チョッと先輩
ですが、往時を 今となっては懐かしく偲びました。
疎開先での戦後は、 1000千万人餓死説がでる食糧難。
着物を始めとする物々交換で お百姓さんから食料を分けて貰っ
ての暮し。
もう品物がなくなって お金でと言ったら 駄目、欲しかったら
取っていけばの言葉に 畑から南瓜や芋を盗んで帰ったことも、、、今となっては時効も良いところですね。
(戦前のお百姓さんは生活が苦しく、ズーッと 都会のプチブル
に反感を持ってました。)
昭和22年伏見で 戦争中の栄養不足と過労から父が結核で
亡くなりました。都市部では当時は火葬でした。
焼き場に燃料がなく、自己調達で薪を用意しました。好意ある
父の勤め先のお取引先からです。
配給は、代替のあらゆるものが
例えば豆かすですが、今では豚も食わない代物。
それから、代わったところでは 進駐軍放出のチーズや土地柄
お茶の葉までありました。
あの当時、みんな分け合って食べ生き延びましたね。
本当にご苦労様でした。
物の氾濫、過剰で失った助け合いの心、潔さの精神の復興が
臨まれますね。
オアシス
敬服です。
昭和14年小学校へ、昭和20年旧制兵庫県立芦屋中学校入学
学校は焼夷弾・爆弾で壊滅、西宮市夙川の住い ならびに近辺は
1トン爆弾、焼夷弾の被害甚大、空襲警報で帰宅中機銃掃射を
浴びました。
20年6月疎開をしました。
貴方と同じく大阪に父を1人残して、石川県金沢の父の本家を
頼って縁故疎開、間もなく市外松任母子4人移住、21年8月
伏見で一家四人ようやく一緒の生活をした私、チョッと先輩
ですが、往時を 今となっては懐かしく偲びました。
疎開先での戦後は、 1000千万人餓死説がでる食糧難。
着物を始めとする物々交換で お百姓さんから食料を分けて貰っ
ての暮し。
もう品物がなくなって お金でと言ったら 駄目、欲しかったら
取っていけばの言葉に 畑から南瓜や芋を盗んで帰ったことも、、、今となっては時効も良いところですね。
(戦前のお百姓さんは生活が苦しく、ズーッと 都会のプチブル
に反感を持ってました。)
昭和22年伏見で 戦争中の栄養不足と過労から父が結核で
亡くなりました。都市部では当時は火葬でした。
焼き場に燃料がなく、自己調達で薪を用意しました。好意ある
父の勤め先のお取引先からです。
配給は、代替のあらゆるものが
例えば豆かすですが、今では豚も食わない代物。
それから、代わったところでは 進駐軍放出のチーズや土地柄
お茶の葉までありました。
あの当時、みんな分け合って食べ生き延びましたね。
本当にご苦労様でした。
物の氾濫、過剰で失った助け合いの心、潔さの精神の復興が
臨まれますね。
オアシス