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Re: 『国民学校1年生』 その5

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三蔵志郎

通常 Re: 『国民学校1年生』 その5

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/4/17 11:34
三蔵志郎  半人前 居住地: 河内の国 金剛山麓  投稿数: 35
○葬送の先頭に立つ
 あやかさん、もう新学期が始まって大分たちましたね。新5年生はどうですか、クラス替えもあったそうですね。また新しいお友達が出来ますね。
 ところで、あやかさん、世界で一番長生き出来るのはどこの国か知っていますか。そう、日本ですね。
 平均寿命は81歳(男77.8歳 女85歳)で世界一ですね。いつからこのような長寿国になったのでしょうか。おじいさんが国民学校1年生であった第二次世界大戦中では、日本人の平均寿命はまだ50歳にも達していなかったそうです。日本人の平均寿命が50歳を超えたのは、第二次大戦後暫らくしてからです。戦後10年たった昭和30年には、男が50.6歳、女が54.0歳となったそうです。
 寿命の短いのは、医療の未発達や栄養水準の低さを背景にした乳幼児死亡率の高さが大きく影響していたと考えられています。
 戦争中やその直後は、ご飯はもとよりお米の入ったお粥《かゆ》や雑炊も、たまにしか食べることが出来ませんでした。サツマイモやその蔓(つる)、トウモロコシなどの代用食を食べていました。いつもお腹をすかした状態で、栄養状態も極めて悪かったと思います、医療施設も未整備でお医者さんも軍医など、軍の仕事に従事して村や町には少なかったのでしょうね。
 岐阜へ疎開したのは、おじいさんとその母および3人の姉妹でした。一番下の妹・昌子3歳が、お隣の美濃太田の産院で亡くなりました。小児科や内科の医院でなく、なぜ産院だったのでしょう。よく分かりません。
 おじいさんが1年生の3学期の終わろうとする頃、夜遅く母(そう、あやかの曾おばあさんです)が、亡くなった妹を小さな布団に包んで、それを背負って帰って来ました。玄関に死んだ妹を背負って、黙ってしよんぼり立っていたお袋の姿は、未だにおじいさんの脳裏に焼きついています。
 亡くなった妹は、おかっぱ姿の可愛い児で、格子模様の小さなエプロンが良く似合っていました。親戚の『君代』お兄さんを、廻らぬ舌で『ビョンヤン、ビョンヤン』と呼んでいました。
 翌日か、翌々日にお葬儀がありました。親戚《しんせき》のお兄さんやおじさん達が、妹の小さな棺桶《かんおけ》を担いで村はずれの墓地まで運びます、おじいさんは妹の白木のお位牌《いはい》をもって葬列の先頭に立って進みました。疎開っ子として、いじめられ蔑《さげす》まれていた子供にとっては、なんだか晴れがましい思いになったひと時でした。当時は、妹の死は、何であったのかよく分かっていませんでした。
 墓地に着きますと疎開先のH家の場所に、深さ1m程度の穴が掘ってありました。妹が入った棺桶がそこに納められます。家族や親戚の人達がその上へ土をかぶせていきました。 そうです、当時は、まだ土葬だったのです。
 葬儀のあと暫らくの間、お袋は疎開先のお婆さん(あやかの曾おじいさんのお母さんです)の家の裏庭に出て、親戚の人達に気遣うように、小さな声で小石を積んでは「1つつんでは---なんとやら」と云っておりました。親戚の小さな子たちはそれが何であるか分からず、その小さな石の塔を足蹴《あしげ》にして壊していました。母は、その壊された石の塔を、またまた口のなかでブツブツ唱えながら積み上げていました。お袋がブツブツ唱えていたものは、「賽《さい》の河原 地蔵和讃《じぞうわさん》」であったのです。

これはこの世のことならず       かのみどりごの所作として
死出の山路の裾野なる         河原の石をとり集め
さいの河原の物語           これにて回向の塔を組む
聞くにつけても哀れなり        一重組んでは父のため
二つや三つや四つ五つ         二重組んでは母のため
十にも足らぬおさなごが        三重組んではふるさとの
父恋し母恋し             兄弟我身と回向して
恋し恋しと泣く声は          昼は独りで遊べども
この世の声とは事変わり        日も入り相いのその頃は
悲しさ骨身を通すなり         地獄の鬼が現れて -----  
(略)

 あやかさん、おじいさんが1年生の頃は、生活環境が最低だったと思います。十分な栄養も取れず、医療環境も整備されていなかったのでしょうね。そのような中で我が子を亡くした母はさぞ無念だったでしょうね、悔しかったでしょうね。その母も、そう、あやかの曾おばあちゃんも3年前に亡くなりましたね。生前自ら死んだ妹のことを絶対に喋《しゃべ》らなかったですね。おじいさん達が聞いてもあまり語ってくれませんでした。やはり、いつまでたっても無念だったのでしょうね。
 亡くなった妹は、生きていれば今年(2004年)で もう62歳です。でも、おじいさんの中の妹は、全然年をとりません。あやかさんよりずっと小さく、いつまでも3歳の、赤ら顔して鼻の先が少し輝いたお河童《かっぱ》姿の可愛い女の子です。                          (2004.4.17)
               ---- 続く----  

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