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Re: 『国民学校1年生』 その7

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三蔵志郎

通常 Re: 『国民学校1年生』 その7

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/5/17 5:10
三蔵志郎  半人前 居住地: 河内の国 金剛山麓  投稿数: 35
 
○一杯の御飯

 あやかさん、前回は日本が負けた8月15日のことに触れましたが、この日以降おじいさん達の生活はどのように変わっていったのでしょうか。
 戦争中も相当ひもじい思いをいていましたが、戦争が終わってからはよりひもじい思いをいたのではないかとぼんやりと記憶しています。あやかさん、「ひもじい」って分かりますか?空腹である、腹がすいている と云うことです。最近あまり使わなくなった言葉ですね。日本が豊かになりすぎて何でも食べられる時代になったからなんでしょうね。
 先に述べました「灯火管制」も8月20日に解除されました。自由に電灯を点けてもよい状況になりましたが、その頃は電力事情も極めて悪くなって毎晩停電するといった状況でした。停電すると「カンテラ」という照明具で部屋をボンヤリと明るくし晩のお雑炊などを家族ですすっていた等という思い出もあります。
 「カンテラ」というのは、ブリキ製の小さな缶に灯油をいれ、綿糸の芯に火を点す簡単な照明具のことです。このカンテラに使う灯油を手に入れるため母と早朝から行列し買い求めに行ったことも当時の記憶の一つです。
 上級生や高等科のお姉さん達は、「もう、寝間着を着て寝ても良いのね」といって喜んだと云うことも聞いております。お姉さん達は、戦争中は上着を着、モンペを穿いたまま寝ていたのです。そして枕元には防空頭巾をおいて、空襲警報が出てもすぐ飛び出せるように何時も準備していたのですよ。 
 また、防空頭巾などと云う、あやかさんにとって耳慣れない言葉が出てきましたね。これは焼夷弾の直撃や爆風から頭を守るために、かぶった綿入れの頭巾(頭にかぶるもの)のことです。
 スパイ活動の防止を理由に中止されていた天気予報も復活し、短波ラジオで外国の放送も自由に聞いてもよいことになりました。また昭和16年以来禁止されていたアメリカ映画の上映も再開され、ラジオでジャズ音楽も復活されました。

 あやかさん、食料などの配給制度というものがあったのですよ。昭和12年に始まった日中戦争以来、政府は軍需生産の確保を優先するため、民間人が使う物資の生産・消費を抑制し始めます。そのため生活必需品が不足し、買い溜めや売り惜しみが始まり、物の値段はどんどん上がっていきました。この物の値段の上昇を抑え、ぼろ儲けすることを取り締まるため、ものの値段を政府が決めるという「公定価格制」が導入されました。しかし、軍需インフレで物価上昇は抑えることが出来ませんでした。このため、生活に必要なものを手に入れるため、公定価格の数倍もする闇取引が盛んに行われるようになったそうです。
 16年4月になると六大都市でお米の通帳割り当て配給制度が実施され、一人当たり1日2合3勺とされました。そして、木炭の通帳制、お酒の切符販売が実施されたそうです。
 17年8月ごろから1日2合3勺の主食の配給量に、雑穀が入るようになっていきます。そして主食配給量に占める米の割り合いは、18年夏には60%程度になったそうです。その配給米も当初は7分づきだったのが2分づきへと、さらに玄米として配給されるようになったそうです。
 そういえば、おじいさんも1升瓶に玄米を入れて細い棒切れをいれ、それでつついて白米にする作業を手伝ったことを記憶しています。 一人当たり1日2合3勺の配給も、20年7月には2合1勺に切り下げられました。当時の政府のお役人が云ったそうです、「米の配給が1割減ったからといって慌てる必要はない。未利用資源を活用すれば相当程度栄養を補給することが出来ると信じる」と述べ、ドングリ、甘藷の葉やつる、澱粉の絞りかすなどの利用を呼びかけたそうです。
 その頃のおじいさんには、殆んど白いご飯はもとよりお粥さえも食べた記憶はありません。朝飯の代わりに玉蜀黍の茹でたものを食べたり、学校から帰ってきてはベトベトに冷えた水っぽいサツマイモのふかしたものを食べたという思い出ぐらいです。
 そういえば、このような思い出があります。たしか、20年の6月頃だとおもいます、1年生のおじいさんと3年生の姉、そして30歳代後半のおじいさんのお母さん、この3人の女子供が木曽川の川原の土手で畑を耕し始めたのです。小さな熊笹のようなものが生えていて、その根を取り払って畑を作るのは大変な仕事でありました。むんむんと蒸せるような暑さの中で数時間3人は頑張りつづけ、耕した後に、近所の人から分けてもらった薩摩芋の苗を植えつけました。
 しかし、おじいさん達が耕したサツマイモ畑からは芋は出来ませんでした。ちょうど、芋が生育する8月頃だったとおもいます、大雨が降って木曽川が氾濫し上流から大きな丸太がどんどん流れてきます、おじいさん達のサツマイモ畑は、流れ着いた材木の置き場になってしまったからです。

 敗戦後の飢餓は、弱い老人や行き場を失った孤児達に襲いかかりました。戦後2ヶ月をすぎた20年10月では、東京の上野駅の周辺では毎日2.5人の餓死者があったそうです。大阪駅周辺でも11月前半だけで40人以上の餓死者を記録しています。名古屋市で敗戦日から11月初めまでに収容した住所不定者のうち栄養失調で57名も亡くなっています。
 どのようにして、このような飢餓状態になったのでしょうか。戦争を続けるため農村で働いていたお父さんやお兄さん達の多くが兵隊に取られていたこと、また軍事物資優先のため肥料などの農業用資材が不足していました。このため食料生産の絶対的不足状態になりました、また海外の植民地などから輸入していた食糧は敗戦によって完全にその道が絶たれたからです。
 さらに悪いことには、この敗戦の年の7月から8月にかけ中部地方から以北地方では低温が続いたため水稲の収穫量が激減しました、その上9月中旬に西日本をおそった枕崎台風は大きな被害を与えました。開花受粉後まもない稲が倒されたからです。例年6000万石前後の収穫を維持したのが、この年に限って3920万石と、60%しか収穫できませんでした。
 このようななかで、前に述べた配給制度が破綻をきたします。都市部では配給に芋や麦粉・雑穀などが混入され、その配給も途絶えはじめました。配給のもとになる農家からの供出量が20年の12月にやっと割り当ての25%に達したと云われています。不作の影響もありましたが農家の人が政府を信用せず自己防衛で供出を渋ったためだと云われていました。
 この年の10月28日付けの新聞は報じました。『「ヤミ」をくわない犠牲、東京高等学校教授の栄養失調死。--- 大東亜戦争が勃発して食料が統制され配給されるようになった時政府は「政府を信用して買出しをするな、闇をするものは国賊だ」と国民に呼びかけた。同教授は政府のこの態度を尤もだと支持し、いやしくも教育者たるものは裏表があってはならない、どんなに苦しくとも国策をしっかり守っていくという固い信念で生活を続けていた(毎日新聞)』。とても、配給だけではいきていけなかったのですよ、配給だけでは成人が必要とするカロリー摂取量の54%しかならなかった(東京都の栄養調査より)そうです。11月になると、東京の日比谷野外音楽堂で、「餓死対策国民大会」も開かれています。
 このような状況のとき、一生忘れられない出来事がありました。そう、あの時の感激はいまでもはっきり覚えています。 おじいさん達が通っていた岐阜県加茂郡坂祝国民学校では、上級生のお兄さんお姉さん達が校庭の一部を潰し、水田を作って稲を植えてくれていました。その稲が実り、穫り入れが行われました。大きなお釜でご飯を炊いて、昼食時に全校生に配って呉れたのです。

        小さなお椀にご飯が山盛り、その上に黄色い沢庵が二切れ!

 白いご飯です、お粥ではありません 固いご飯です、新米のご飯です。食べました、むさぼるように食べました。おいしかった。「ご飯って、なぜこんなにうまいのか!」心の中で叫んでいました。

 あの時の喜び、あの感激。あのご飯の味は絶対忘れません。あの時のシーンを思い浮かべると、恥ずかしくも涙が出てきます。いまだにそうです。
 あやかさん、1日3食 おいしいご飯が食べられる 本当に幸せなことですね! そう思いませんか。
                               (2004.5.17)
           ------- 終わり-------

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