特殊潜航艇「海龍」・第四章 その4
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特殊潜航艇「海龍」・はじめに (編集者, 2007/4/6 9:38)
- 特殊潜航艇「海龍」・第二章 その1 (編集者, 2007/4/7 7:34)
- 特殊潜航艇「海龍」・第二章 その2 (編集者, 2007/4/8 7:34)
- 特殊潜航艇「海龍」・第二章 その3 (編集者, 2007/4/9 7:52)
- 特殊潜航艇「海龍」・第二章 その4 (編集者, 2007/4/10 8:04)
- 特殊潜航艇「海龍」・第二章 その5 (編集者, 2007/4/11 8:17)
- 特殊潜航艇「海龍」・第三章 その1 (編集者, 2007/4/12 7:37)
- 特殊潜航艇「海龍」・第三章 その2 (編集者, 2007/4/13 8:31)
- 特殊潜航艇「海龍」・第三章 その3 (編集者, 2007/4/14 7:10)
- 特殊潜航艇「海龍」・第四章 その1 (編集者, 2007/4/15 7:52)
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特殊潜航艇「海龍」・第四章 その2 (編集者, 2007/4/16 7:10)
- 特殊潜航艇「海龍」・第四章 その3 (編集者, 2007/4/17 10:11)
- 特殊潜航艇「海龍」・第四章 その4 (編集者, 2007/4/18 8:54)
- 特殊潜航艇「海龍」・第四章 その5 (編集者, 2007/4/19 7:45)
- 特殊潜航艇「海龍」・第四章 その6 (編集者, 2007/4/20 8:05)
編集者
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(9)水上航走――――――――――――――――――――――
自分の艇付きとのペアーで海龍に乗り込み、水上航走の訓練を行なう。
出発の前に教官から注意がある。海龍は水上で高速を出すと、艇首が水に引き込まれて潜航してしまう。水上航走中、艇付きは操縦桿を手前に引き、艇首が沈まないようにすること。艇長は艇首の水のかぶり方に気を付け、潜航しそうになったら速度を落とすこと。
教官は艇に同乗はするが、艇の中には入らない。艇の外にいて、ハッチ《蓋つきの昇降口》の上に跨ったり、胴体の上に立ったりして、艇の中にいる我々に指示をするのであるから、こちらの不注意で艇が潜航すると、彼は海のなかに放り出されることになる。
横須賀基地の傍に、日露戦争時の戦艦「三笠」が記念艦として一般公開されていたが、そのすぐ北側が機関学校ポンドで、我々はそこから出港する。(当時と今では「三笠」の位置が違う)
「三笠」を右に見て東へ向かう。ポンド《注》の左手に、これも日露戦争時の軍艦「春日」が係留されている。ポンドから東京湾へ出ると、右斜め前方に猿島が見える。
猿島の北で、反転し、ポンドへ戻るのだが、前もって出港時に後ろの景色を確認しておかないと、沖合いから見て、ポンドが何処だか分からなくなる。
5月の始めに横須賀に来てから、2、3度、航海実習として、東京湾めぐりをしているのだが、汽船の上から肉眼で東京湾全体を見渡せるのと、海面すれすれの低い位置から、潜望鏡の狭い視野で覗くのとでは、同じ景色でも違って見える。
「春日」のマストを目標に覚えたまでは良かったが、「三笠」のマストをそれと誤認して、ポンドが見当たらず困った男もいた。
(10)甲飛の殉職――――――――――――――――――――
普通、「予科練」と呼んでいるが、「予科練」にも種類があり、一番人数の多いのが、「甲種飛行予科練習生」である。彼等自身は自分達のことを「予科練」と呼ばれるよりも、「甲飛」と呼ばれることを好むと、戦後、海龍関係者の集まりの時に聞いたので、それ以後私は「甲飛」と呼ぶことにしている。
水上航走を一度でもやると、今度はこちらが先輩として、初めて水上航走をする仲間の上乗りをする。
艇の上に素足で、棍棒を持って乗る。黒い艇の上に乗って、足元を波が洗い、まるで鯨の背中にでも乗って海上を走っているようで、気分爽快であるが、遊んでいる訳ではない、これは訓練である。
昭和20年6月始めの頃はまだ、訓練艇は10隻くらいしか無かったが、それでも、横須賀基地と猿島の間で10隻もの艇がうろちょろすると、お互いが衝突する危険がある。
艇長は潜望鏡という狭い視野でしか、周囲を見ていないから、上乗りが見張り役を勤め、いざとなると棍棒で艇の胴体を叩いて、艇長に危険を知らせる。
ある少尉が上乗りをしていた時に、反航していた別の艇と衝突しそうになった。上乗りの少尉は、棍棒で急を知らせると共に、潜望鏡を掴んで、相手の艇の方に向けた。どうせ潜望鏡の下では、艇長が潜望鏡の取っ手に腕を乗せているだけだから、艇の外から掴んで回しても潜望鏡は回るのである。
状況を察した中の艇長は、後進全速をかけた。向こうの艇も後進全速をかけたので、10メートル位のニヤミスで、衝突は免れた。
ここまでは良かったのであるが、この後がいけない。水上航走中は、頭を突っ込まないように、艇首を上向きにして走っている。その侭の姿勢で、後進を掛けるとどうなるか。艇の後ろが下がったままだから、艇尾から水中に潜り込むことになる。
双方の艇はいずれも艇首が45度くらい上に向いた格好で、後ろへ海中に潜ってしまい、双方の上乗りは海中に放り出されてしまった。
幸い私の戦友は泳いでいる内に、浮かび上がってきた艇を掴まえることが出来たが、相手の艇の上乗りが行方不明になっってしまった。甲飛だが、泳げない海軍がいたのだ。連日捜索が続けられ、1週間ほど経ってから、猿島の南方で遺体が発見された。海流で遭難現場からは、かなり流されていたようである。
この事件以後、上乗りは泳げる泳げないに関係なく、救命ジャケットを着用することになった。
それから数日後、隊の中央の道路をトボトボと歩く老婆を見掛けたが、直感的に、遭難した甲飛の祖母だと思って胸が痛んだ。
いま、手許の「特潜会会員名簿」を見ると、昭和20年6月11日、川崎沖にて監視艇乗船中に殉職と記してある。死んだのは彼であったが、もしかしたら私の戦友だったかもしれないし、私だったかも知れない。あの時、あそこにいた誰もが、同じ危険の中で訓練していたのである。
(11)父からの手紙―――――――――――――――――――
子供の時。出張先の父からよくハガキが来た。
書いてあるのは子供3人の名前の後に「元気か」とだけの、短いものであったが、独特の字の踊り具合に、父の声、顔、手のぬくもりを感じた。
海軍にいる私にある日、父から封書が届いた。表書きの踊る文字を目にした途端、一瞬にしてそこに父のぬくもりを感じ、滂沱《ぼうだ=とめどなく流れる》の涙であった。
中の文章は、「皇国のためしっかりやれ」という、およそ父からぬ紋切り型の文章で、愛情を吐露《とろ=本心を打ち明ける》できぬ父のもどかしさを、字の背後に感じた。
(12)海軍の長髪――――――――――――――――――――
海軍の将校は長髪でよかったが、昭和20年6月ごろ、断髪の指示が出た。でも、さすが海軍。「長髪でなければ、その容貌を保てない者は、この限りにあらず」と、但し書きが付いていた。
「あ、俺も、容貌が保てない」「大きな禿げがあるんだ」と、無理に口実を作って、結局私の部隊で丸刈りにした者は、予備学生出身者にも海兵出身者にも一人も居なかった。
負けてくると精神論になるのが、日本人の特性だが、敗色濃厚な昭和20年6月ともなれば、「海軍にはいまだに長髪の者がおる。あれはアメリカの真似だ。怪しからん」と陸軍からイチャモンがついたのではないか、と当時も今も思っている。真相がどうだったのかは知らない。
注 和訳は池ですが 此処では「船留まり」をいう
自分の艇付きとのペアーで海龍に乗り込み、水上航走の訓練を行なう。
出発の前に教官から注意がある。海龍は水上で高速を出すと、艇首が水に引き込まれて潜航してしまう。水上航走中、艇付きは操縦桿を手前に引き、艇首が沈まないようにすること。艇長は艇首の水のかぶり方に気を付け、潜航しそうになったら速度を落とすこと。
教官は艇に同乗はするが、艇の中には入らない。艇の外にいて、ハッチ《蓋つきの昇降口》の上に跨ったり、胴体の上に立ったりして、艇の中にいる我々に指示をするのであるから、こちらの不注意で艇が潜航すると、彼は海のなかに放り出されることになる。
横須賀基地の傍に、日露戦争時の戦艦「三笠」が記念艦として一般公開されていたが、そのすぐ北側が機関学校ポンドで、我々はそこから出港する。(当時と今では「三笠」の位置が違う)
「三笠」を右に見て東へ向かう。ポンド《注》の左手に、これも日露戦争時の軍艦「春日」が係留されている。ポンドから東京湾へ出ると、右斜め前方に猿島が見える。
猿島の北で、反転し、ポンドへ戻るのだが、前もって出港時に後ろの景色を確認しておかないと、沖合いから見て、ポンドが何処だか分からなくなる。
5月の始めに横須賀に来てから、2、3度、航海実習として、東京湾めぐりをしているのだが、汽船の上から肉眼で東京湾全体を見渡せるのと、海面すれすれの低い位置から、潜望鏡の狭い視野で覗くのとでは、同じ景色でも違って見える。
「春日」のマストを目標に覚えたまでは良かったが、「三笠」のマストをそれと誤認して、ポンドが見当たらず困った男もいた。
(10)甲飛の殉職――――――――――――――――――――
普通、「予科練」と呼んでいるが、「予科練」にも種類があり、一番人数の多いのが、「甲種飛行予科練習生」である。彼等自身は自分達のことを「予科練」と呼ばれるよりも、「甲飛」と呼ばれることを好むと、戦後、海龍関係者の集まりの時に聞いたので、それ以後私は「甲飛」と呼ぶことにしている。
水上航走を一度でもやると、今度はこちらが先輩として、初めて水上航走をする仲間の上乗りをする。
艇の上に素足で、棍棒を持って乗る。黒い艇の上に乗って、足元を波が洗い、まるで鯨の背中にでも乗って海上を走っているようで、気分爽快であるが、遊んでいる訳ではない、これは訓練である。
昭和20年6月始めの頃はまだ、訓練艇は10隻くらいしか無かったが、それでも、横須賀基地と猿島の間で10隻もの艇がうろちょろすると、お互いが衝突する危険がある。
艇長は潜望鏡という狭い視野でしか、周囲を見ていないから、上乗りが見張り役を勤め、いざとなると棍棒で艇の胴体を叩いて、艇長に危険を知らせる。
ある少尉が上乗りをしていた時に、反航していた別の艇と衝突しそうになった。上乗りの少尉は、棍棒で急を知らせると共に、潜望鏡を掴んで、相手の艇の方に向けた。どうせ潜望鏡の下では、艇長が潜望鏡の取っ手に腕を乗せているだけだから、艇の外から掴んで回しても潜望鏡は回るのである。
状況を察した中の艇長は、後進全速をかけた。向こうの艇も後進全速をかけたので、10メートル位のニヤミスで、衝突は免れた。
ここまでは良かったのであるが、この後がいけない。水上航走中は、頭を突っ込まないように、艇首を上向きにして走っている。その侭の姿勢で、後進を掛けるとどうなるか。艇の後ろが下がったままだから、艇尾から水中に潜り込むことになる。
双方の艇はいずれも艇首が45度くらい上に向いた格好で、後ろへ海中に潜ってしまい、双方の上乗りは海中に放り出されてしまった。
幸い私の戦友は泳いでいる内に、浮かび上がってきた艇を掴まえることが出来たが、相手の艇の上乗りが行方不明になっってしまった。甲飛だが、泳げない海軍がいたのだ。連日捜索が続けられ、1週間ほど経ってから、猿島の南方で遺体が発見された。海流で遭難現場からは、かなり流されていたようである。
この事件以後、上乗りは泳げる泳げないに関係なく、救命ジャケットを着用することになった。
それから数日後、隊の中央の道路をトボトボと歩く老婆を見掛けたが、直感的に、遭難した甲飛の祖母だと思って胸が痛んだ。
いま、手許の「特潜会会員名簿」を見ると、昭和20年6月11日、川崎沖にて監視艇乗船中に殉職と記してある。死んだのは彼であったが、もしかしたら私の戦友だったかもしれないし、私だったかも知れない。あの時、あそこにいた誰もが、同じ危険の中で訓練していたのである。
(11)父からの手紙―――――――――――――――――――
子供の時。出張先の父からよくハガキが来た。
書いてあるのは子供3人の名前の後に「元気か」とだけの、短いものであったが、独特の字の踊り具合に、父の声、顔、手のぬくもりを感じた。
海軍にいる私にある日、父から封書が届いた。表書きの踊る文字を目にした途端、一瞬にしてそこに父のぬくもりを感じ、滂沱《ぼうだ=とめどなく流れる》の涙であった。
中の文章は、「皇国のためしっかりやれ」という、およそ父からぬ紋切り型の文章で、愛情を吐露《とろ=本心を打ち明ける》できぬ父のもどかしさを、字の背後に感じた。
(12)海軍の長髪――――――――――――――――――――
海軍の将校は長髪でよかったが、昭和20年6月ごろ、断髪の指示が出た。でも、さすが海軍。「長髪でなければ、その容貌を保てない者は、この限りにあらず」と、但し書きが付いていた。
「あ、俺も、容貌が保てない」「大きな禿げがあるんだ」と、無理に口実を作って、結局私の部隊で丸刈りにした者は、予備学生出身者にも海兵出身者にも一人も居なかった。
負けてくると精神論になるのが、日本人の特性だが、敗色濃厚な昭和20年6月ともなれば、「海軍にはいまだに長髪の者がおる。あれはアメリカの真似だ。怪しからん」と陸軍からイチャモンがついたのではないか、と当時も今も思っている。真相がどうだったのかは知らない。
注 和訳は池ですが 此処では「船留まり」をいう