特殊潜航艇「海龍」・第四章 その6
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特殊潜航艇「海龍」・はじめに (編集者, 2007/4/6 9:38)
- 特殊潜航艇「海龍」・第二章 その1 (編集者, 2007/4/7 7:34)
- 特殊潜航艇「海龍」・第二章 その2 (編集者, 2007/4/8 7:34)
- 特殊潜航艇「海龍」・第二章 その3 (編集者, 2007/4/9 7:52)
- 特殊潜航艇「海龍」・第二章 その4 (編集者, 2007/4/10 8:04)
- 特殊潜航艇「海龍」・第二章 その5 (編集者, 2007/4/11 8:17)
- 特殊潜航艇「海龍」・第三章 その1 (編集者, 2007/4/12 7:37)
- 特殊潜航艇「海龍」・第三章 その2 (編集者, 2007/4/13 8:31)
- 特殊潜航艇「海龍」・第三章 その3 (編集者, 2007/4/14 7:10)
- 特殊潜航艇「海龍」・第四章 その1 (編集者, 2007/4/15 7:52)
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特殊潜航艇「海龍」・第四章 その2 (編集者, 2007/4/16 7:10)
- 特殊潜航艇「海龍」・第四章 その3 (編集者, 2007/4/17 10:11)
- 特殊潜航艇「海龍」・第四章 その4 (編集者, 2007/4/18 8:54)
- 特殊潜航艇「海龍」・第四章 その5 (編集者, 2007/4/19 7:45)
- 特殊潜航艇「海龍」・第四章 その6 (編集者, 2007/4/20 8:05)
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(19)外出禁止と記念艦「三笠」
昭和20年の7月、横須賀へ来て2カ月を過ぎたが、訓練訓練で基地の外へ出たことが無い。教官に一度外出させてくれないかと頼んだ所、海龍は秘密兵器だから、おまえ達を外出させて秘密が漏れては困るのだ、というつれ無い返事が返ってきた。
当時、海龍の訓練は横須賀基地東側の機関学校ポンドで行われていた。海龍に搭乗して出発すると、すぐ右手に記念艦「三笠」があり、その甲板からポンドを見下ろして、海龍が出入りするのを見ている民間人が見受けられた。
「三笠」から民間人が毎日見ていて、何が秘密兵器ですかと文句を言ったら、教官も反発してこなかった。これで明日から外出が許可されるものと期待していたら違った。
「三笠」の方が立ち入り禁止になってしまった。
当時、少尉の基本給が80円くらいなのに、航海手当、危険手当などを加えて500円近く貰っていたが、ちり紙の役にも立たないと、給料袋のまま行李に放り込んでいた。毎月300円を国許へ送っている孝行息子もいた。
(20)艇の沈降試験
6号ドックで建造された海龍は、さまざまな検査を受ける。その中に沈降試験というのがある。海龍は設計上は100メート潜れるのだが、軍港の中ではそんなに深い所はないから30メートルくらい沈める。
艇の中に一人入り、ハッチを閉め、クレーンで前後を吊るして、沈めていく。ある予備学生が、その試験に立ち会い、艇の中に入り、潜望鏡で外を覗いて、作業員の動きを眺めていた。
艇が海中に沈んでいくと外は見えなくなる。致し方なく艇内の横を見たり、後ろを見たり足元を見たりしていた。
身体を戻した途端、頭の上から潜望鏡が水圧に押されて、ストンと足元に落ちてきた。足元を見ているときだったら、首の骨を折られるところであった。
(21)艦載機の襲撃と戦友の死
7月18日午後、艦載機の襲撃があった。島村がやられたという声で、訓練基地へ急いだ。10名ほどの遺体が格納庫風の建物の中に並べられていた。足を曲げたままのもあり、手を伸ばしたままのもあり、作業服を着たマネキン人形が横たえられているようで、悲しいとか、悔しいとか、怖いとかいった感情は全く湧かなかった。
俺も死ねばあんな格好になるのかなと思っていた。
後で状況を聞くと、14期甲飛の汽艇操舵訓練を終わって、指揮官の島村が訓示中に、やられたという。海龍に乗っていれば安全だったのに。
(22)横須賀に爆弾は落ちない
空襲が頻繁に来るようになった。南の空を見上げていると、10~15機くらいの横一列になった編隊が目に入る。来た来たと思っていると、その後ろにまた一列が来る。なんとその後ろに何列にもなって敵機が来るではないか。こんなに大量の飛行機が飛ぶ姿を日本の観兵式でも見たことが無かった。
基地の高角砲がすぐ近くでダンッダンッと射撃を始め、その砲弾の破片が落ちてくるようなので、防空壕に逃げ込む。
防空壕の中で「凄い数の敵機が来た」という話をしていたら、一人の下士官が「敵は横須賀には爆弾を落としませんよ」とアメリカの指揮官の様なことを言う。「占領後、横須賀を米軍の基地として使う積もりだから、破壊するようなことはしません」
この下士官は、もう日本が負けることを読んでいる。その点こちらは純情で、海龍で出撃することしか念頭に無かった。
鈴木貫太郎首相が基地を訪問しに来た。激励に来たものと当時は思っていたが、戦後読んだ歴史の本で、彼が終戦の機会を窺っていた事を知り、帝国海軍最後の戦力である特攻基地を視察して、その実力を把握するために来たのだと思う。天皇に、もはや海軍に戦力はありませんと報告したのだろうと思う。
(23)夜光虫を敵艦隊と見誤る
アメリカ軍は上陸の直前に徹底的な空襲をする。連日の空襲から、本土上陸近しと全軍が神経を尖らしていた。前線の見張り所もピリピリしていたであろう。8月1日夜10時、大島の見張所が東方海上一面に光るものを発見した。すわ、敵の大船団に間違いなしと全軍に「敵大船団、大島東方を北上中」と発信した。
これを受けて海龍も、教官連中は艇の出動準備を始めたが、間もなく(2日朝2時頃)[先の大船団は夜光虫の誤り」との連絡が入る。
昔、水鳥の羽音に驚いて退却した平家の話があるが、帝国海軍も落ちたものだ、亡国の兆候だと嘆かわしく思った。
(24)女を知らないで
大島東方の件は夜光虫の誤りであったが、敵部隊接近の情報は掴んでいたようで、「かって見ざる敵大輸送船団現る。本土上陸用に間違いなし。各人身の回りを整理し、出撃準備をなせ」という命令が来た。
荷物を行李に詰めながら「おい、俺が死んだら頼むぞ」と、ベッドの隣同士で約束する。
誰かが「おい、女も知らないで死ぬのかよ」と叫んだので、部屋中が大笑いになった。
軍隊に入る前に女を知っていればともかく、海軍に入ってからは、そういうチャンスは全くなく、ましてや三笠の一件を思い出しての大笑いであった。
戦後、映画やテレビで、特攻出撃の前に、女と遊ぶ場面が出て来ると、「ウッソー」と思った。そういうことをした部隊も有ったかもしれないが、横須賀にいた我々に関しては全くその気はなかった。
(25)出撃計画
身辺整理が終わると出撃計画の作成である。8月10日から20日頃までに、九十九里浜に敵が上陸するとの想定で、潮汐を調べ、東京湾に敷設してある味方の機雷原の位置を教わる。敵輸送船が来る前に九十九里浜沖で潜航して待つ。敵が来たら魚雷2本で2隻を撃沈、さらに体当たりでもう1隻という皮算用だが、前部燃料タンク(600l)の場所に火薬を詰めたので、後部燃料タンク(480l)だけでは片道の燃料すら足りない。
横須賀から九十九里浜まで約90~100浬(160~180KM)ある。これを巡航速度の時速5ノット(9KM/H)で進むと、18~20時間かかり敵の偵察機に知られてしまう。夜の間に移動を済ませようと7.5ノットで走ると、後部タンクだけでは90浬で重油はなくなる。そこで低圧タンク(350l)にも燃料を積んで、やっと5ノットでの帰りの燃料が残る計算になる。
どうせぶつかるのだから帰りの燃料は要らないということにはならない。敵が上陸予定地を変えたとか、上陸予定日を変更したとかで、敵と遭遇しなかったから横須賀まで帰ってこなければならない。
出撃計画を作りかけていると、乗る艇がないとぞという話になった。整備の済んだ艇は前進基地へ海上または貨車での陸送で出発しており、今横須賀には訓練用に使っている艇を含め20隻くらいしかない。1番の艇に特攻長、2番にXX大尉が乗ると勘定していくと、とても予備学生にまでは廻ってこない。こうなりゃ陸戦だと木刀を振り回す者もいたが、今までの1年間に亙る訓練が、いざというときに間に合わないと知ると何か空しかった。
(26)熱線爆弾、ソ連参戦、日本降伏の放送
8月6日、広島に原爆が落ちたが、当時海軍では新型の「熱線爆弾」と表現され、白い衣服を着ていれば被害が少ないと掲示があった。
9日ソ連参戦。アメリカという横綱クラスの攻撃を土俵際でこらえているのに、後ろからソ連横綱が襲い掛かって来ては、万事休すと思った。
10日夜、「通信隊に行ったら、アメリカ放送が日本は降伏したと言っている」という情報が流れてきた。謀略宣伝かとも思うし、それにしてもボツダム宣言とやらは何だ。
(27)大御心のままに
8月15日の玉音放送は、部隊全員が集まって聞いたが、よく聞き取れなかったし、天皇陛下の声の抑揚は我々とは違う独特の言い方なので、はっきりとは分からなかったが、全体として景気の好い声ではなかったし、「忍び難きを忍び」の所は聞き取れたから、前日のアメリカ放送の言っていた通り負けたらしいと、放送が終わってからは、黙々と各自の宿舎に引き揚げた。
ところが翌日になると厚木航空隊の零戦が飛んで来て、「戦うぞ」と決起を促すビラを撒いていった。それを受けて海兵出の士官の方から「終戦は陛下のご意志ではない。重臣たちを襲撃しよう。お前らはどう思うか」と作文を書かされた。適当に勇ましいことを書いて提出する。
1期上の予備学生が「大御心のままに」と書いたとかで、翌朝の食事に目の下を黒くして現れた。
機密書類の返却、焼却、海龍の武装解除とあわただしい日が続く。海龍の武装解除といっても主電路のヒューズを外すだけの操作だが、意識してか間違えてか、自爆装置を動かして、艇を爆破した奴がいた。600キロの火薬が爆発した後には、20センチくらいのクリーク(艇を繋ぐときに綱を掛ける金具)1個が桟橋に残っていただけであったという。
(28)早く帰れ
爆発事故があったり、8月15日以降の隊員の動きに不安を感じたのか、「お前達が残っていると、上陸してくるアメリカ兵に何を仕出かすか分からん。今支給してある物は全部遣る。早く帰れ」と命令が出て、8月23日柳行李を担いで隊を後にした。艇付がどこからかリヤカーを探して来てくれた。我々2人の前後も故郷へ帰る隊員の波であった。
第1部 海軍予備学生
第4章 横須賀嵐部隊 終り
昭和20年の7月、横須賀へ来て2カ月を過ぎたが、訓練訓練で基地の外へ出たことが無い。教官に一度外出させてくれないかと頼んだ所、海龍は秘密兵器だから、おまえ達を外出させて秘密が漏れては困るのだ、というつれ無い返事が返ってきた。
当時、海龍の訓練は横須賀基地東側の機関学校ポンドで行われていた。海龍に搭乗して出発すると、すぐ右手に記念艦「三笠」があり、その甲板からポンドを見下ろして、海龍が出入りするのを見ている民間人が見受けられた。
「三笠」から民間人が毎日見ていて、何が秘密兵器ですかと文句を言ったら、教官も反発してこなかった。これで明日から外出が許可されるものと期待していたら違った。
「三笠」の方が立ち入り禁止になってしまった。
当時、少尉の基本給が80円くらいなのに、航海手当、危険手当などを加えて500円近く貰っていたが、ちり紙の役にも立たないと、給料袋のまま行李に放り込んでいた。毎月300円を国許へ送っている孝行息子もいた。
(20)艇の沈降試験
6号ドックで建造された海龍は、さまざまな検査を受ける。その中に沈降試験というのがある。海龍は設計上は100メート潜れるのだが、軍港の中ではそんなに深い所はないから30メートルくらい沈める。
艇の中に一人入り、ハッチを閉め、クレーンで前後を吊るして、沈めていく。ある予備学生が、その試験に立ち会い、艇の中に入り、潜望鏡で外を覗いて、作業員の動きを眺めていた。
艇が海中に沈んでいくと外は見えなくなる。致し方なく艇内の横を見たり、後ろを見たり足元を見たりしていた。
身体を戻した途端、頭の上から潜望鏡が水圧に押されて、ストンと足元に落ちてきた。足元を見ているときだったら、首の骨を折られるところであった。
(21)艦載機の襲撃と戦友の死
7月18日午後、艦載機の襲撃があった。島村がやられたという声で、訓練基地へ急いだ。10名ほどの遺体が格納庫風の建物の中に並べられていた。足を曲げたままのもあり、手を伸ばしたままのもあり、作業服を着たマネキン人形が横たえられているようで、悲しいとか、悔しいとか、怖いとかいった感情は全く湧かなかった。
俺も死ねばあんな格好になるのかなと思っていた。
後で状況を聞くと、14期甲飛の汽艇操舵訓練を終わって、指揮官の島村が訓示中に、やられたという。海龍に乗っていれば安全だったのに。
(22)横須賀に爆弾は落ちない
空襲が頻繁に来るようになった。南の空を見上げていると、10~15機くらいの横一列になった編隊が目に入る。来た来たと思っていると、その後ろにまた一列が来る。なんとその後ろに何列にもなって敵機が来るではないか。こんなに大量の飛行機が飛ぶ姿を日本の観兵式でも見たことが無かった。
基地の高角砲がすぐ近くでダンッダンッと射撃を始め、その砲弾の破片が落ちてくるようなので、防空壕に逃げ込む。
防空壕の中で「凄い数の敵機が来た」という話をしていたら、一人の下士官が「敵は横須賀には爆弾を落としませんよ」とアメリカの指揮官の様なことを言う。「占領後、横須賀を米軍の基地として使う積もりだから、破壊するようなことはしません」
この下士官は、もう日本が負けることを読んでいる。その点こちらは純情で、海龍で出撃することしか念頭に無かった。
鈴木貫太郎首相が基地を訪問しに来た。激励に来たものと当時は思っていたが、戦後読んだ歴史の本で、彼が終戦の機会を窺っていた事を知り、帝国海軍最後の戦力である特攻基地を視察して、その実力を把握するために来たのだと思う。天皇に、もはや海軍に戦力はありませんと報告したのだろうと思う。
(23)夜光虫を敵艦隊と見誤る
アメリカ軍は上陸の直前に徹底的な空襲をする。連日の空襲から、本土上陸近しと全軍が神経を尖らしていた。前線の見張り所もピリピリしていたであろう。8月1日夜10時、大島の見張所が東方海上一面に光るものを発見した。すわ、敵の大船団に間違いなしと全軍に「敵大船団、大島東方を北上中」と発信した。
これを受けて海龍も、教官連中は艇の出動準備を始めたが、間もなく(2日朝2時頃)[先の大船団は夜光虫の誤り」との連絡が入る。
昔、水鳥の羽音に驚いて退却した平家の話があるが、帝国海軍も落ちたものだ、亡国の兆候だと嘆かわしく思った。
(24)女を知らないで
大島東方の件は夜光虫の誤りであったが、敵部隊接近の情報は掴んでいたようで、「かって見ざる敵大輸送船団現る。本土上陸用に間違いなし。各人身の回りを整理し、出撃準備をなせ」という命令が来た。
荷物を行李に詰めながら「おい、俺が死んだら頼むぞ」と、ベッドの隣同士で約束する。
誰かが「おい、女も知らないで死ぬのかよ」と叫んだので、部屋中が大笑いになった。
軍隊に入る前に女を知っていればともかく、海軍に入ってからは、そういうチャンスは全くなく、ましてや三笠の一件を思い出しての大笑いであった。
戦後、映画やテレビで、特攻出撃の前に、女と遊ぶ場面が出て来ると、「ウッソー」と思った。そういうことをした部隊も有ったかもしれないが、横須賀にいた我々に関しては全くその気はなかった。
(25)出撃計画
身辺整理が終わると出撃計画の作成である。8月10日から20日頃までに、九十九里浜に敵が上陸するとの想定で、潮汐を調べ、東京湾に敷設してある味方の機雷原の位置を教わる。敵輸送船が来る前に九十九里浜沖で潜航して待つ。敵が来たら魚雷2本で2隻を撃沈、さらに体当たりでもう1隻という皮算用だが、前部燃料タンク(600l)の場所に火薬を詰めたので、後部燃料タンク(480l)だけでは片道の燃料すら足りない。
横須賀から九十九里浜まで約90~100浬(160~180KM)ある。これを巡航速度の時速5ノット(9KM/H)で進むと、18~20時間かかり敵の偵察機に知られてしまう。夜の間に移動を済ませようと7.5ノットで走ると、後部タンクだけでは90浬で重油はなくなる。そこで低圧タンク(350l)にも燃料を積んで、やっと5ノットでの帰りの燃料が残る計算になる。
どうせぶつかるのだから帰りの燃料は要らないということにはならない。敵が上陸予定地を変えたとか、上陸予定日を変更したとかで、敵と遭遇しなかったから横須賀まで帰ってこなければならない。
出撃計画を作りかけていると、乗る艇がないとぞという話になった。整備の済んだ艇は前進基地へ海上または貨車での陸送で出発しており、今横須賀には訓練用に使っている艇を含め20隻くらいしかない。1番の艇に特攻長、2番にXX大尉が乗ると勘定していくと、とても予備学生にまでは廻ってこない。こうなりゃ陸戦だと木刀を振り回す者もいたが、今までの1年間に亙る訓練が、いざというときに間に合わないと知ると何か空しかった。
(26)熱線爆弾、ソ連参戦、日本降伏の放送
8月6日、広島に原爆が落ちたが、当時海軍では新型の「熱線爆弾」と表現され、白い衣服を着ていれば被害が少ないと掲示があった。
9日ソ連参戦。アメリカという横綱クラスの攻撃を土俵際でこらえているのに、後ろからソ連横綱が襲い掛かって来ては、万事休すと思った。
10日夜、「通信隊に行ったら、アメリカ放送が日本は降伏したと言っている」という情報が流れてきた。謀略宣伝かとも思うし、それにしてもボツダム宣言とやらは何だ。
(27)大御心のままに
8月15日の玉音放送は、部隊全員が集まって聞いたが、よく聞き取れなかったし、天皇陛下の声の抑揚は我々とは違う独特の言い方なので、はっきりとは分からなかったが、全体として景気の好い声ではなかったし、「忍び難きを忍び」の所は聞き取れたから、前日のアメリカ放送の言っていた通り負けたらしいと、放送が終わってからは、黙々と各自の宿舎に引き揚げた。
ところが翌日になると厚木航空隊の零戦が飛んで来て、「戦うぞ」と決起を促すビラを撒いていった。それを受けて海兵出の士官の方から「終戦は陛下のご意志ではない。重臣たちを襲撃しよう。お前らはどう思うか」と作文を書かされた。適当に勇ましいことを書いて提出する。
1期上の予備学生が「大御心のままに」と書いたとかで、翌朝の食事に目の下を黒くして現れた。
機密書類の返却、焼却、海龍の武装解除とあわただしい日が続く。海龍の武装解除といっても主電路のヒューズを外すだけの操作だが、意識してか間違えてか、自爆装置を動かして、艇を爆破した奴がいた。600キロの火薬が爆発した後には、20センチくらいのクリーク(艇を繋ぐときに綱を掛ける金具)1個が桟橋に残っていただけであったという。
(28)早く帰れ
爆発事故があったり、8月15日以降の隊員の動きに不安を感じたのか、「お前達が残っていると、上陸してくるアメリカ兵に何を仕出かすか分からん。今支給してある物は全部遣る。早く帰れ」と命令が出て、8月23日柳行李を担いで隊を後にした。艇付がどこからかリヤカーを探して来てくれた。我々2人の前後も故郷へ帰る隊員の波であった。
第1部 海軍予備学生
第4章 横須賀嵐部隊 終り