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「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/3/18 8:29
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 宿願を達成して

 教官  本 川 栄 吉

 宿願達成の朝、記念すべき昭和四十五年十月十一日、夜来の暴風雨は一過し洗い浄められた村松の大地に、木々に、草々に朝の光がさん然と輝いた。前日までの悪天候が拭ったような快晴に一変したのである。誰しもが奇跡を思い厳粛に英霊のご加護を思わずにはおられなかった(ちなみに翌十二日は再び雨天に戻った)。
 全国少通連合会員その他の多くの人々、ならびにご遺族方の長年の念願協力が実を結び、今ここ村松少通校々舎を見下ろす丘の上に戦没陸軍少年通信兵の慰霊碑が姿を現した。
 真新しい碑前に高々と奉読されゆく懐かしい一九九柱のご氏名が萬感を伴って耳朶《じだ》を打つ。天地の間この声のほかに声なく粛々として神気あたりを払う。ご遺族の、そして会員の体が打震え感動の涙が頬を伝う。この一瞬のために歩んできた長い道坂のこと、この日を待たずに逝かれた方々のことがふと頭をかすめる。
 献花の列が長々と続く。わが子、わが兄、わが弟のおもかげを偲び菊花を捧げて深々と拝まれるご遺族、校友の名を呼び微哀を花に託す会員。碑前を埋め尽した菊花が英霊の勲《いさお》を讃えて秋空に馨る。
 自衛隊音楽隊によって力強く少年通信兵の歌が奏せられ、四〇〇余名の大合唱が練兵場の澄み切った空気をゆり動かし愛宕の山にこだまする。
 東亜に誇る日の本の
 皇国の楯と選ばれて‥‥‥…

 ああこの歌が絶えて二〇有余年、思えば長い忍従の年月であった。今こそ再び思い出の山河に少年通信兵の歌がとどろく。
 在天の英霊よ聞こしめせ、兄等と共に歌ったこの歌を 白山よ、菅名岳よ、早出川よ、歓喜して我等の歌に和せ。
 草深き校舎に生色甦《よみが》えり、校門の老松懐旧の念いに哭《な》く。秋晴れの村松平野に繰りひろげられた一幅の絵巻物のような除幕式、それは私の戦後における最も幸福な、また充実した一ときであった。

 (むらまつ第六号収載)


前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/3/18 8:34
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

  陸軍少年通信兵軍歌

 一.東亜に誇る日本(ひのもと)の 皇国の楯と選ばれて
   厚き皇恩(めぐみ)に浴しつつ 聖諭(おしえ)の道を堂々と
   只一誠に進まなん
 二、学の庭の起き伏しも 父母の情と師の恩を
   若き心に憶(おも)ひつつ 精励刻苦ひとすじに
   励め少年通信兵
 三、平戦両時絶間なく 坦(担)(にな)ふ任務は皇軍(みいくさ)の
   心を結ぶ統帥に 軍の安危はかかるなり
   磨けよ磨け我技術
 四.国に仇なす敵あれば膚(はだえ)をつんざく冱寒(ごかん)にも
   鍛へし腕(かひな)に乱れなく打つ電鍵の音冴えて
   星影高し空中戦(線)
 五.懸軍万里野を征けば 鉄をも溶かす酷暑にも
   研きし技の甲斐ありて 飛電一閃遠近に
   交はす電波に狂ひなし
 六.契(ちぎり)を籠(こ)めし稚木に 萬朶(ばんだ)を誇れ桜花
   仰ぐ操は靖国の 英魂(みたま)慕ひて戦路(いくさじ)に
   散るべき秋(とき)を忘るるな
 七.任務は重く道遠く 月日の脚に明日(あした)なし
   只一心に必通の 信念(おもい)は我等が身の運命(さだめ)
   鍛へよ少年通信兵 伸びよ少年通信兵
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/3/19 8:24
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 六.最後の慰霊祭を終えて

 先年、靖国神社で「英霊に捧げる花嫁人形展」が開催され、様々に美しく着飾った人形が数多く展示されていましたが、それを見たときの私の気持ちは複雑でした。「青春」とは何かも知らず「花嫁」とは無縁で逝った少年兵たち――それだけに、彼等に対する愛惜の情は一入深く、毎回熱誠を込めた慰霊祭が続きましたが、その慰霊祭も始めのうちこそ参列されるご遺族には、ご両親やご兄弟姉妹のお姿が数多く見受けられましたが、年を重ねるに従って段々ご両親の数が減り、遂にその大半がご兄弟姉妹のほかは甥御さんや姪御さんが占めるようになりました。また、これを主催する私ども関係者自身、全員が喜寿を超え、果たして何時まで続けられるか危ぶまれる状態になり、協議を重ねた結果、残念ながら平成十三年の慰霊祭をもって最後とし、以後は毎年十月十一日を「慰霊の日」と定め、自主慰霊に切り替えることを申し合わせるに至りました。

 ここに掲載したのは、その最後の慰霊祭を主催された連合会の渡邊哲夫会長代行から寄せられたものです。


 慰霊祭を終えて

 全国少通連合会会長代行  渡 邊 哲 夫

新潟県中蒲原郡村松町、村松公園の丘に 戦没陸軍少年通信兵の御霊《ごりょう=みたま》が鎮《しず》まります。この地この碑が 少通魂の凝縮であり、少通魂に生きる我々の故郷でもあります。去る十月十一日、平成十三年度慰霊祭典が二百六十一名のご参加のもとに、荘厳かつ盛大に挙行されました。皆様の御支援ご協力、まことに有難うご座居ました。主管事務局を代表し、心から御禮と感謝を申し上げます。

 連合会主催による最終の慰霊式典と覚悟は決めていたが、感慨が乱れます。天は諒《まこと》とされたのか秋晴れが救ってくれました。過去三十一年の間、数次の慰霊式典は雨天による中断は皆無であります。まさに天佑神助《てんゆうしんじょ=注1》、御霊のお助けと信じます。今回も前日の荒天は嘘の如く好天に恵まれました。慰霊碑も、町ご当局のご配慮と、事務局員諸兄の前日の夜間、当日の早朝に至るご努力により素晴しい化粧が施こされました。朝日に燦然《さんぜん》と映える碑を拝し、暫し佇み、これからの慰霊のこと、碑の存続にかかわること等々に思いを致し、ふと我に帰り四時間後に迫った慰霊式典に全力で臨むべく宿舎に戻った次第。

今回の式典後の直会《なおらえ》、懇親会も、始めて会場を新潟市に設営し実施しました。皆様方の旅行計画等に配慮した次第ですが 従来の懇親会と雰囲気が一変し、非常に和やかなうちに懇談が進められた様に思われました。私も会員とそしてご遺族様との数多い会話が出来、その中で今までになかった沢山の情報も頂けましたことを深く感謝しております。今後の慰霊行事は十月十一日を期して自主行動による申合せでありますが、懇談の雰囲気から多数の方々の参集が期待出来るのではないかという予感を覚えました。今后は限りを尽くし慰霊に邁進《まいしん》する勇気も頂きました。

 連合会は十三年中に、最後の慰霊祭の記念品の送達、さきにご賛同頂きました慰霊基金の処理、等を進め、更に傘下少通会の状況を踏えて、残務の処理等、連合会本部の一部残置を配慮しつつ当分の間の活動が必要と心得ております。以上最後の慰霊祭の終了所見等を述べてご報告と致します。      ――以下・略――
 
 (平一四・二―第九号収載)


(注)
 全国少通連合会は、解散に当って村松町当局に対し、これまでの多年にわたるご厚誼に感謝する趣旨で若干の寄付を行いましたが、これに関連し、渡邊会長代行は、同年十二月二十日付文書で、次のように会員に周知しました。
 「今後の最大の問題でありました慰霊碑敷地の供用存続問題でありますが、去る十二月十日村松町役場に於いて、町長以下三役御立会いの席上で、村松公園の施設として、 将来にわたる安堵を力強く表明して頂きました。
 風光明媚《めいび》な村松公園台地に、将来にわたり鎮座、輝きわたる事が再確認されたのであります。連合会として、長い間の懸案が払拭され、欣快《きんかい=注2》の至りであります。」

注1 天佑神助=天の助けと神のたすけ

注2 欣快=非常にうれしい

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/3/20 8:24
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 七、慰霊祭に思う

 昭和四十五年に始まった慰霊祭は、平成七年までは五年毎に「合同慰霊祭」として、また、それ以後は隔年毎に「年次慰霊祭」として営まれましたが、上記のように村松碑については平成十三年の慰霊祭を以てその幕を閉じました。
 ここには、それらの思い出を綴った岡本勝造氏の「追悼」のほか、慰霊祭に参加されたご遺族から寄せられた声の一部を掲載します。また、地元誌に村松にお住まいの小島ヒサイ様の「サヨナラ電車・私の青春」が載っていましたので、十一期生の最後を看取った生き証人の文章として転載させて頂きました(因みに、当時の蒲原鉄道(村松←→五泉間)については、昭和二十年が大雪だったため、一月二十六日、その除雪作業を全中隊総出で行ったことが記録に残っています。)。


 追 悼

 十一期  岡 本 勝 造

 滑らかな筆致、素晴しいかな文字の書簡を受取ると、私の女房はいつも「私もこの位に書けたらね」と羨望《せんぼう》と感嘆の言葉を発する。この書簡を受け始めて、早や二十年の歳月が流れ、かれこれ七十通近くも受信している、御霊のお導きによって永いこと文通が続いている。
 今年の祭典が恙《つつが》なく終了した或る日、郵便受けから出した三通の中に入っていた書簡。発信は上総一宮の椎名マサヱさん、詳しく申上げれば同じ内務班で苦楽を共にした、今は亡き椎名恵太郎君のご令妹である。開封して見たら慰霊祭のお礼状と共に、古い茶封筒が入っていた。表には椎名磯松殿と毛筆で達筆にしたためられ、其の横に赤い公用のスタンプが押され、裏面を見ると村松陸軍少年通信兵学校長、高木正實の印の押されたものだった。それは学校長差出しの戦死公報であった。まだ任地に着く前の戦死のため、学校長名で通達がなされたものと思われた。
 恵太郎君!明晰《めいせき》な頭脳と、誠実温厚、思いやりのある性格が、いつしか同班の者より厚い信望を得るとともに、入校以来半年を経ずして上官の認めるところとなり、選ばれて十二期生の指導生徒となり、優れた下級幹部となるため、日夜研鑽《けんさん》を重ねて居られたが、昭和十九年十一月南方要員として繰上げ卒業し、風雲急を告げる南方戦線に向かったのである。
 出陣の朝、元気よく笑って「では先に行くよ」といって訣別した時の想い出が、今髣髴《ほうふつ》として脳裡に蘇《よみがえ》って来る。
 門司港から秋津丸に乗船し、勇躍壮途について間もなく、五島列島沖において、好餌とばかり襲いかかって来た、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて撃沈され、艦と運命を共にしたのである。房総の浜辺に育ち、泳ぎ達者であった彼が、若し甲板付近に位置していたら、或は他の 今浜辺に近い墓地には、亡きご尊父が遺族年金を手付けずに貯えて建立されたという、陸軍伍長椎名恵太郎之墓という立派な墓石が建ち、先年お詣りしてご冥福お祈り申し上げたが、其の後雑用に追われて機会なくご無沙汰している。

 生前ご尊父が大事に保管されていた、一通の戦死公報と共に肌身離さず持って居られてすり切れた一冊の手帳に、水漬く屍となって何一つ戻らなかった、恵太郎君の体の分身として、守られて来たご尊父の一人しかいない男子を失った落胆のご様子と思慕のご心情が察せられ、戦争の冷酷非情を改めて痛感させられた。戦争によって敵味方双方とも、春秋に富む有為の若人の、尊い命を散華させたのである。悲惨な戦争に比し、平和の有難さ尊さをしみじみと感じさせられる。

 先般五島列島、東支那海の眺望される、平戸島鯛の鼻高原に建立された、海没少年通信兵の霊碑の序幕慰霊祭には、お二人の令妹が揃って出席され、五島の海に向って亡き兄を偲び、追慕の祈りを捧げて居られる姿に、戦争の傷跡はいつまでも消えるものではないと痛感させられた。そしてまた今年の村松公園の、四たびの合祀並び一に慰霊祭に参加され、追悼の祈りを捧げられた。
 また此のように追悼供養のため、毎年の参詣会や五年に一度の慰霊祭ご出席の、兵庫の楠木さん、いわきの吉田さん、越後三条の大久保さん、輪島の升田さん、群馬の唐沢さん、山形の五十嵐さんや、そのほか数多くの方々に、同じようにいつまでも癒えない傷跡を感じるのである。然し今迄毎回の行事に参加されていた老いたる福島の佐藤クラさん、名古屋の玉村夕子さんは既に息子さんの御霊のもとに走り安らいで居られる事と思う。

 此の度の慰霊祭でご挨拶された楠木さんが 「私は戦争で弟を失いましたが、それによって沢山の兄弟友人を得ました」と申されましたが、私達も少通会の組織を通じて、戦没者調査を行い、慰霊祭、参詣会の行事を実施するため文通し、又出席し数多くのご遺族、会員の方々に知己を得て、ご厚誼をいただいている。これからも、声亡き戦友の声を基軸にして、三所一系の交信を続け、ご親交を深めていただき、亡き戦友の追悼供養を続けていきたいと思っている。

 (昭六一・二―第四号収載)
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/3/22 7:32
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 第一回慰霊祭の想い出と
      少通会の皆様への感謝

 松 谷 茂

 十一期 故松谷昭治氏令弟

 既に二十五年前となりますが、昭和四十五年十月十一日、村松公園で慰霊碑が建立され、その除幕式を兼ねた第一回慰霊祭を行っていただきました。
 我々遺族は、戦死した子や兄弟との心の再会の機会を与えて頂いたこと、ここに至るまでの役員の方や会員の方々の御尽力が如何ばかりであったかを考え、ただ感謝の念で一杯でした。
 私も、七十才の母と出席させて頂きました。当日は、まず一部残っていた旧校舎を見学しました。私は、三歳の昭和十九年十一月に両親に連れられ、この学校に、兄との最後の面会に来た記憶がかすかにあり、校舎の窓は遠い記憶のそれだと感じました。母は、あたりに落ちている松かさを黙って拾っておりました。
 村松公園の慰霊祭には、当時はまだ、親御さんも大分出席されており、厳かな中にも、深い悲しみも満ちておりました。

 犠牲者の名前を一人一人呼び上げられた、青山事務局長さんの張りのある凛とした声が切々と今も甦《よみがえ》って来ますし、戦友代表の方の言葉も、万感胸に迫るものでした。
 式典終了後は、近くの体育館で懇親会が開かれ、同じ区隊出身の方や、それまで、文通で知り合った方々とも初めてお会いできました。
 懇親会終了後解散となりましたが、母がもう一度石碑にお参りしたいと言うので、再び公園に戻り、碑の前に立ちました。既に人影はなく、除幕式に使った竹や縄が風に揺れて寂しげでした。
 碑前に膝を付き、深々と頭を垂れて一心に祈る老いた母の姿は、子を失った親の悲しみを表して余りあり、思わずシャッターを押していました。
 ひるがえって、今次大戦の数百万の犠牲者の一人一人に両親、子供、兄弟があり、その方々全てが同じ悲しみをお持ちであることを考えると、胸がつまります。
 生き残った者は、このことを、戦争を知らない世代に強く伝えていく責任を負っていると信じます。

 第一回慰霊祭以降も、少通会の皆様の献身的な御尽力により、五年毎に開催される外毎年の参詣会、さらには、長崎県平戸の慰霊祭等も行っていただいていること。そして、これらの御尽力の全てが、再び戦争を起こさせてはならないとの強い信念に貫かれていることを思うとき、遺族として、心から感謝を申し上げる外に術はありません。

 (平八・四―第七号収載)


 想 い

 伊 藤 ミツイ
  十一期 故田所水氏令姉

 深緑の候となりしのぎ良い季節となり、皆様には御健勝にて御活躍の事とお喜び申し上げます。此の度「かんとう少通六号」の発刊により投稿の御依頼をうけ、なにか書かなくてはと思いながらあまりにも長い年月が過ぎてしまい、記憶を取り戻そうと思い出しても弟の子供の頃の姿と、凛々しい軍服姿が交互に入りまじり、複雑な気持ちでございます。
 皆様の御尽力により慰霊碑建立並びに度々の慰霊祭を行っていただき、心から厚く御礼申し上げます。

 今日亡き母に代わりまして「一言」書かせて頂きます。三年前八十九才で他界しました。弟が他国で亡くなった事を聞いても、人前では決して涙を見せぬ母でしたが、心の中ではどんなにか辛かった事でしよう。でも本人が選んだ道ですから仕方ありません。風の便りによれば栄養失調でとか、親心はどんなに辛かったことかと思います。

 「もしかして ひょっこり帰った我が子みて、力一杯抱きしめて、腹一杯食べさせて、ゆっくり休めと母心」
 こんな文章では投稿となりませんが、今の気持ちは精一杯でございます。今後の御活躍を心からお願い致します。

 (平三・一〇―第六号収載)


 慰霊祭にて

 秋 元 米 子
   十一期 故深井治郎氏令姉

 碑の前に額ずき祈る会員と
         遺族の背なのみな丸く見ゆ
 生きおらば白髪しるき年ならむ
         遺影の弟は今も少通兵
 戦争を人類の持つ業と聞く
         世界の平和を祈る日々にて
 激動の昭和を想う十二月八日
         語る人らの少なくなりぬ
 被爆者の嘆きは消えぬ長崎に
         みどり色濃く木草茂れり
 半世紀長き暗闇曳きづりし
         慰安婦証言聞くも哀れぞ
 不気味さの背筋走りし原爆絵図
         再びなかれと心に刻む
                 
 (平八・四―第七号収載)


 慰 霊

 峰 岸 たい子
  十一期 故久保田要七氏令妹

 村松の丘に秋風爽々《さわさわ》
         慰霊碑由来碑ならぶ御前に
 軍帽をまぶかにかむり童顔の
         兄は志願し十九で逝けり
 碑の前に五百余人の参列に
         慰霊の祭り戦友の手に成る
 五十年亡き戦友偲ぶ歌声の
         胸にさしくる少通兵の歌
 何時訪ふも香華絶えぬと村松に
         昭和の白虎隊とぞ守り給える
 早う卒え壮途の船に沈みたる
         無念を惜む戦友の辞に泣く
 沈みたる海を遥《はる》かな平戸にも
         岬に慰霊碑建てし給える

 (平八・四―第七号収載)
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/3/23 7:35
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 亡き兄を偲んで

 小 島 鈴 子
   東京十一期 故出口修氏令妹

 私の兄、出口修は、東京十一期生です。私と兄は四才違いで、神戸で生まれました。兄が七才、私が三才の時に、母が亡くなり、祖父母、父、そして私の五人の生活で、私達は祖母に育てられました。
 幼い時から、兄は心優しくて、家族に心配かけない物わかりの良い子供だった様です。地元の高等小学校を卒業し、叔母の経営する写真館を継ぐために、そこに見習いに入りました。その頃、毎日の様に出征兵士の家族が写真を撮りに見える度に、自分も予科練に志願したいと考えていた様ですが、仲々父に言い出せず、せめて父の心配の少ないと思われる、通信兵ならばと、内緒で願書を出し、そして合格通知を見た父が、一言、「お前は幼くして母に死に別れ、私はお前に、今まで何もしてやれなかった。今お前が一番やりたい事が、通信兵志願なら頑張って見よ」と言ったと、後になってその話を叔母から聞きました。

 少年通信兵学校での生活は、兄の遺した日記でしか、私には知ることが出来ませんが、繰り上げ卒業で、帰郷した折り、父が兄のために、大阪高嶋屋で日本刀を買い求めました。母のいない兄のため、父は自分の締めていた角帯をほどいて、一針、一針、日本刀の袋を作るため、夜も寝ないで朝までかかって縫っていたのを私は憶えています。どんな思いを込めて縫っていたのか、今考えると胸がつまります。

 その父の愛を身につけて、出発していった兄、頑張って、お国のためにと送り出した父。そしてあの九州は長崎の五島列島沖で、本懐も遂げず、海の藻屑《もくず》となってしまったのではないかと思いますと、兄の口惜しさを、慰霊祭に出席する度に思い浮かべます。

 戦後五十年が経過した今日、日本が何時までも平和であるよう、二度と戦争のないよう、心から願い、又そうであるよう、声を大にして叫びたいと思います。

 (平八・四―第七号収載)


 サヨナラ電車・私の青春

 村松町  小 島 ヒサイ

 私は農家に生まれ、親は小作人《注1》、金もない貧乏暮らし。
 ある日の事、叔父が鉄道の主任でもあり、私を薦めて蒲原鉄道に入社させてくれました。
 大東亜戦争《=太平洋戦争》の真只中だったので、男の方は出征して居らず、女の運転手でした。とは言っても、なかなかなれず、一年間は毎日のように電車の油ぬり、窓ガラス拭き。顔中油にまみれ、其れは其れは口では言い表せないくらいの辛さでした。一つ一つ機械を覚え、電車の屋根に登りパンタグラフを直し、手には何時もハンマー。危険は身についていました。
 若さと勇気があり、自信は一杯あり、やがて一年間の講習も終え、試験にもパスして、手には白い手袋、私にとってはやり甲斐のある職場でもあり、反面、大勢の命を預かる責任重大なお仕事でした。

 今でも、一生忘れる事の出来ない思い出があります。
 それは昭和十九年秋。電車の窓ガラスには黒いカーテン、頭には必勝と書いたハチマキをして、品物の無い時代でしたからゾウリを履いての運転でした。私は電車二両編成で加茂駅まで村松通信学校を卒業して出征する若い兵隊さんを運びました。
 百名位だったと思います。特攻隊でした。車中スクラムを組んで歌っているではありませんか。歌声は「貴様と俺とは同期の桜」の歌でした。
 私は振り向くと、同じ年頃、十八・九才の美少年達でした。急に熱いものが胸にこみ上げてきて、涙が止めどなく流れ、涙しての運転でした。そんな切ない思い出があります。

 やがて終戦となり、帰らぬ人々の御霊が愛宕山の「戦没陸軍少年通信兵慰霊碑」にあります。
 生き残りの方が五年に一度位全国からツアーで来られます。
 その方々が、偶然に私の家に立ち止まり「たしかこの辺は練兵場だった」と話され、「ああそうだった、戦地に向かう方々を加茂迄乗せて運転した女運転手は私です」と言ったらビックリされました。
 あれから五十有余年の歳月が過ぎ去っており、白髪の目立つ方もおられ、「次の慰霊祭にぜひお会いしましょう」とお別れしました。

注1 小作人=地主に小作料(米や麦などの農作物の一部を小作料とする)を支払って田畑を借りて営農する農家 

 (平一二・四―第八号収載)


 写真集
 (写真の上をクリックすると拡大写真がごらんいただけます。)
 












































 あ と が き

 村松での訓育の十一期生に与えた大きさを踏まえ、敢えて誌名を「村松の庭訓を胸に――平和の礎となった少年通信兵」としました。お読みくださって、先の大戦下、村松少通校における訓育の実態と慰霊碑の由来など、ご推察いただけましたでしょうか。
 思えば、散華した十一期生と私たち十二期生とは、入校時期の僅か半歳の差がその後の運命に天地の懸隔をもたらしました。総てに優れていた先輩たちのこと、せめて戦争の終結が一年早かったら、と悔やまれてなりません。
 然らば、生き残った私たちは何を為すべきか。去年の春、そんな思いを抱き碑前で瞑想に耽《ふけ》っていた私の前に一組の夫婦が通り掛かりました。流石《さすが》の村松桜もまだ三分咲きとあって人影も疎らな中での会話でしたが、碑の由来については全くご存知なく、私の説明に大変驚いておられました。
 ここにおいて、私は翻然として悟りました。現地のお方にして斯くの通り。戦後六十余年、すっかり忘却の彼方に追いやられてしまった戦争の悲惨さ不合理さを史実に基づいて正しく後世の伝えること、それが語り部としての私たちに課せられた使命であり、平和の礎として散っていった先輩たちに捧げられる唯一の餞《はなむけ》ではないのか、と。――これが本紙誕生の動機になりました。
 しかし、どこまでこうした願いが盛り込めましたかどうか。この点、十一期生の受難は五島列島沖、済州島沖の遭難に止まりません。頁数の制約はあっても、もう少し、言語を絶した比島戦線での記述を増やし、さらにシベリア抑留の過酷な実態に触れるべきではなかったか、と反省しています。
 とまれ、昨今のわが国の世情には道義の退廃を始め目に余るものが多々あり、英霊の、自分たちが身を挺して護ろうとした祖国はこんな筈ではなかった、とそんな悲痛な声が聞こえてきそうな気さえ致します。
 編集を終えるに当たって貴重な機会の与えられたことに感謝するとともに、温故知新、本紙をお読みくださった皆様に改めて思いを当時に馳せて頂けたらこれに過ぎる喜びはありません。

 村松の 山川さらば 出陣の 胸に祖国の 平和希いて (故松谷昭二氏母堂・松谷千代様)


(付記)
 本文に記しましたように、村松碑をめぐる慰霊祭は、一応平成十三年の合同慰霊祭を以て終幕し、以後は十月十一日を「慰霊の日」とする自主慰霊に切り替わりましたが(平戸島碑については継続)その後村松では、平成十五年六月から半歳に亘って村松教育委員会による「村松陸軍少年通信兵学校特別展」が郷土資料館で開催され、多くの参観者に恵まれました。
 また諸般の事情から慰霊碑等の建立が見送られた東京校についても、本年(平成二十年)七月から九月まで東村山のふるさと歴史館において「企画展・陸軍少年通信兵学校」が開催され、賑わいました。
 なお、慰霊碑の所在等は次のとおりです。

村松慰霊碑
 所在地 新潟県五泉市 村松記念公園
 交通  1R磐越西線五泉駅からタクシー二五分
     又は新潟駅から村松行き高速バス一時間

平戸島慰霊碑
 所在地 長崎県平戸市 鯛の鼻自然公園
 交通  平戸市市街地からタクシー三〇分


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 村松の庭訓を胸に
    平和の礎となった少年通信兵

       二〇〇八年一〇月刊行(非売品)
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