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「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・24

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通常 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・24

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/3/20 8:24
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 七、慰霊祭に思う

 昭和四十五年に始まった慰霊祭は、平成七年までは五年毎に「合同慰霊祭」として、また、それ以後は隔年毎に「年次慰霊祭」として営まれましたが、上記のように村松碑については平成十三年の慰霊祭を以てその幕を閉じました。
 ここには、それらの思い出を綴った岡本勝造氏の「追悼」のほか、慰霊祭に参加されたご遺族から寄せられた声の一部を掲載します。また、地元誌に村松にお住まいの小島ヒサイ様の「サヨナラ電車・私の青春」が載っていましたので、十一期生の最後を看取った生き証人の文章として転載させて頂きました(因みに、当時の蒲原鉄道(村松←→五泉間)については、昭和二十年が大雪だったため、一月二十六日、その除雪作業を全中隊総出で行ったことが記録に残っています。)。


 追 悼

 十一期  岡 本 勝 造

 滑らかな筆致、素晴しいかな文字の書簡を受取ると、私の女房はいつも「私もこの位に書けたらね」と羨望《せんぼう》と感嘆の言葉を発する。この書簡を受け始めて、早や二十年の歳月が流れ、かれこれ七十通近くも受信している、御霊のお導きによって永いこと文通が続いている。
 今年の祭典が恙《つつが》なく終了した或る日、郵便受けから出した三通の中に入っていた書簡。発信は上総一宮の椎名マサヱさん、詳しく申上げれば同じ内務班で苦楽を共にした、今は亡き椎名恵太郎君のご令妹である。開封して見たら慰霊祭のお礼状と共に、古い茶封筒が入っていた。表には椎名磯松殿と毛筆で達筆にしたためられ、其の横に赤い公用のスタンプが押され、裏面を見ると村松陸軍少年通信兵学校長、高木正實の印の押されたものだった。それは学校長差出しの戦死公報であった。まだ任地に着く前の戦死のため、学校長名で通達がなされたものと思われた。
 恵太郎君!明晰《めいせき》な頭脳と、誠実温厚、思いやりのある性格が、いつしか同班の者より厚い信望を得るとともに、入校以来半年を経ずして上官の認めるところとなり、選ばれて十二期生の指導生徒となり、優れた下級幹部となるため、日夜研鑽《けんさん》を重ねて居られたが、昭和十九年十一月南方要員として繰上げ卒業し、風雲急を告げる南方戦線に向かったのである。
 出陣の朝、元気よく笑って「では先に行くよ」といって訣別した時の想い出が、今髣髴《ほうふつ》として脳裡に蘇《よみがえ》って来る。
 門司港から秋津丸に乗船し、勇躍壮途について間もなく、五島列島沖において、好餌とばかり襲いかかって来た、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて撃沈され、艦と運命を共にしたのである。房総の浜辺に育ち、泳ぎ達者であった彼が、若し甲板付近に位置していたら、或は他の 今浜辺に近い墓地には、亡きご尊父が遺族年金を手付けずに貯えて建立されたという、陸軍伍長椎名恵太郎之墓という立派な墓石が建ち、先年お詣りしてご冥福お祈り申し上げたが、其の後雑用に追われて機会なくご無沙汰している。

 生前ご尊父が大事に保管されていた、一通の戦死公報と共に肌身離さず持って居られてすり切れた一冊の手帳に、水漬く屍となって何一つ戻らなかった、恵太郎君の体の分身として、守られて来たご尊父の一人しかいない男子を失った落胆のご様子と思慕のご心情が察せられ、戦争の冷酷非情を改めて痛感させられた。戦争によって敵味方双方とも、春秋に富む有為の若人の、尊い命を散華させたのである。悲惨な戦争に比し、平和の有難さ尊さをしみじみと感じさせられる。

 先般五島列島、東支那海の眺望される、平戸島鯛の鼻高原に建立された、海没少年通信兵の霊碑の序幕慰霊祭には、お二人の令妹が揃って出席され、五島の海に向って亡き兄を偲び、追慕の祈りを捧げて居られる姿に、戦争の傷跡はいつまでも消えるものではないと痛感させられた。そしてまた今年の村松公園の、四たびの合祀並び一に慰霊祭に参加され、追悼の祈りを捧げられた。
 また此のように追悼供養のため、毎年の参詣会や五年に一度の慰霊祭ご出席の、兵庫の楠木さん、いわきの吉田さん、越後三条の大久保さん、輪島の升田さん、群馬の唐沢さん、山形の五十嵐さんや、そのほか数多くの方々に、同じようにいつまでも癒えない傷跡を感じるのである。然し今迄毎回の行事に参加されていた老いたる福島の佐藤クラさん、名古屋の玉村夕子さんは既に息子さんの御霊のもとに走り安らいで居られる事と思う。

 此の度の慰霊祭でご挨拶された楠木さんが 「私は戦争で弟を失いましたが、それによって沢山の兄弟友人を得ました」と申されましたが、私達も少通会の組織を通じて、戦没者調査を行い、慰霊祭、参詣会の行事を実施するため文通し、又出席し数多くのご遺族、会員の方々に知己を得て、ご厚誼をいただいている。これからも、声亡き戦友の声を基軸にして、三所一系の交信を続け、ご親交を深めていただき、亡き戦友の追悼供養を続けていきたいと思っている。

 (昭六一・二―第四号収載)

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