「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・23
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「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」 (編集者, 2009/2/8 9:23)
- 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・2 (編集者, 2009/2/10 8:10)
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- 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・10 (編集者, 2009/3/4 8:25)
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- 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・17 (編集者, 2009/3/12 8:22)
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- 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・19 (編集者, 2009/3/14 9:05)
- 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・20 (編集者, 2009/3/17 7:45)
- 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・21 (編集者, 2009/3/18 8:29)
- 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・22 (編集者, 2009/3/18 8:34)
- 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・23 (編集者, 2009/3/19 8:24)
- 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・24 (編集者, 2009/3/20 8:24)
- 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・25 (編集者, 2009/3/22 7:32)
- 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・26 (編集者, 2009/3/23 7:35)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
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六.最後の慰霊祭を終えて
先年、靖国神社で「英霊に捧げる花嫁人形展」が開催され、様々に美しく着飾った人形が数多く展示されていましたが、それを見たときの私の気持ちは複雑でした。「青春」とは何かも知らず「花嫁」とは無縁で逝った少年兵たち――それだけに、彼等に対する愛惜の情は一入深く、毎回熱誠を込めた慰霊祭が続きましたが、その慰霊祭も始めのうちこそ参列されるご遺族には、ご両親やご兄弟姉妹のお姿が数多く見受けられましたが、年を重ねるに従って段々ご両親の数が減り、遂にその大半がご兄弟姉妹のほかは甥御さんや姪御さんが占めるようになりました。また、これを主催する私ども関係者自身、全員が喜寿を超え、果たして何時まで続けられるか危ぶまれる状態になり、協議を重ねた結果、残念ながら平成十三年の慰霊祭をもって最後とし、以後は毎年十月十一日を「慰霊の日」と定め、自主慰霊に切り替えることを申し合わせるに至りました。
ここに掲載したのは、その最後の慰霊祭を主催された連合会の渡邊哲夫会長代行から寄せられたものです。
慰霊祭を終えて
全国少通連合会会長代行 渡 邊 哲 夫
新潟県中蒲原郡村松町、村松公園の丘に 戦没陸軍少年通信兵の御霊《ごりょう=みたま》が鎮《しず》まります。この地この碑が 少通魂の凝縮であり、少通魂に生きる我々の故郷でもあります。去る十月十一日、平成十三年度慰霊祭典が二百六十一名のご参加のもとに、荘厳かつ盛大に挙行されました。皆様の御支援ご協力、まことに有難うご座居ました。主管事務局を代表し、心から御禮と感謝を申し上げます。
連合会主催による最終の慰霊式典と覚悟は決めていたが、感慨が乱れます。天は諒《まこと》とされたのか秋晴れが救ってくれました。過去三十一年の間、数次の慰霊式典は雨天による中断は皆無であります。まさに天佑神助《てんゆうしんじょ=注1》、御霊のお助けと信じます。今回も前日の荒天は嘘の如く好天に恵まれました。慰霊碑も、町ご当局のご配慮と、事務局員諸兄の前日の夜間、当日の早朝に至るご努力により素晴しい化粧が施こされました。朝日に燦然《さんぜん》と映える碑を拝し、暫し佇み、これからの慰霊のこと、碑の存続にかかわること等々に思いを致し、ふと我に帰り四時間後に迫った慰霊式典に全力で臨むべく宿舎に戻った次第。
今回の式典後の直会《なおらえ》、懇親会も、始めて会場を新潟市に設営し実施しました。皆様方の旅行計画等に配慮した次第ですが 従来の懇親会と雰囲気が一変し、非常に和やかなうちに懇談が進められた様に思われました。私も会員とそしてご遺族様との数多い会話が出来、その中で今までになかった沢山の情報も頂けましたことを深く感謝しております。今後の慰霊行事は十月十一日を期して自主行動による申合せでありますが、懇談の雰囲気から多数の方々の参集が期待出来るのではないかという予感を覚えました。今后は限りを尽くし慰霊に邁進《まいしん》する勇気も頂きました。
連合会は十三年中に、最後の慰霊祭の記念品の送達、さきにご賛同頂きました慰霊基金の処理、等を進め、更に傘下少通会の状況を踏えて、残務の処理等、連合会本部の一部残置を配慮しつつ当分の間の活動が必要と心得ております。以上最後の慰霊祭の終了所見等を述べてご報告と致します。 ――以下・略――
(平一四・二―第九号収載)
(注)
全国少通連合会は、解散に当って村松町当局に対し、これまでの多年にわたるご厚誼に感謝する趣旨で若干の寄付を行いましたが、これに関連し、渡邊会長代行は、同年十二月二十日付文書で、次のように会員に周知しました。
「今後の最大の問題でありました慰霊碑敷地の供用存続問題でありますが、去る十二月十日村松町役場に於いて、町長以下三役御立会いの席上で、村松公園の施設として、 将来にわたる安堵を力強く表明して頂きました。
風光明媚《めいび》な村松公園台地に、将来にわたり鎮座、輝きわたる事が再確認されたのであります。連合会として、長い間の懸案が払拭され、欣快《きんかい=注2》の至りであります。」
注1 天佑神助=天の助けと神のたすけ
注2 欣快=非常にうれしい
先年、靖国神社で「英霊に捧げる花嫁人形展」が開催され、様々に美しく着飾った人形が数多く展示されていましたが、それを見たときの私の気持ちは複雑でした。「青春」とは何かも知らず「花嫁」とは無縁で逝った少年兵たち――それだけに、彼等に対する愛惜の情は一入深く、毎回熱誠を込めた慰霊祭が続きましたが、その慰霊祭も始めのうちこそ参列されるご遺族には、ご両親やご兄弟姉妹のお姿が数多く見受けられましたが、年を重ねるに従って段々ご両親の数が減り、遂にその大半がご兄弟姉妹のほかは甥御さんや姪御さんが占めるようになりました。また、これを主催する私ども関係者自身、全員が喜寿を超え、果たして何時まで続けられるか危ぶまれる状態になり、協議を重ねた結果、残念ながら平成十三年の慰霊祭をもって最後とし、以後は毎年十月十一日を「慰霊の日」と定め、自主慰霊に切り替えることを申し合わせるに至りました。
ここに掲載したのは、その最後の慰霊祭を主催された連合会の渡邊哲夫会長代行から寄せられたものです。
慰霊祭を終えて
全国少通連合会会長代行 渡 邊 哲 夫
新潟県中蒲原郡村松町、村松公園の丘に 戦没陸軍少年通信兵の御霊《ごりょう=みたま》が鎮《しず》まります。この地この碑が 少通魂の凝縮であり、少通魂に生きる我々の故郷でもあります。去る十月十一日、平成十三年度慰霊祭典が二百六十一名のご参加のもとに、荘厳かつ盛大に挙行されました。皆様の御支援ご協力、まことに有難うご座居ました。主管事務局を代表し、心から御禮と感謝を申し上げます。
連合会主催による最終の慰霊式典と覚悟は決めていたが、感慨が乱れます。天は諒《まこと》とされたのか秋晴れが救ってくれました。過去三十一年の間、数次の慰霊式典は雨天による中断は皆無であります。まさに天佑神助《てんゆうしんじょ=注1》、御霊のお助けと信じます。今回も前日の荒天は嘘の如く好天に恵まれました。慰霊碑も、町ご当局のご配慮と、事務局員諸兄の前日の夜間、当日の早朝に至るご努力により素晴しい化粧が施こされました。朝日に燦然《さんぜん》と映える碑を拝し、暫し佇み、これからの慰霊のこと、碑の存続にかかわること等々に思いを致し、ふと我に帰り四時間後に迫った慰霊式典に全力で臨むべく宿舎に戻った次第。
今回の式典後の直会《なおらえ》、懇親会も、始めて会場を新潟市に設営し実施しました。皆様方の旅行計画等に配慮した次第ですが 従来の懇親会と雰囲気が一変し、非常に和やかなうちに懇談が進められた様に思われました。私も会員とそしてご遺族様との数多い会話が出来、その中で今までになかった沢山の情報も頂けましたことを深く感謝しております。今後の慰霊行事は十月十一日を期して自主行動による申合せでありますが、懇談の雰囲気から多数の方々の参集が期待出来るのではないかという予感を覚えました。今后は限りを尽くし慰霊に邁進《まいしん》する勇気も頂きました。
連合会は十三年中に、最後の慰霊祭の記念品の送達、さきにご賛同頂きました慰霊基金の処理、等を進め、更に傘下少通会の状況を踏えて、残務の処理等、連合会本部の一部残置を配慮しつつ当分の間の活動が必要と心得ております。以上最後の慰霊祭の終了所見等を述べてご報告と致します。 ――以下・略――
(平一四・二―第九号収載)
(注)
全国少通連合会は、解散に当って村松町当局に対し、これまでの多年にわたるご厚誼に感謝する趣旨で若干の寄付を行いましたが、これに関連し、渡邊会長代行は、同年十二月二十日付文書で、次のように会員に周知しました。
「今後の最大の問題でありました慰霊碑敷地の供用存続問題でありますが、去る十二月十日村松町役場に於いて、町長以下三役御立会いの席上で、村松公園の施設として、 将来にわたる安堵を力強く表明して頂きました。
風光明媚《めいび》な村松公園台地に、将来にわたり鎮座、輝きわたる事が再確認されたのであります。連合会として、長い間の懸案が払拭され、欣快《きんかい=注2》の至りであります。」
注1 天佑神助=天の助けと神のたすけ
注2 欣快=非常にうれしい