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水上特攻・肉弾艇「震洋」 体験記

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2009/3/9 16:38
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
はじめに

 スタッフより

 この記録は「甲飛だより」83号、84号、85号からの転載です。

 なお、転載に当たっては 
  第14期甲種飛行予科練習生
  埼玉県甲飛会 事務局長
    小 島 啓 三 様 の 
 のご了承をいただいております。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

水上特攻・肉弾艇「震洋」
 体験記①  高部  博(13期)

 大艦巨砲主義《注1》に押され、また、太平洋の荒波には不適というために、余り積極的でなかった日本海軍の魚雷艇、それが、昭和17年11月ソロモン海戦が終わった頃から、その必要性が叫ばれるようになった。
 ベニヤ板張りのモーターボートに250キロの炸薬を艇首に詰め、敵の揚陸部隊(艦船)目がけて多数で突入しようという震洋艇の計画は、戦局の急迫とともに着々と実行に移され、19年4月から急造された震洋第1号艇は、5月27日に完成した。
 そして、これらの搭乗員は海兵出身者《注2》や予備学生出身《注3》の若い尉官が隊長となり、各艇は予科練出身者で全部これを固め、「敵襲ござんなれ」と待ち受けたのは、確かに太平洋戦争の最後を飾るものであった。

  「選 択」

 昭和20年の2月末に飛練教程を修了した偵察員《注5》が、数百名ほど土浦海軍航空隊に集まってきた。我々13期後期より2カ月早く昭和18年10月に入隊した13期前期の甲飛生《注6》達だった。
 彼等は、昭和19年6月に予科練教程を卒業し、「飛行練習生」となって上海、青島等の航空隊で「飛練教程」《注7》に進み、厳しい実地訓練を8カ月も積み、いわゆる「練習生」を完全に卒業してこれから実施部隊で、実用機《注8》の訓練に入ろうとする飛行兵が、突然数百人も土浦空《土浦海軍航空隊》へ帰って来たのである。
 厳しい戦闘で飛行機の消耗が激しくなったことは、同時に搭乗員も多く失っているわけである。その補充には年単位の時間が必要なのに、もう実用機に乗れるようにまでなった搭乗員を足踏みさせるとは、と疑問に思うのは当然である。
 昭和20年になった頃の航空兵力の実態は、航空戦での消耗に加え、空襲による各地の被害等で飛行機の生産力は極端に低下していて、飛行機の第一線への補充も思うように出来ない状況に陥っていた。
 また、燃料の欠乏も甚だしく、航空機用の燃料の不足はどうにも出来ない状態となっていた。
 その頃には既に、「特攻攻撃」《注9》 に参加して戦死している先輩搭乗員はかなりの数に上っていたし、我々同期の者も何人かが飛行機以外の特攻兵器で戦死していた。
 彼等は昭和19年8月予科練卒業と同時に、「飛行機でない特攻兵器」 に志願して行った者達である。
 既に、本土決戦のシナリオが進められており、昭和20年の5月からは全教育機関が、教育の停止《注10》となり、全員が戦闘要員となった。
 「予科練」も例外ではなく、全員が本土防衛(陸戦を含み) の中に組み込まれ、いわゆる「一億総特攻」の体制下に置かれることになった。
 海軍では、昭和19年から20年にかけて、「飛行予科練習生」を大量採用した。名称は「飛行予科練習生」だったが、特攻兵器要員に向けられた。
 昭和20年4月中旬に特攻要員の募集があり、躊躇することなく志願した。
 本土空襲は激しくなり沖縄にまで、敵機が及んでいる状況となっては、新しい道をとらなければ今まで予科練で培ってきたものが、全て無駄になってしまうのではないかと、迷う気持ちを一応は整理した。
 予科練訓練中に操縦か偵察かに判定する適性検査がある。殆どの者は飛行機の操縦員になることを熱望し、夢に見ていた。
 その適性検査に希望どおり合格して、憧れの操縦員としての基礎訓練も受けていたので、自分ではあくまで飛行機の操縦員になれるものと信じていた。だから、飛行機乗りになるんだという、その願いを完全に捨てることに少しの迷いもなかったと言えば嘘になる。
 4月下旬のある日、特攻要員を希望する者の中から最終的に選抜する面接が行われた。
 面接担当官は「金子分隊士」《注11》と本部士官の2名で、真剣な顔付きで待っていた。
 家族状況の確認から始まり、両親が健在で兄があり兄弟が多くて、農家の次男坊となればもう言うことなしと、自分で勝手に決めていた。特攻要員となる意志の確認があり、兵器は「マル四」であると告げられた。
 「特殊兵器」と言うものの、それ自体人間を組み込んだ爆弾か魚雷と考えた方が判り易い。従ってその要員には予め死が約束されていたわけである。
 「マル四」は別名「震洋」と呼ばれる水上艇で頭部に爆薬を積み、水上で敵の艦船に体当たりし、それを爆破し沈めるために使用する「小型快速艇」位の知識は何となく持っていた。
 船体は木造で外板はベニヤ板、エンジンはトヨタの自動車エンジンを転用、1人乗りが全長5・1米、2人乗りはエンジン2基で全長は6・5米、その頭部に250瓩の爆薬を搭載した小型船。その小型船に乗って敵艦船に体当たりし、250瓩の爆薬を爆発させて敵船を撃沈させるというもので、飛行機特攻のような華々しい配置ではない。
 「是非お願いします。いずれ死ぬものと覚悟はしております。どうせ死ぬのなら・・・」と、そこまで言ってしまった。「どうせ死ぬのなら」は、まずかったと気が付き、一息ついた時、金子分隊士の顔が一瞬綻びたように見えた。
 そこで肩が急に楽になり、自分の気持ちを何とか説明することができたと思った。
 その時まだ16歳だった。
 「国の為に一命を捧げて尽くしたいから・・・」等と、勇ましい言葉を並べたようだが、実際は「国の為」などという崇高な確固たる信念から言ったような記憶もないし、親や兄弟の為になどと言った覚えも残っていない。
 数日後、金子分隊士から特攻要員に決定した旨の話があった時には、何故かほっとした。
 若さ故か、「死」というものに対する恐怖感や、人生についての悩みなどは全く持っていなかったので、特攻要員に決まっても殆ど平常と言っていい心境でいたようだ。それを「悟り」と言う人もいるだろうし、「諦め」だと言う人もいるかも知れないが、通常の神経では耐えられない心の葛藤を淡々と乗り越えられたのは、純真な若さと予科練という環境が与えてくれたものが大きかったに違いない。

  「出 発」

 昭和20年4月22日、特攻要員に選抜された者は、司令部前に集合し、全員で写真を撮った後、思い出多い土浦航空隊を後にした。
 特攻要員としての出発だったので見送りの無い目立たない出発だった。勿論行き先は知らされていなかった。
 海軍の別れの時の「帽振れ」 には、儀礼の意味のほか特別な感情が込められていて、独特な思いがあることを強く感じたのは、九州の基地で、沖縄へ特攻出撃する魚雷艇を見送った時である。
 生還することがないと判っている乗組員達に向けて振っていた帽子が、船が遠ざかるに従って次第に重くなり、耐え切れなくなってきた。
 しかし、我々震洋部隊の出撃は、夜間でしかも隠密裡の出撃になる筈だ。誰一人見送る人の無い中の出発となる。だから当然「帽振れ」はない。
 最終的に自分の進む方向が「水上特攻」に決定し、任務が具体的に明確になったことで、自分の命をかける結果がどうなるかなどと、悩み迷う必要はなくなり、かなり精神的に余裕も出てきた。
 山梨の田舎で農業をしている父は体が丈夫な方でなく、兄は私が予科練に入ってから出征した。姉は東京の軍需工場で働いていて、家には幼い妹と弟が4人もいたため、面会に来てもらうのは無理だと判っていたので、予科練入隊後1回も面会に来てもらったことはなかった。
 退隊当日、土浦駅まで見送りに来てくれた同期生と堅い握手を交わし、一般の入場規制をしたホームの専用列車に乗り込み出発を待っていた。間もなく発車になろうという時、突然「高部飛長《注12》は居るか」と呼び出されて、ホームに出て驚いたことに、そこに父と姉が立っていたのである。
 列車の出発間近の慌ただしい僅かな時間だったのがよかったのか、案外さっぱりしていたようだ。肉親に会えるのもこれが最後になるのかなどという、感傷が湧いたような記憶もない。
 戦後10数年ほど経った頃、何かの折にその時の話が出て、姉よりその折のことを詳しく聞かされ、初めてそうだったのかと思い出したくらいである。
 土浦航空隊から「現地出発面会ヲ許可スル・・・」との通知が届いた。航空隊から直接の通知だからと、早速父が東京の姉と連絡を取り2人で土浦まで駆け付けたが、途中手間取り航空隊に着いた時には、我々はもう出発した後だった。
 衛兵所《注13》の衛兵が時計を見て「今から急げば何とか間に合うかも知れない」と、隊門前の道を指差し「とにかくあそこで、どんな車でも良いから止めて土浦の駅まで乗せてもらえ」と、教えてくれた。
 航空隊からの「現地出発・・・」の通知書を見せると、すぐに乗車券を売ってくれたという。そんな通知書をちらつかせながら、親切なトラックに土浦駅まで乗せてもらい、入場規制しているホームに駆け込み、私の車両を探してもらい何とか辿り着けたとのことだった。
 父が私に小遣いをくれるというのを断り、逆に私が持っていた金を出して「もう使い道が無いから」と言って、父に渡したのを姉は記憶しているという。それから間もなく列車は出発した。父親はこれが最後の別れになるかも知れないと思っていたに違いないが、その時の父の表情などは全く思い出せない。
 東京駅でかなり時間があるということで靖国神社に参拝した。
 東京駅を出発したのは暗くなつてからだった。列車の出発を待っている時、金子分隊士が突然訪ねて来て、「今日香取神宮まで行って来た」と言いながら、香取神宮のお守りを渡してくれた。  
その時お守りを貰ったのは、同期の「宮沢恒一、宮坂三夫、原田定雄、宮崎俊雄、上田静夫、赤坂行夫」と私を入れた7名だった。金子分隊士が担当していた100分隊の隊員だった。
 その後、特攻訓練が始まってからも時々 「浜マデハ海女モ蓑着ル時雨哉」と聞かされた。
 いざ、というその時までは体を、命を、大切にせよ、という教訓である。その時のお守りは、忘れられない記念品の一つとして、今も大切に保管している。
 戦後40年ほど経った時に、大学の教授をしておられた金子分隊士の消息が判ったので (編注・鎌倉市在住)、戦友会に出席してもらった。その時、「震洋特攻へ行った者がどうなったかずっと気になっていた。7人のうち君達2人に (宮沢と高部) 会うことができ、また、他の5人も内地の基地で勤務し、戦死者が無かった様子なので安心した。よかった」と、非常に喜んでくれた。
 そんな上官の心中など知る由もなく、当時の私達は若さからか、「特攻要員」となることを、かなり素直に受け入れていて、心の中で悩んだりはせず、かなり淡々としていたので、その話を聞き、上官としての苦悩の大きさを知り、反省したものだった。
 東京駅から我々の専用列車は貨物線路を走ったり、駅に停車してもホームの無い線路上だったりで、密かな行動を裏付けていた。暗い夜を列車はひたすら西へ西へと走り続けた。
 京都で一時停車し、若干の時間があったので許可をもらい、「宮坂」に広島へ電報を打つことを勧め、電報局を探して何とか電報を打つことができた。宛先は呉海軍病院である。「宮坂」も今回土浦へ面会に来て貰えなかった者の一人だったが、温和でも芯の強い彼は面会できなかったことなどおくびにも出さなかった。
 いつ頃の事だったか、「宮坂」がある日突然呼び出され司令室へ行くことになった。何千人もいる練習生が直接司令室に行く用件などあるはずはないし、海軍大佐の司令に直接会うなど意外な出来事なので皆が心配していたら、何とそれが面会だった。
 「宮坂」 の父親は医官で海軍の将官だったので、司令室での面会となつたわけだ。でもそこは司令室、親子の面会の話などはできず、顔を合わせたのみで早々に引き上げたという。そのことで我々は初めて「宮坂」が海軍中将の息子と知って驚いた。
 その時「宮坂」の父親は呉の海軍病院の院長だったので、連絡がつけば広島駅で会えるのではと期待して、広島駅で手分けして探したが、とうとう面会は叶わなかった (戦後元気で再会できたと聞きよかったと思っている)。
 どの辺りを走っていた時か、関門トンネルを過ぎてからと記憶しているが、行き先は九州の大村湾に面した「川棚魚雷艇訓練所」と告げられた。
 飛行兵の我々にとって、海軍航空隊なら多少の情報はあったが、「魚雷艇訓練所」等の予備知識は全く無かったので、若干戸惑いが生じたが、すぐにそんな感情は消えて、場所など何処であろうと、特別な期待も不安も必要ない心境になっていた。
 博多をかなり過ぎていたと思う辺りで、一面に菜の花が咲き揃い黄色に染まった広い丘が目に飛び込んできた。その時の光景は今でも脳裏に焼き付いている。
 これから特攻訓練に行くことさえ忘れ、しばし茫然と眺めていた。土浦航空隊の桜も美しかったが、この時見た菜の花畑から受けた「特別な美しさ」は生涯忘れられないものになつている。

注1:1906年以降1920年代まで 世界の海軍がその主力たる戦艦の設計・構造方針に用いた考え方で 戦艦が海軍力の基幹主力として最重要視され 攻撃の主力たる主砲に巨砲を備えるに至る
注2:海軍兵学校出身者
注3:大学卒業者から志願で 予備学生を採用し 現役兵学校出身者に対する 予備役士官の事
注4:海軍少尉 中尉 大尉等の士官
注5:航空機搭乗員でナビゲーターを担当する者
注6:甲種飛行予科練習生
注7:基礎教程終了者が第二課程として練習機による飛行訓練
注8:実際戦闘に参加する飛行機
注9:特殊攻撃兵器で(人が操縦し敵艦に体当たりする)攻撃する
注10:「戦時教育令」に基ずく非常体制下で 国民学校初等科を除き原則として学校における授業は停止し 各学校単位で国防に従事させた
注11:海軍の部隊編成組織に 分隊があり 大尉級(古参中尉を含む)を分隊長とし 配下に小、中尉級の分隊士が複数配置された
注12:海軍の階級に 下から二等水兵、一等水兵 上等水兵 兵長
があり 担当科目毎に 兵科は兵長 飛行科は飛長 整備科は整長等と称していた
注13:部隊に出入りする人等を 監視 検問する兵のたまり場
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
体験記②(「甲飛だより」第84号)

  「訓 練」

 付近に人家等全く無い所で、板張りの仮設ホームの「川棚駅」に着いた。
 いよいよ最後の訓練が始まるのかと少々緊張し、衣嚢《いのう=注1
を担いで通った隊門に「川棚臨時魚雷艇訓練所」のほかに「川棚嵐部隊」の名前が掲げられていた。
 嵐部隊とは「突撃隊」を表す呼び名で、いわゆる特攻部隊を指すものだと教えられた。
 隊内は木造の建物が殆どで、兵舎を始め基地全体が暫定的な設備のようで殺風景、これが実施部隊の姿かと緊張感に包まれた。
 とうとう「土浦海軍航空隊」から九州の特攻基地へ着いた。いよいよ最後の仕上げをする地に到着したわけである。
 訓練期間は2カ月と聞いていたが、その後、何処の基地へ行き、どうなるのか知る由もない、ただ自分が進んで行く方向は一つに決まっているんだ、と自分自身に言い聞かせ、ひんやりした兵舎に入った。
 兵舎は、木造平家で内壁も張ってない本当のバラック建て、土間の通路の両側が畳敷になつている大広間で間仕切りがない。土空や三重空等の本格的兵舎との違いを見て、また異様な切迫感を覚えた。
 隊門に魚雷艇訓練所とあったが「震洋艇」 の訓練もやっている。しかし、沖縄に近い此処は実戦基地だった。何しろ敵が沖縄まで来ているため、この基地からも時折魚雷艇が沖縄海域へ向けて出撃して行く、第一線と同じ緊張感に包まれていた。
 年齢も古稀を過ぎた今となっては、川棚の訓練所に着いたその時の心境は思い出そうとしてもなかなか思い出せない。割合淡々としていたような気がする。
 若者ばかりの集団で、「特攻」を当然と受け入れて来ていたので、「さあ特攻訓練だ」というような気負ったものはなく、ましてや悲壮感などまるでなかったように思う。ただ確実に言えることは、その時、既に一つの悟りのようなものを持っていたのではないかと思う。
 「特攻訓練は自分が死ぬための訓練である」。これは正常の感覚ではなかなか理解できないことだが、当時そのことに全く疑問を持たなかったのは、一つの救いだったかも知れない。
 予科練の訓練は、体力、気力、知識作りだったが、ここ「川棚」での特攻訓練は実戦に必要な事柄、つまり如何に確実に敵の艦艇に体当たりし、それを沈めるか、その技倆を身につけることだけである。
 したがって、余分なことは全て切り捨て、最低限必要なことを体得すればよいとしていた。その体当たりの技術を習得しなければ目的の遂行が出来ない。つまり犬死になりかねない。しかも2カ月という短期間内に習得しなければならないので、訓練はかなり密度の高い厳しいものだった。
 震洋艇による行動訓練や襲撃訓練は、夜間や雨天など悪条件の時が実戦に即しているとされていたので、座学は昼間、実技は夜間が多く、夕刻出航で帰着が夜中になっても、翌日は定時総員起《起床》こしである。そんな時の座学はまず睡魔とも戦わなければならなかった。しかし、必要な知識は身に付けておかないと、自分の生命が直接危険に曝され、攻撃前に一命を失うことになりかねない。そうなると、折角の「特攻」という使命が達成出来なくなるので真剣だった。不幸にして艇が故障して漂流した時も何とか生き延びるのだと、生き延びるための最低限の知恵まで教えてくれた。
 艇に取り付けてある羅針盤には、約1リットルの純粋のアルコールが入っていて飲用になること、フンドシを使って魚を釣る方法など、意外な程命を大切にすることを教えられた。
 その後も「浜マデハ海女モ箕着ル時雨哉」と、繰り返し言われたことも今でも時々思い出す。
 また、訓練以外の作業もあった。訓練艇の燃料搭載作業は一苦労、横穴の燃料庫からドラム缶を転ばして桟橋まで運び、自分達が使用する艇への燃料を補給する作業だ。これは重労働でしかもアルコール酔いとの戦いである。艇のエンジンは、自動車のエンジンを使用しているので、通常ならガソリンを使うのだが、この時期にはもうガソリンは欠乏していて、訓練用に回すガソリンなど無かったので、訓練には代用燃料のアルコールを使用していた。
 200リッター入りのドラム缶は、中身がアルコールでもかなり重い。雨で濡れた坂道などは2人でも言うことを聞いてくれない。方向転換は特に難しい。雨合羽を泥だらけにして悪戦苦闘、ようやく桟橋に到着、いよいよ燃料の搭載である。
 1隻に1回100リッター程でよいのだが、ポンプなど気の利いた物は無いからホースを使う。ホースを口で吸い、アルコールが出てきたら素早く艇のタンクに注ぎ込むようにする。だが、このタイミングが難しい。アルコールが口に入ったら大変である。
 それでなくても燃料搭載作業は、数十隻が一斉に行っているので、アルコールの臭気が桟橋付近に立ち込めていて、それを吸い込んでフラフラの状態になりかけているのだから。ドラム缶の運搬や燃料の搭載などにどうして自動車やポンプを使用しないのかと思ったが、この時期急造基地にはそんな設備を備える時間がなかったのか、或いはそのような設備を備える余力が、もう日本に無かったのかも知れないなどと、妙な納得をしながら自分達が使用する艇の燃料搭載に取り組んだものだった。
 過密な訓練で怪我もあったと聞いている。艇に搭載する12糎ロケット散弾の実射訓練がある。その訓練の前にロケット弾の構造と固体燃料を含めた座学と組み立て実習をやり、終了後艇に搭載し、ようやく出航となる。
 撃発信管《注2》は出航直前に火薬庫から受け取るのだが、それを受け取って帰る途中転倒し、持っていた信管が発火して左手の指3本を失った者がいたとか。
 人身事故以外はかなりあった。襲撃訓練で標的艦に衝突して艇を破損して沈めたり、艇相互の接触で艇に穴を開け、浸水で沈めたり、特に航行中エンジントラブルで帰投不能になるケースは多かった。
 しかし、そんな事放では叱られたことは殆どなかった。特に襲撃訓練で標的艦に衝突した場合などは、攻撃精神旺盛と誉められこそすれ叱られることはなかった。
 自動車エンジンの機構を始め、故障の修理方法は教わった。飛行機のエンジンを習っているので、構造にはそれほど苦労はなかったが、海水の影響をまともに受けているエンジンは、電気系統の故障が多発したので、それにはかなり悩まされた。
 通常訓練には2人乗船なので若干心強かったが、どの艇も酷使して疲れ切っており、何時故障するかと冷や冷やだった。
 訓練初期にはエンジンのコントロールに先ず苦労した。何しろ自動車エンジンを使用しているので、アルコールの燃料ではなかなか調子が出ない。慣れるまでチョーク《注3》とスロットル《注4》の兼ね合いが難しい。しかも、艇ごとに癖があり、手加減が違う。
 スピードコントロールがうまく出来なければ、編隊行動など思いもよらない。必死でチョークとスロットルレバーを握る。
 変速ギヤが無いし当然後進も無い。慣れないうちは桟橋へ衝突し、艇を破損する事故もあった。
 チョークの感覚をのみ込み速度のコントロールに慣れ、艇の行き足や進路変更時のカンが身に付いた頃には、訓練も半ばを過ぎていた。特に夜間の訓練で航行不能になると、通信手段が全くないので一時的に行方不明になる。
 エンジンが故障すると修理するのは一苦労、何とか修理に挑戦するが、修理工具や照明器具など満足にない暗い海上で、波に揺られながらでは思うようにはならない。何しろエンジンが海水の影響を受け、電気系統は弱っているので修理は容易ではない。
 自力での修理が不能な時、戦時中この特殊訓練海域は漁船さえ入れなかったので、捜索船か仲間が発見してくれるのを待つ以外方法はなかった。
 夕刻出航し大村湾を半周して、夜明け前に「亀の浦」基地に入港する航行訓練は散々だった。
 丁度梅雨の季節で、当日は雨風が相当あり、実戦訓練向きとされるような夜だった。
 予定の4隻で一グループを作るべく桟橋を離れた後、なるべく早く編成予定の仲間が近寄ろうとするのだが、夕刻の薄暗さと雨に遮られてグループ艇の判別が難しく、たった4隻の集合だが意外と手間取った。一斉に出航した約50隻の艇は、どの艇も同じ色で同じ大きさ、雨合羽を着ている乗員は皆同じに見え、夜間ではどれがグループ仲間の艇か判別は極めて困難だった。
 実戦では相互の連絡手段は必要ないので、この訓練でも連絡方法は重視せず、リーダー艇に懐中電灯、他の艇には呼び笛のみだった。
 懐中電灯の発光信号は、波に揺られ雨に遮られ、呼び笛のモールス信号も、途切れ途切れで相手に届かない。見通しがあれば手信号を使えるが、暗夜ではそれも役に立たず。
 出航して左手の岬を過ぎた辺りから、風は強くなり、波も高くなった。その辺りまで来ると、各艇の性能差の影響も出てくるようになり、更に波に波に揉まれ雨に視界を遮られ、次第次第に離れ離れとなり、お互いを見失う事になってしまった。
 訓練に使用している艇は、皆酷使したもので調子はそれぞれ違っている。しかも燃料はアルコールなので、これぞという時に力を出してくれない。それに海水の洗礼も受けているエンジンは、電気系統の故障が起きない方が不思議なくらいだった。
 こんな悪条件下で艇が故障したら大変である。故障だけはしてくれるなと祈りながら、必死になってハンドルにしがみ付いていた。
 故障で暗闇の海上に取り残されたら、大村湾内ではあるが、手漕ぎボート程の小さい艇を発見するのには時間がかかる。
 捜索が始まるのは明日昼頃だろう。飛行機による捜索など絶対にない。そうなると飲まず食わずで波に翻弄されながら、20時間くらいは頑張らなければならなくなるぞ、と言い聞かせ、夢中で予定コースと思われる方向へ艇を走らせた。勿論風雨の暗夜で陸地の影など全く見えない。
 羅針盤があるので方向は判るが、小舟が波に挟まれていては、方向を一定に保つ事は困難であるし、危険でもある。速度感も狂ってしまう。たとえ速度計があったとしても、波に翻弄されていてはどの位の距離を走ったのか全く判断ができない。方向も、速度も、距離も不正確のまま未知の海域で山勘の盲目航行となってしまった。
 どの辺りをどう走ったか判らないまま、夜明けまで走り廻っていたが、とうとう目的地へ到着出来なかった。
 薄明るくなつてようやく見え出した山の稜線から判断して、「亀の浦」 への方角を見定め、ずぶ濡れで震えながらもほっとして全速で艇を走らせた。結果は、皆単独航行の形となり、夜明けになつてからの帰投となつた。訓練成果の講評は散々だったが、途中故障した艇も無く全員無事だったことを皆で喜んだ。
 訓練終了間近に実施された、「面高基地」へ回航する「総合訓練」では、肝を冷やした事故を経験した。経路は、川棚訓練所を出航した後、大村湾の北部を横断して「針尾の瀬戸」を通り、佐世保湾の入口を躱(かわ)して、西へ向かい西海岸を南下すると、間もなく面高湾があり、その湾内に「面高基地」がある。そこが目的地。
 行程は40海里程だが、途中に難関の 「針尾の瀬戸」がある。
 針尾の瀬戸は、航行の難所として有名なところで漁船等の遭難も多く、ベテランの船頭でも潮時が悪ければ絶対に通らないという。潮の干満の時には大村湾の海水が、この狭い針尾の瀬戸を出入りするので、水面に段差が出来、所々に渦巻きが起きるほど激しい流れとなる。
 両岸は断崖絶壁で退避場所は無い。しかも、コースを少し外れた所では、海水は渦を巻き、船を翻弄し、岩壁に叩き付けようとする。そんな危険な瀬戸である。今は「西海橋」が架かり、景勝の地で知られているが、当時は橋も無く、交通の難所で、その頃遭難した船があったが、遺体は発見出来なかったと聞いていた。
 2人乗りで出航した我が艇は快調で、「針尾の瀬戸」に入った。この調子ならこの瀬戸も無事乗り切れるものと、安心していた時の突然のエンストである。
 特に注意されていたその「針尾の瀬戸」で、「エンスト」を起こしてしまった。
 今までの訓練でもエンストを起こした事はあるが、何とか修理して自力で帰投していたので、今回も修理しようとしたが、激しい潮流に艇は流され、右側の岩壁があっと言う間に迫って来た。故障箇所を調べる余裕など全く無い。一瞬の猶予も出来ない。同乗の伏島兵曹と2人で急いで小さな櫂と、こんな時のためにと用意してあった竹竿を持ち、全身の力を込めて岩肌を突っ張った。
 岩壁に艇が叩き付けられたら、ペニヤ板製の艇はひとたまりもなく破損沈没してしまう。兎に角岩壁に叩き付けられないようにするしか方法が無い。必死になつて岩壁を突っ張った。頑張った。5米程の船だが強い流れに押されていると、かなりの圧力を受ける。艇の沈没即遭難では遣り切れない。
 何時の間にか艇の向きが逆方向に回り始めたが、それを止めようがなかった。この瀬戸では流れが速く、岩壁側には渦流が起こると教えられていた。その逆流は意外と強く、逆らうことは不可能だった。
 こうなったら岩壁との体力勝負である。どの位経ったのか救援艇が来て、曳航が始まった時には、2人とも口もきけない程疲れ果て座り込んでしまった。
 瀬戸の中間辺りに小島がある。その島のため、その周辺は特に潮の流れが激しく複雑であるから、と特別注意があった、その手前でのエンストだったのである。
 同様のケースが3件あったほか、艇を沈没させた事故もあった。エンストを起こした艇を見た指揮官の乗った艇が、急遽駆け付けたが、潮の流れが激しく複雑だったためか、指揮官艇が故障艇に激突、故障した艇は破損沈没してしまった。
 震洋艇は、敵の船舶に体当たり攻撃をかけ、その衝撃で艇の前部が破損したら、そこに仕掛けてある電気回路が通じて電気信管を作動させ炸薬に点火し、更に積んである250キロの爆薬を爆発させる仕組みのため、艇は壊れ易く作ってある(注=衝突で爆発しない時のため、手動操作で撃発信管を作動させる装置も用意されていた)。
 この回航で、震洋艇の訓練教程は終了した。
 2カ月の訓練はあっと言う間に過ぎた。殆ど無我夢中で「死ぬ訓練」に没頭していたわけだが、終わってみると何となく爽やかだった。
 最後に気になつたのは、転勤先の基地が何処になるのかだった。最終の地が何処になろうと同じ事だと判っていても、何となく早く知りたかった。
 その基地から遅かれ早かれ出撃する事になる。そして、その地へは再び戻って来る事はないものと承知していても、その場所が何処になるのかが気になった。

注1:海軍の下士官 兵が衣服等を収納する 布袋
注2:衝撃で爆発する信管
注3:燃焼させる燃料の混合比を一時的に高めるよう調節する装置
注4:流体の流れを絞ったり開放したりするレバー
注5:船の場合 エンジンを止めても駄足で進む力
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

  「進 出」

 訓練は終了した。編成も決まり、部隊の名は「第59震洋隊」と言うが、何処に所属するかは知らされない。あとは最後となる地へ向けて出発の命令を待つのみだ。
 「身辺は出来るだけ綺麗にしろ」と言われて成程と納得。2カ月前担いで来た「衣嚢(いのう)」へ洗面用具等を放り込めば、終わってしまう程身の回りの整理は簡単である。兵舎内の清掃を含め瞬く間に終了した。
 手紙を出すことも出来ないし外出もない。誠にさっぱりしたものだった。
 転出先の基地が何処になるかが矢張り気になる。
 明日にも出撃命令が出るかも知れないような最前線基地か、それとも未だそれ程緊迫していない基地か、どちらにしろ結果は同じで、ただ時間の差があるだけだ。そんな事は判っていると言いながらも、何となく早く知りたいところに若さが残っていたようだ。
 関東方面らしいとの噂が出て、九州や関西方面出身者は残念がり、関東、東北方面出身者は喜んだ。
 しかし、もう休暇で家に帰る事や、親に会うなど出来ない事を理解していても、少しでも故郷に近い所が何故か安心感を持たせてくれる。
 表面は、人生を達観したような態度をとっていても、人間らしさと言うか人並みの感情は失われてはいなかった。
 いよいよ出発が決定してから雰囲気は一変した。これから自分達が使命を果たすための具体的な行動に移るわけで、訓練中とは全く違った集団となつていた。
 今までに体得した技能を国の為に如何に発揮するかだ。出撃命令が出たら生還は無い。この祖国を護るために、親兄弟のために、一命を捨てるのだと純粋に心に誓った若者になつていた。
 この頃にはもう死に対しての不安や恐れは完全に乗り越えていた。
 「特攻訓練」を終了した事で高等科の特技章を貰った。
 海軍では、下士官と兵はそれぞれ相当する職務について専門教育を受け、その技倆で、普通科と高等科に分けて「特技章」を与えていた。普通科は一重桜、高等科は八重桜のマークを左腕に付けた。
(編注=昭和17年勅令第611号により改正されたもので、以前は各科毎に異なるマークであった。)
 このマークは言わば優れた技能を持つ者の印で、かなり評価されていた。その八重桜を付けた事で一段と自覚が高まっていた。
 (編注=階級章も統一されて、右腕に付けた。兵種識別は、階級章の中に桜マークの色メタルを付した。兵科-黄色、機関科・工作科-紫色、飛行科-青色、整備科-緑色、主計科-白色、看護科-赤。技術科-蝦(えび)色、軍楽科-藍(あい)色)
 川棚臨時魚雷艇訓練所を出発する予定日の前、佐世保軍港を狙った空襲があったので、行動計画に若干の変更があったが、米を運んできた運搬船に便乗して翌日の早朝佐世保へ。桟橋から線路伝いに歩いて直接ホームヘ上がった。
 佐世保の被害は部分的だったようだが、今まで空襲など直接経験した事が無かったので、空襲の凄まじさを目にして、受けたショックは大きかった。
 戦況が深刻になっている状況を肌で感じて、我々の任務の重要さを再認識した。
 この時、佐世保に実家があった同期の井出清澄兵曹の家族の事を皆で心配したが、無事を確認出来てほっとした。
 佐世保から博多まで一般車輌を利用。博多駅では4時間程待機。専用車輌を増結した貨物列車で深夜に出発した。
 専用車輌は我々部隊員のみ、艇隊長と搭乗員他を含めても60名程、生死を共にする「最後の仲間」達だけの移動で、何となく落ち着いた気分だった。
 途中通過した駅があるかと思うと、何時間も停車する駅もあり、空襲で被害にあった駅や焼け跡の生々しい町を目にしながら、行き先も知らないまま列車に身を任せていた。
 どの辺りだったか記憶に残っていないが、線路上に停車していた時、かなり離れたホームに女子学生の一群を見付けて手旗信号で呼び掛けてみた。あの頃の学校では手旗信号を教えていたようで、すぐに手旗信号で応答してきた。皆で歓声を上げ、他愛ない言葉を交わして停車時間を楽しんだ。
 そんな些細な事だったが今でも覚えているのは、相手が年齢も近い女子学生だったためか、厳しい軍隊生活の中で今まで味わえなかった解放感があったからか、その時第1艇隊長高橋俊少尉(予備学生法科出身)が、何事も無いような態度で居てくれたためか。今思うと、青春時代の思い出としては何とも他愛の無い事だったが、これが16・17歳で死を約束した、特攻隊員の人生の一齣かと考えと、うら悲しい気にもなる。
 大阪を過ぎて早朝大津に到着した。昭和20年7月2日の早朝だったが、「滋賀空」から握り飯の差し入れがあった。弁当を運んで来てくれたのは、滋賀空の14期生だった。隊員の中に顔見知りが居てお互い奇遇を喜んでいた。
 列車は品川止まりだった。夜に入ってはいたが、高橋艇隊長の号令で、50人がそれぞれの衣嚢を担いで線路を横断し、隣のホームヘの移動を強行した。秒単位の行動でアッと言う間に隣のホームに駆け上がり整列、3日間の車中で溜まっていたものを瞬時に発散させた。
 電車を乗り換えお茶の水へ。お茶の水で乗ったのは貨物列車の最後尾に増結した客車だつた。
 千葉方面に向かっているのは確かだが、何処へ行くのかわからない。
 千葉でストップ、車中泊となった。翌朝、目的地へ向けて走り出した。川棚を出発して4日目である。ここまで来れば房総半島だろうと、少し気楽になっていた時、突然空襲警報が出た。列車はトンネルに入り停車したが、我々の乗った増結車輌は何故かトンネルからはみ出していた。
 このトンネルがどの辺りだったのか確かでないが、停車左側の土手の中腹に山百合を見付けた。たった一輪だが、その花の白さが目に染みて、急に手に入れたくなり、夢中で土手をよじ登り、折ってきた。空襲警報中であることや、列車が動き出した時の事など頭に無かった。その後、花の白さに感動して折角手にしながら、「百合の花」をどうしたか思い出せない。
 7月3日16時頃、洲の崎海軍航空隊に到着。そこで、我々の基地の整備が完了するまで、待機する事となった。
 7月10日進出先が初めて示された。
 我々の所属は、「第12突撃隊・加知山派遣隊」となつていたが、移動の途中で、「第18突撃隊」所属に変更された由、但し派遣先基地は変更なしとの事。(編注=第7特攻戦隊第12突撃隊加知山派遣隊は、独立して第18攻撃隊となり第1特攻戦隊に編入された)。
 基地は、房総半島最南端の洲崎灯台より3粁程手前、「波佐間」と言う小漁港の村落にあり、設備は殆ど完成しているという。
 若干の整備作業が必要と言われたが、先任艇隊長も現地をまだ確認していなかったので、「若干の整備作業」がどんなものか、その時、気に掛ける者は誰もいなかった。
 しかし、それが後で我々をかなり苦しめる事になろうとは知る由もなかった。
 7月11日、荷物はトラックで先行し、我々は徒歩で目指す基地へ出発。目的地は此処から10粁程だというので元気に任せて歩き出した。
 砂利道を南へ歩くこと2時間余、真夏の太陽は容赦なく砂埃と一緒になって我々を悩ましてくれた。
 時々右に見える海を見て安心はしていたが、人家もまばらになってきて基地の在りかが少々心配になってきた。部隊本部に借り上げてあるという漁業協同組合の事務所への道を尋ねた。
 小さな村落の中程で右折し、緩い坂道を150米程下がると海が見えた。海辺にある漁業協同組合の事務所はすぐに見つかった。
 搭乗員用の宿舎へ案内してもらう。その宿舎も民家を借り上げた2階建ての一軒家だ。本部から50米程の近さで道を隔てて漁船の船着場がある。基地としての条件は良い方だ。早速事業服に着替え一息入れた。遂に最後となる地に到着した。
 (編注=終戦間際には本土決戦に備えて、太平洋岸外に震洋・蛟龍・海龍・回天等が配備されていた)

横須賀鎮守府所属
 第1特攻戦隊   ●第11突撃隊
  ●第15突撃隊  ●第16突撃隊
  ●第18突撃隊  ●横須賀突撃隊
 第4特攻戦隊   ●第13突撃隊
  ●第19突撃隊  ●八丈島突撃隊
 第7特攻戦隊   ●第12突撃隊
  ●第14突撃隊  ●第17突撃隊
呉鎮守府所属
 第2特攻戦隊   ●光突撃隊
  ●平生突撃隊   ●大神突撃隊
  ●笠戸突撃隊
 第8特攻戦隊    ●第21突撃隊
  ●第23突撃隊   ●第24突撃隊
舞鶴鎮守府所属
  ●舞鶴突撃隊
大阪警備府所属
 第6特攻戦隊   ●第22突撃隊
佐世保鎮守府所属
 第3特攻戦隊   ●川棚突撃隊
  ●第31突撃隊   ●第34突撃隊
 第5特攻戦隊   ●第32突撃隊
  ●第33突撃隊  ●第35突撃隊
鎮海警備府所属
  ●第42突撃隊

 以上の外に済州島、父島、母島、鬼界ケ島、奄美大島、宮古島、石垣島、台湾、馬公、舟山島、海南島、香港及び大亜湾、厦門にも震洋艇部隊が配備されていた。)
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/3/17 7:56
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 体験記(完)(「甲飛だより」85号)

 「基地整備」

 まだ震洋艇は到着していない。基地の点検作業は明日からとなった。艇は台車に乗せて横穴に格納、隠蔽して敵襲を避ける。「出撃命令」で艇を搬出し海に出す。
 艇を海に出す「すべり」は完成していた。「すべり」は海に向かい真っ直ぐ延ばしたコンクリートの傾斜路で、艇を台車ごと容易に海に浮かべる為の設備である。
 格納壕は道路を挟んで並んでいる数軒の民家の裏山に12本の横穴が掘られていた。その横穴は震洋艇50隻を格納するほか食料等の保管庫、居住区、通信室など非常事態に対処出来るように考えられたものだった。
 艇を迅速に搬出出来るような状況に整備されていなかった。また壕の入口は台車に乗せた艇を、自由に出し入れ出来なければならないが、特攻兵器である艇の長さや幅等の情報が工事側に伝わっていなく、点検すると数個の壕に問題があることが分かった。
 自分達の命を左右する艇を安全に格納しておく場所である。出撃命令が出れば一刻を争うことになる。その時につまずくようなことは絶対に許されない。
 震洋艇の重量は、爆装すると1・5トンは優に越える。搬出路の半分程は轍《わだち=車輪のあと》部分だけ舗装されていたが、残りの部分は全くの未整備で、その部分の補修も重要だった。出入口や搬出路を完全に整備するのは、我々と基地整備隊員でやらなければならないことになった。
 それが意外の大仕事と判り一時はやれやれと思ったが、若さがあり気合いも十分上がっていたので早速取り掛かった。
 整備作業は一日も早く終了させないと問題がある。艇の到着は何時になるか判っていないが、空襲に備えて到着時に直ちに格納壕に搬入を可能にしておかなければならない。
 不慣れと疲労が重なり、骨まで見える大怪我で「勝浦」の病院で手当てを受けた者、盲腸炎になったが手術を断って薬で散らしてもらった者、その他色々あったが、誰もが出撃に取り残されたくない一心からか回復は早かった。
 そんな作業が続いている時、震洋艇他受領の命令を受け、艇隊長と私ら13期の搭乗員4名が先発で横須賀海軍基地へ船便で出発した。
 最優先で確保しなければならないのは艇へ搭載する250キロの爆薬だ。この爆薬は震洋艇専用に製造されたもので、他に転用出来るものではない。爆薬が装備されない艇は、単なるモーターボートに過ぎない。当然出撃は出来ないし、我々の任務も宙に浮く。爆薬だけは絶対に持って帰らねばならないと意気込んでいたが、その爆薬は意外と順調に確保出来た。
 他にも必要な武器があった。震洋艇に搭載する12糎のロケット散弾、艇隊長艇に搭載する13粍機銃とその弾薬、基地整備隊が必要とする武器や弾薬等々だ。
 部隊長、艇隊長は武器の確保に懸命に動き回っていた。
 この時期には武器弾薬の在庫が不足していたので、要求数量通りすんなりと渡してもらえない。
 我々4人共若いが下士官、半長靴を履いていると飛行兵と判るし、「何々突撃隊」と言えば特攻隊と判るので、倉庫係を説得しやすい。倉庫係が気を利かせて何となく席を外してくれるその時に員数を揃える。
 横須賀の「逸見小学校」の、がらんとした教室に数泊、空襲で深夜避難した事もあったが、確保した兵器などの輸送手配を、何とか済ませる事が出来てほっとした。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/3/19 8:15
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
  「艇受領」

 予定日程が若干遅れたので、急ぎ震洋艇の試運転に出発した。
 目的地は東京町屋にある造船所、トラックに米1俵、麦1袋、うどん粉1袋、油1升、生鮮野菜類等を積み込み、一路東京へ。
 4名が交替で造船所の社員寮にお世話になることになっていたので、本部付の村上兵曹長が気を使って用意してくれた。当時としては十分と思われる食料品を持ったので、安心してトラックに乗り込んだ。
 途中海軍省に立ち寄った時、空襲警報に遭い、近くにあった防空壕に避難した。その時、油の瓶を割らないように持っていた者が、油瓶を持ったまま防空壕に飛び込んだ。狭い入口で瓶を割り油を失った。もう天婦羅は食べられないと諦めていたが、寮では何回か天婦羅を作ってくれた。
 造船所は隅田川に面した所に在り、「木村工作所」となっていた。
 艇は5隻が出来上がり、検査を待っていた。早速型や内部の点検、各部のチェックを済ませたあと、性能試験、いわゆる試運転にかかった。
 試運転では船体やエンジンの具合は勿論重要だが、速度がどの位出せるかが最も関心のあった点だ。敵船に襲撃をかけた時、チョロチョ口走っていたのでは、目的を達する前に敵の餌食になってしまう。速度は早い程良い。
 隅田川がほぼ直線になっている所の対岸に1粁間隔で指標が2本ずつ立ててある。その1粁間を全速で走り抜け時間を測定する。
 2人で組み、1人が運転、計器など何もないので、ひたすら如何に速度を上げるかに集中する。l人はストップウオッチで2本の指標間を通過する時間を測定し、「時速何ノット」と算出して記録する。
 どの艇も快調に走ってくれた。かなりの時間を掛けて念入りにテストを繰り返したが、全艇欠点はなかった。
 当時の小型艇としては抜群の23から26ノットも出た。新しい艇の素晴らしい性能に満足だった。
 今まで乗っていた艇は、訓練で酷使したもので、しかも燃料はアルコールだった。試運転には実戦時と同じガソリンを使用した。それに、船首内に爆薬に見合う重りも乗せていないので条件はいい。訓練艇に比べ驚く程の走りをしてくれた。快走する艇で今までに感じた事のない爽快さを味わったが、その爽快さが自分達の死につながるのだとは考えずに、試運転に没頭していた。
 艇のテストは10隻程で終了。あとは製造が出来次第、次のメンバーに引き継ぐ事になつた。試験期間は4名で1週間程だつたが、艇が完成するのを待っていたこともあり、時間に余裕があったので、念入りに検査が出来た。試運転期間中は我々搭乗員4名のみ。年齢は皆20歳前だが下士官《注1》なので、一人前の扱いを受け、入湯、外出《注2》も出来、煙草や酒も支給されていた。それで、行動は自主的判断に任されていて、自由に出来る時間が十分にあった。羽を伸ばそうと思えばかなりの行動が出来たわけだが、4名とも東京は未知の世界。町を見物しようと出てみたが、周辺はかなりの焼け野原となっていて驚いた。
 同期生だけの気安さと若干の探求心から、足を伸ばしてみることになつたが、地図の用意もなく、方角さえ判らない。取り敢えず市電が道路を横断している、近くの駅(今の町屋駅前)で来た電車に構わず乗り込んだ。
 「市街電車」 に乗るのは4人共初めてという田舎者揃い、行ける所まで行ってみようと終点まで。終点の周辺は閑散としていて薄暗く、コンクリートの建造物が若干見えるだけ。東京でもこんな寂しい所があるのかと驚き、また同じ電車で引き返した。
 乗る電車を間違えたと見たのか、軍人扱いをしてくれたのか、電車賃は払わないでいいと言う。初めて乗った市電が無賃乗車だった。
 又、ある日、市電の駅近くで行列があったので、何事かと後に付いてみたら、店の人が「兵隊さんこちらへ」と言うので付いて行くと、小屋の裏口から中へ、「国民酒場」という、つまみ無しでビールを一杯ずつ優先的に飲ませてくれた。
 焼け野原の一角で立ち飲みとは言えビールが売られていて驚いた。その時のビールの味は唯々苦かった。勿論幾ら払ったかも忘れてしまった。
 我々の次の検査チームは、転勤が関東で喜んだ14期生で、その中に東京都下出身の木村保治兵曹がいた。
 ある夜、西の空が赤くなつた。木村兵曹は実家の安否が気掛かりになり、一晩がかりで実家までバスの無くなつた道を走った。翌朝には寮まで帰り着くという離れ業をやってのけた。
 又、ある日の夕方、隅田川を越え荒川まで足を伸ばした事があり、帰りに別道を通り遊郭《注3》に迷い込んでしまった。物珍しさを隠しながら歩き回った。不思議にその一角は空襲の被害が及んでいなかった。
 造船所の社員寮で食事に大豆の絞り粕が入ったご飯が出た。我々は麦飯には慣れていたが、大豆の絞り粕は喉を通らない。半分ほど拾い出してしまった。
 賄いの小母さんに、麦はどんなに入れてもいいが、これだけは(大豆油の絞り粕とは知らなかった)勘弁して貰いたいと話したところ、「兵隊さん達まだ若いから言うが一般の人は、皆これを食べているんです。食べられるだけいいと思って我慢しているんです。判って貰いたい」と言う。そう言われると返す言葉がない。仕方なく、我々は今造って貰った船の検査をしているが、実は特攻要員である旨をそれとなく話したところ、小母さんは黙って聞いていたが、そのまま無言で立ち去った。翌日から大豆粕ご飯は出なくなった。
 検査が終わって引き揚げる時、小母さんが、「私の子供位の年齢だね、気をつけて」とだけ言ってくれた。

注1:兵と士官との間の階級で 二等兵曹 一等兵曹 上等兵曹があった
注2:夕食から翌朝食事時までの上陸(外出)が許されていた
注3:遊女屋が集まって一郭をなしていた地域
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/3/21 8:10
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 「出撃準備」

 検査を終えて基地に引き揚げたが、艇はなかなか到着しない。8月初旬漸く震洋艇が貨車輸送で館山駅に到着したとの報せが入った。
 真夏の太陽が容赦なく照りつける中、急遽館山駅へ駆け付けた。
 あの隅田川で我々が試運転をした震洋艇が、真っ黒のシートで覆われて無蓋貨車5台に積まれ、引込線に静かに侍っていた。
 他に荷を載せた貨車はない。早く運び出さないと目につく。空爆の対象にならないよう館山航空隊のポンドまで、トラック1台でピストン輸送することになった。トラックに載せるには、貨車をチェンブロックのある所まで移動させなければならない。
 貨車は簡単には動かない。鉄の太いバールで線路と車輪の間を力一杯こじる。なかなかうまく出来ないが、少しでも動き出せば、人力も効いてくる。5人で肩を入れて踏ん張った。
 線路の転轍機でポイントを切り替え、チェンブロックのある線路に押して行く。何時、空襲があるか判らない。気は焦る、昼食は抜き、炎天下喉はからからに、何故か服や顔まで汚れ放題、なんとか事故もなく5隻を運び出した。
 館山航空隊のポンド脇には大型クレーンがあり、トラックからポンド《船溜まり》に降ろすのは順調に進んだ。
 後は艇を基地まで海上輸送する、当然夜間の作業となった。
 夕刻、基地から曳き舟で館山航空隊へ、震洋艇の曳航準備は2時間程で終了し、出発時間調整のため、ポンド脇で待機中、空襲警報が発令され、基地の照明は全て消え、滑走路の誘導灯も消されて真っ暗闇となつた。
 その空襲警報中飛行機が1機着陸して来た。誘導路の方向を間違えたのか、我々が待機していた所へ向けて進んで来た。その飛行機は停り切れずにポンドに落ち込んでしまった。
 「彗星艦爆」だった。真っ暗闇の中の一瞬の出来事だった。貴重な飛行機が1機駄目になったのかと思ったが、搭乗員はずぶ濡れになりながらも直ぐに這い上がって来たのでほっとした。
 その搭乗員は全く慌てることなく、落ち着いた態度で司令部の場所を尋ね、濡れた書類を下げて何事も無かったような態度で歩き出した。
 その後ろ姿を見ながら、あれはきっと我々の大先輩で歴戦の勇者だろうと感心、自分達もどんな事に遭遇してもあのように堂々と落ち着いていられるかと少々不安に。
 空襲警報の解除待ちで震洋艇の曳船出発は夜更けになつた。波佐間の基地へ向けゆっくりした速度で艇を破損しないよう慎重に出発。
 途中、魚の定置網に震洋艇のスクリュー防護金物を引っ掛けたほか、何事も無く基地まで到着した。
 明け方近くなっていたが、待機していたグループと協力し、直ちに艇の引き上げ作業にかかった。
 夜光虫が怪しく光り、海水の動きを美しく幻想的にしてくれる。そんな中静かに作業を進めた。
 艇の引き上げ作業は意外と手間が掛かる。台車を「すべり」に引き出し、水面下1米程の所に潜らせて置く、艇をその台車の上に移動させる、艇と台車の位置が合ったら艇の上から4本のロープで台車を引き上げる、そのロープで台車を艇に固定する。
 手順はこれだけだが、水の中の作業員4名と艇の上の4名の連携が鍵となる。
 台車は1・5トン以上の加重に耐えられるような頑丈なもの、水中でも簡単には持ち上がらない。また台車を艇の所定の位置に確実に固定しないと、運搬中に艇がずれ、転覆する危険もある。
 この作業は訓練ではやっていない。一度出撃すれば二度と帰る事はないからだ。出撃の時は、艇を台車に載せたまま「すべり」から海に押し出す。艇が海に浮かべば台車を付けたまま出発。水深が十分ある所で台車の固定索を手動で切り離し、台車を海中に捨ててしまう。再び帰投する事はないから台車は不要なのだ。
 まだ周囲は薄暗い。手元や水中の台車の様子は、はっきりとは見えない。それでも薄明るくなる頃には5隻の艇は、台車で山側の格納壕に運び込み終えた。
 漸く5隻の震洋艇が確保出来た。
 これまで新設基地に必要な整備作業や、物資の調達に主力を注いでいたので、それらはほぼ目鼻がついていた。
 隊員150名の主食の米や麦の他、非常食、それに主要な艇の燃料もドラム缶数十本(ハイオクタンの航空機用ガソリン)を、館山航空隊から運搬し確保した。
 次の作業は到着した艇を、何時でも出撃出来るようにしておく事である。猛暑の中早速震洋艇の爆装作業に入った。爆装作業開始で隊全体が緊張した空気に包まれた。作業は慎重になる。
 250キロの爆薬を扱う作業である。手違いをすれば爆発を起こしかねない。若し1個でも爆発が起きると、他の250キロ爆薬50個総てが誘爆する。その誘爆で艇の燃料用ガソリン数十本のドラム缶にも引火する。ほかの武器弾薬も巻き込んで大惨事となる。山の横腹に造った12本の格納壕の殆どは潰れ落ち、山は変形し、また付近の村落、住民は壊滅的な被害を受ける事になるだろう。当然我々も爆死する事になる。そんな事故は絶対に起こしてはならない。
 その頃になって、広島に新型の爆弾が落とされたという情報が入った。新型爆弾がどんなものか、被害がどの程度あったのか等は判らない。
 新型爆弾が原子爆弾と知ったのは、戦後暫くしてからだ。また、爆装作業中誘爆が起きて搭乗員50名全員が犠牲になった事故が、四国のある震洋艇基地であった事も知った。
 重い爆薬を扱う爆装作業も、我々が中心だが、素人には出来ない事もあった。
 250キロの爆薬を吊り上げるため、丸太3本を組み合わせそれにチェーンブロックを取り付ける、この仕事は経験のある召集兵がやってくれた。先ず、250キロの爆薬をチェーンブロックで吊り上げる。その下に台車に載せた震洋艇を運び込む、吊り上げてある爆薬の位置を合わせるのが中々うまくいかない。位置が合ったところで船倉内へ爆薬を静かに下ろし、ボルトで船底に固定する。
 起爆装置の取り付けや電気配線は、別の場所で行うため、艇を移動し、次の艇の爆装に入る。
 爆装作業が終わった日の夜中(8月1日)「敵船団接近中」との報で「震洋艇出撃」の命令が届いた。出撃準備が出来ているのは僅か5隻だけ。搭乗員50名の中から5名を指名しなければならない。
 部隊長は横須賀に出張中、高橋先任艇隊長に指名の苦悩がのしかかった。暫くして幸い敵船団来襲は誤報で(編注=伊豆大島見晴所が多量の夜光虫を船団と見聞違えて報告)、「震洋艇出撃用意」が取り消され、高橋艇隊長は安堵の胸を撫で下ろした。
 全員出撃なら一声の「命令」で済む。しかし、若い搭乗員50名の中から5名を指名し、先に死に向かわせるのは限りなく辛い。自分が率先突入するとはいえ苦しかったと、戦友会で会う度に話される。


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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 「終 戦」

 8月15日の正午前、「搭乗員全員集合」が掛かった。
 玉音放送があるのでラジオを聴く事になり、近くの民家の庭に集まった(搭乗員宿舎にラジオは無かった)。戦局が厳しくなつているので天皇陛下の激励があるのだろう位に思っていた。ラジオの音声は小さく雑音が多くて、放送の内容が殆ど理解出来なかったが、伝わって来た雰囲気が何となく異様だったので、本部前に集合した。
 部隊長は横須賀へ出張中、先任艇隊長の高橋少尉から「放送は米英に降伏する事になったとの内容だ。しかし、第18突撃隊本部からの命令がまだ届いていない。戦争が終わった事が確認出来るまで現在の作業を続行する。なお、軽挙な行動は絶対に慎む事」との指示が出た。その時の高橋艇隊長の沈痛な面持ちが今でも忘れられない。一体これはどういう事か、頭の中は真っ白になり、残っていた僅かな思考までも完全に停止した。死に向かっている今の時間だけが総てだと考えていた事が根底から覆った。
 祖国のため最後まで戦う、その先駆けとなり、特攻の配置に就いたばかりだ。若さで人並みの迷いを乗り越えて来たと自負していた。ただ我々の死後祖国がどうなるのかは、神に祈るだけだったが。
 天皇陛下の異例の放送がどうしても気になつた。ソ連が参戦したことは、14期生の無線担当から聞き出していたし、特殊爆弾の威力もかなりのようだとの噂も出ていた。
 我々は特別な任務を持っている。最後を誓ってこの任務に就いた。簡単に心の切り替えが出来る訳がない。眠れない一夜が明けた。皆寡黙のまま作業を続行することで、不安を紛らそうとしたが、どうしても蟠《わだかまり》りが消えなかった。
 命を捧げて護ろうとした日本の国はどうなるのか。我々はどうしたらいいのか。心の中で悶々が大きくなるばかり。
 飲めない酒も飲んだ。煙草も無理に吸ってみた。虚しさがのしかかってきた。
 高橋艇隊長の家伝の脇差しで竹を滅多切り、鞘に納まらなくなったがお咎めはなし。
 学徒動員で海軍に身を投じた高橋艇隊長の説得力は大きかった。若い搭乗員も次第に落ち着いて来た。「無条件降伏」という完全な敗北だが。
 敗戦処理作業にかかった。涙ぐみながら、時計の針を無理やり戻す作業が始まった。
 自分が命をかけるものはこれしかないと、誓って水上特攻に身を投じてから流して来た汗は、一体何だったのか、滲み出る涙が止められない。総てを無意味にする過酷な、しかも悲しい作業だった。
 そんな時、噂か真か判らないような情報が流れ始めた。
 志願兵は呉で強制労働となる。
 特攻要員は全員捕虜になる。
 召集兵は帰すが志願兵は帰宅出来ない。まだ戦争を継続するのだと海軍航空隊が動いている等々。
 部隊長から指示が出た。
●召集兵は年配であり、家族もあるので、早急に帰宅させる。
●特攻関係兵器の処分は早急に行う。
●搭乗員は各種兵器の処分が終わり次第帰宅する。
●担当士官は最終処理をして帰る。
 これで搭乗員は当面作業の目安が出来たので、漸く動き出した。
 100名の基地隊員は殆ど年配者だつたので、早速それぞれの故郷へ引き揚げた。
 我々が出撃した後、基地隊員は陸戦隊として戦う事が決まっていただけに、さぞ安堵した事だろう。家族のもとへ帰れる事で雰囲気は明るかった。
 我々は、特攻兵器は絶対に敵国に渡してはならないと、爆装を終えた震洋艇から処分を始めた。
 艇は海没させる事になり、壕から引き出し「すべり」から海へ、これは出撃時と同じ動作だ。考えると虚しさがつのる。洲崎灯台沖まで曳船し、水深が十分ある所に沈めた。
 船底に開けた穴から海水が勢いよく入ってくる。震洋艇が静かに沈んでいく、本来なら自分と運命を共にする艇だ。無言のままに敬礼、涙がにじみ出てくる。種々の想いが走馬灯のように頭を巡る。
 隅田川で試運転をした、貨車から下ろして真夜中の海上輸送、そして250キロの爆薬を積み込んだ。短い期間だったが、密度の濃い思い出が残っていてやりきれない。
 残った爆薬や兵器類の処分を終え、身辺整理に急ぎ取り掛かった。軍事に閲した記録物等は総て焼却との指示で、予科練時代の教科書やノート類、日記その他、私物でも特攻に関する記録があるものは総て灰となった。
 残ったのは僅かな写真と、生涯絶対に忘れ得ない想い出だけとなった。
 第59震洋隊「真鍋部隊」も解散。もうこの地に留まる事は許されない。後は担当士官にお願いして帰郷する事となった。
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 「復 員」

 搭乗員は全員故郷が内地なので、それぞれ自分の家に、支障なく帰れる事がはっきりしてお互いにほっとした。
 別れの前夜飲んだ酒は実に味気ないものだった。故郷へ帰れるのに皆心底から嬉しいという気持ちになれず、半ば放心の状態が続いていた。
 特攻という死を約束した環境から、突如蹴落とされた形で、無理もない事だった。
 学業を中断されて軍隊に来た予備学生の士官達は、「学業に戻る」という冷静さと、心の余裕をしっかりと持っていたようだが、若い我々搭乗員は中学校から学業を擲って志願して来た者ばかり、再び学業を続けるなど思いもよらない事だった。
 山梨の田舎に帰る私は途中で何事かあった時のためと、米と携帯食糧少々を「帽子函」に入れた。
 台風で道路が不通となっていたので、8月26日に船便で基地を出発し「勝山」まで行き、そこから列車に乗車する事になった。列車は少々混んでいたが我々50名の搭乗員はなんとか乗り込む事が出来た。
 敗戦から僅か10日程しか経っていないのに、今までは若いが軍人と見てくれて、ある程度優遇し、或いは多少の尊敬さえ示してくれた人々の目が何となく違ってきていた。
 東京で別れ、それぞれの故郷へ。
 福岡出身の同期「秀谷茂輝」兵曹が、私の手を握って「死ぬなよ」と一言。「貴様こそ死ぬな」と返したが、その時「金子分隊士」がくれた香取神宮のお守りの事が頭をよぎつた。
 お互いにもう再会する事は無いかも知れない、と思いながらもそれは胸にしまい込んで別れた。
 僅か2年弱の軍隊生活だったが、その間に社会の状況が急激に変化していた事を、全く知らなかった。
 さらに、特攻に志願してから無欲の心境にもなっていたから「今浦島」状態になっても当然だった。
 満15歳で予科練に志願して2年弱、特攻配置に就いていながら生きて帰って来た。
 飛行機乗りに志願した時から、生死については深刻に考えた事はなかった。特攻に志願し、大村湾で特攻訓練を受けるようになってからは、「生きて帰る」など全く考えなくなっていたのに。
 とうとう故郷へ、そして家に帰って来てしまった。両親は心から喜んでくれた。とにかく、生きて帰って来た。(おわり)


第59震洋隊・真鍋部隊の構成175名
攻撃(突撃)部隊
部隊長・真鍋康夫中尉(海兵73期)
 艇隊長・高橋俊少尉(予学)
  〃 ・山本昇少尉( 〃 )
  〃 ・西村心華候補生 (予生)《注1》
 搭乗員53名
(甲飛13期・14期生)
・本部
 機関科村上善治兵曹長以下18名
・整備隊
 機関科鈴木津兵曹長以下36名
・基地隊
 砲術科佐藤博志兵曹長以下60名

注1:昭和18年から創設された 旧制大学予科 高等 専門学校
在学中の学生を 徴兵し海軍予備生徒として採用した士官養成制度出身者
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