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「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・26

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通常 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・26

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/3/23 7:35
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 亡き兄を偲んで

 小 島 鈴 子
   東京十一期 故出口修氏令妹

 私の兄、出口修は、東京十一期生です。私と兄は四才違いで、神戸で生まれました。兄が七才、私が三才の時に、母が亡くなり、祖父母、父、そして私の五人の生活で、私達は祖母に育てられました。
 幼い時から、兄は心優しくて、家族に心配かけない物わかりの良い子供だった様です。地元の高等小学校を卒業し、叔母の経営する写真館を継ぐために、そこに見習いに入りました。その頃、毎日の様に出征兵士の家族が写真を撮りに見える度に、自分も予科練に志願したいと考えていた様ですが、仲々父に言い出せず、せめて父の心配の少ないと思われる、通信兵ならばと、内緒で願書を出し、そして合格通知を見た父が、一言、「お前は幼くして母に死に別れ、私はお前に、今まで何もしてやれなかった。今お前が一番やりたい事が、通信兵志願なら頑張って見よ」と言ったと、後になってその話を叔母から聞きました。

 少年通信兵学校での生活は、兄の遺した日記でしか、私には知ることが出来ませんが、繰り上げ卒業で、帰郷した折り、父が兄のために、大阪高嶋屋で日本刀を買い求めました。母のいない兄のため、父は自分の締めていた角帯をほどいて、一針、一針、日本刀の袋を作るため、夜も寝ないで朝までかかって縫っていたのを私は憶えています。どんな思いを込めて縫っていたのか、今考えると胸がつまります。

 その父の愛を身につけて、出発していった兄、頑張って、お国のためにと送り出した父。そしてあの九州は長崎の五島列島沖で、本懐も遂げず、海の藻屑《もくず》となってしまったのではないかと思いますと、兄の口惜しさを、慰霊祭に出席する度に思い浮かべます。

 戦後五十年が経過した今日、日本が何時までも平和であるよう、二度と戦争のないよう、心から願い、又そうであるよう、声を大にして叫びたいと思います。

 (平八・四―第七号収載)


 サヨナラ電車・私の青春

 村松町  小 島 ヒサイ

 私は農家に生まれ、親は小作人《注1》、金もない貧乏暮らし。
 ある日の事、叔父が鉄道の主任でもあり、私を薦めて蒲原鉄道に入社させてくれました。
 大東亜戦争《=太平洋戦争》の真只中だったので、男の方は出征して居らず、女の運転手でした。とは言っても、なかなかなれず、一年間は毎日のように電車の油ぬり、窓ガラス拭き。顔中油にまみれ、其れは其れは口では言い表せないくらいの辛さでした。一つ一つ機械を覚え、電車の屋根に登りパンタグラフを直し、手には何時もハンマー。危険は身についていました。
 若さと勇気があり、自信は一杯あり、やがて一年間の講習も終え、試験にもパスして、手には白い手袋、私にとってはやり甲斐のある職場でもあり、反面、大勢の命を預かる責任重大なお仕事でした。

 今でも、一生忘れる事の出来ない思い出があります。
 それは昭和十九年秋。電車の窓ガラスには黒いカーテン、頭には必勝と書いたハチマキをして、品物の無い時代でしたからゾウリを履いての運転でした。私は電車二両編成で加茂駅まで村松通信学校を卒業して出征する若い兵隊さんを運びました。
 百名位だったと思います。特攻隊でした。車中スクラムを組んで歌っているではありませんか。歌声は「貴様と俺とは同期の桜」の歌でした。
 私は振り向くと、同じ年頃、十八・九才の美少年達でした。急に熱いものが胸にこみ上げてきて、涙が止めどなく流れ、涙しての運転でした。そんな切ない思い出があります。

 やがて終戦となり、帰らぬ人々の御霊が愛宕山の「戦没陸軍少年通信兵慰霊碑」にあります。
 生き残りの方が五年に一度位全国からツアーで来られます。
 その方々が、偶然に私の家に立ち止まり「たしかこの辺は練兵場だった」と話され、「ああそうだった、戦地に向かう方々を加茂迄乗せて運転した女運転手は私です」と言ったらビックリされました。
 あれから五十有余年の歳月が過ぎ去っており、白髪の目立つ方もおられ、「次の慰霊祭にぜひお会いしましょう」とお別れしました。

注1 小作人=地主に小作料(米や麦などの農作物の一部を小作料とする)を支払って田畑を借りて営農する農家 

 (平一二・四―第八号収載)


 写真集
 (写真の上をクリックすると拡大写真がごらんいただけます。)
 












































 あ と が き

 村松での訓育の十一期生に与えた大きさを踏まえ、敢えて誌名を「村松の庭訓を胸に――平和の礎となった少年通信兵」としました。お読みくださって、先の大戦下、村松少通校における訓育の実態と慰霊碑の由来など、ご推察いただけましたでしょうか。
 思えば、散華した十一期生と私たち十二期生とは、入校時期の僅か半歳の差がその後の運命に天地の懸隔をもたらしました。総てに優れていた先輩たちのこと、せめて戦争の終結が一年早かったら、と悔やまれてなりません。
 然らば、生き残った私たちは何を為すべきか。去年の春、そんな思いを抱き碑前で瞑想に耽《ふけ》っていた私の前に一組の夫婦が通り掛かりました。流石《さすが》の村松桜もまだ三分咲きとあって人影も疎らな中での会話でしたが、碑の由来については全くご存知なく、私の説明に大変驚いておられました。
 ここにおいて、私は翻然として悟りました。現地のお方にして斯くの通り。戦後六十余年、すっかり忘却の彼方に追いやられてしまった戦争の悲惨さ不合理さを史実に基づいて正しく後世の伝えること、それが語り部としての私たちに課せられた使命であり、平和の礎として散っていった先輩たちに捧げられる唯一の餞《はなむけ》ではないのか、と。――これが本紙誕生の動機になりました。
 しかし、どこまでこうした願いが盛り込めましたかどうか。この点、十一期生の受難は五島列島沖、済州島沖の遭難に止まりません。頁数の制約はあっても、もう少し、言語を絶した比島戦線での記述を増やし、さらにシベリア抑留の過酷な実態に触れるべきではなかったか、と反省しています。
 とまれ、昨今のわが国の世情には道義の退廃を始め目に余るものが多々あり、英霊の、自分たちが身を挺して護ろうとした祖国はこんな筈ではなかった、とそんな悲痛な声が聞こえてきそうな気さえ致します。
 編集を終えるに当たって貴重な機会の与えられたことに感謝するとともに、温故知新、本紙をお読みくださった皆様に改めて思いを当時に馳せて頂けたらこれに過ぎる喜びはありません。

 村松の 山川さらば 出陣の 胸に祖国の 平和希いて (故松谷昭二氏母堂・松谷千代様)


(付記)
 本文に記しましたように、村松碑をめぐる慰霊祭は、一応平成十三年の合同慰霊祭を以て終幕し、以後は十月十一日を「慰霊の日」とする自主慰霊に切り替わりましたが(平戸島碑については継続)その後村松では、平成十五年六月から半歳に亘って村松教育委員会による「村松陸軍少年通信兵学校特別展」が郷土資料館で開催され、多くの参観者に恵まれました。
 また諸般の事情から慰霊碑等の建立が見送られた東京校についても、本年(平成二十年)七月から九月まで東村山のふるさと歴史館において「企画展・陸軍少年通信兵学校」が開催され、賑わいました。
 なお、慰霊碑の所在等は次のとおりです。

村松慰霊碑
 所在地 新潟県五泉市 村松記念公園
 交通  1R磐越西線五泉駅からタクシー二五分
     又は新潟駅から村松行き高速バス一時間

平戸島慰霊碑
 所在地 長崎県平戸市 鯛の鼻自然公園
 交通  平戸市市街地からタクシー三〇分


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 村松の庭訓を胸に
    平和の礎となった少年通信兵

       二〇〇八年一〇月刊行(非売品)
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