増補版・表参道が燃えた日
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- 増補版・表参道が燃えた日・11 (編集者, 2009/11/24 8:08)
- 増補版・表参道が燃えた日・12 (編集者, 2009/11/24 8:10)
- 増補版・表参道が燃えた日・13 (編集者, 2009/11/24 8:12)
- 増補版・表参道が燃えた日・14 (編集者, 2009/11/24 8:13)
- 増補版・表参道が燃えた日・15 (編集者, 2009/11/25 8:14)
- 増補版・表参道が燃えた日・16 (編集者, 2009/11/26 7:55)
- 増補版・表参道が燃えた日・17 (編集者, 2009/11/27 7:17)
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新道の戦災・1
新橋 健男
その晩も何時ものように、南方海上から敵機北上の警報をラジオが告げていた。凡そ二時間で彼らはやって来る。果たして続々と侵入のB が、あの不気味なうなり声と共に現れた。低空でサーチライトに、緑色に照らし出される。投下された焼夷弾がまるで打上げ花火のように開き、無数の火球となって降って来た。
未だ遠いと思っていた矢先、それは烈しい風に乗って群がって身辺一帯に落ちて来た。間もなく八方に火の手があがり、我が家の前の広い新道も火の粉が走るようになってしまった。それは丁度「燠(おき)」を叩くと赤々と火の粉が舞いあがるように道一面を走る。
父が怒った声で「三人を連れて逃げなさい」と言った。当時中学二年生だった私は、母とその時居合わせた二人の女性を連れて玉屋工場の方へ下り、厳(いわい)橋を渡って團男爵邸の方へ火を踏みわけて走った。
両側の火のついた家が烈しく揺れて今にも倒れかゝりそうになる。女性たちは恐怖でしゃがんでしまう。私は「こゝを突切らなければ死んでしまうよ」と皆を励まし乍ら引立て、外苑の方へ向かう。神宮の森の木々にも火がついていた。
やっと辿りついたのは国立競技場だった。何の為かわからないが、トラックの中に材木の山が五つか六つあり、それが皆、赤々と燃えている。それをスタンドに腰を下ろして呆然と見ていた。
四時頃だったと思う。避難している人はそれほど大勢ではなかったが、広い競技場の事だから数百人はいたと思う。
夜明けが来て外に出て見て唖(あ)然とした。一面の焼野原、渋谷の東横と新宿の伊勢丹、そして幾つかの土蔵が見えるのみだった。全く消火しない火事とはこんなに見事に燃えつくすものか。我が家のあった裏の道を入ると、焼けた表門の石柱の前で父と当時家にいた叔父が立っていた。父は私たちを見るなり「よく生きていたな」と言った。言葉の調子から、生きて再会できると思っていなかったのが察しられた。
庭へ入る。新道側の石段に近づくと、父は烈しい口調で「そっちへ行くな」と言った。石段の上には人の頭が見えていた。
その石段は新道へ下りる十三段、そこに九人の方たちの遺体、その下の石垣沿いの歩道には累々と数百の方たちの焼死体があった。
熊野神社から明治通りまで、数百米の道。東京オリンピックの為に昭和九年にできた切通しで、車道は四角い切石が青海波模様に埋め込まれ、南側の石段の上にはバラの花が咲き連らなる本当に美しい道だった通称新道。そこでこの夜、四百七十余人の方達が一夜にして非業の死を遂げられたのだ。道ばかりではない。隣家では表門脇の掘抜井戸の中で、私たちの知人が火消し装束(そうぞく)で亡くなっており、又、その傍らで親子と思われる四人が子どもをはさんで枕を並べ覚悟の死を遂げていた。
戦中の新道に面した新橋宅の裏の階段
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新道の戦災・2
新道のはじまる辺りに、その前年位から素掘(すぼ)りの溜池が掘られていた。私たち子どもには大きな堀のように思われたが、現在の道幅から考えると五米×七米位だったのではないかと思う。深さは七、八米もあったようだ。排水口もない赤土の素掘りで、何の目的で、誰が掘ったか定かではない。多分、防火用水として作りはじめたものと思うが一年余、未完のまま放置されていた。
あの夜、火に追われてこの辺まで来た人たちがあまりの熱さに「水がある、助かった」ととび込んだのだと思う。私が一夜明けて見た時は衣服らしい布きれが少々見えただけだったのに、百人以上の方たちがこの中で亡くなった由、この水溜りは尋常でなく罪深かったのだ。
あまりの熱さにとび込むと足は立たない。水面から上の縁まで三米位あるので、手は届かない。浮き上がれても赤土のヌルヌルする縁にはつかまれない。等々の悪条件でもがいているうちに次々と人がとび込んで来たのではないだろうか。このようなものを作った責任は何処にあるのだろうか。
その後、鳶口(とびくち)で遺体を引き上げるところを見ていた。上方の人の足に一人、二人、人がしがみついたまゝ上がって来た。懸命に助かりたいと努めた苦しみを思って瞑目(めいもく)した。
最も遺体の多かったのは私の家の下だった。熊野神社からはじまる新道の約半分、玉屋工場の近くまで七戸の家がある。もともとが新しく開けた道なので殆どの家は新道が裏口になっている。道に面して稍(やや)広い石段がある私の家の下の辺に、原宿二丁目、表参道方面から火に追われて来た人々が新道石段のこの辺で烈しい火に囲まれ、力尽きられたのだと思う。遺体は男性は仰向き、女性は俯(ふ)せ、腰をかがめている女の人の胸の中には大抵幼児がいた。露出している手先などは炭化・骨化して、衣服は脇の下とか、体の下側に僅かに残るばかり、殆どが裸で、いずこの人か識別はつかなかったと思う。
二日ほど放置された遺体は焼けトタンに乗せられて、周囲が稍高い大谷石で囲まれた屋敷跡に集められ荼毘(だび)に付された。遺体収容の作業は軍隊ではなく消防や警察、地元の人々の手でおこなわれたように記憶する。そして、その遺骨は其の後どのようになったか私にはわからない。
(渋谷区原宿一丁目)
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東京最後の空襲の日
安田 和子
私の家は近衛歩兵四連隊のいわゆる御用商人で、連隊裏門前に住んでいました。
昭和二十年五月二十五日の夜、地響きのするような轟音と共にB が超低空で現れました。照明弾が落とされます。それは空の真中で止まり、あたりは真昼のように明るくなりました。焼夷弾が火花のように舞い散りながら落ちて来ます。突然、凄(すご)い風です。経験した事のない烈しい風が吹いて火の玉が飛び散り、凄い火事が始まったのです。
家の前があまり騒々しいので出て見ると、二丁目方面から大勢の人が毛布や肌がけふとんをかぶって逃げて来たのです。とても沢山の人で道が満員電車の中のようでした。私はその一人の毛布の端を引張って「何故逃げるの」と詰問したのです。当時は烈しい戦争下、私の頭にはその頃逃げるという言葉はありませんでした。でも皆は唯々外苑の方へ向かいました。
公用で外出していた父が戻って来て「出かけるぞ」と言いました。私たちも逃げたのです。防火用水の水を頭からバケツで何杯もかぶせられました。「手には何も持つな、手を放すな」が父の言いつけで、父と弟と私、三人はしっかり手をつないで四連隊の裏門の坂を登りました。日常、連隊に出入りしていた父は「入門証」を持っています。閉じられた大門の前には数十人の人がいたように覚えています。父が交渉した時、番兵は通用口を開けてくれました。私たちが門をくぐり抜けた時、すばやく何人かの人が飛び込んで来ましたが通用口はすぐ又、固く閉じられてしまいました。
「何故このような時に逃げようとする人を入れて上げないのだろう」と今の私たちは思うのですが、当時は戦争中、軍律は特にきびしく民間人を隊内に入れるなどは、兵にとっては重営倉の重罪だったのです。
中に入ると烈風が吹きすさび、煙と火の粉で何も見えない状態でした。父は隊内の地形、建物の配置をよく知っていたので、私たちは何とか表門にたどりつき、神宮野球場に入りました。その頃は下着までぐっしょり濡れていた服は全部カラカラに乾いていました。行き着いた所に、軍馬用の待避壕がいくつも掘られていました。それは畳一畳より広く、馬が入り良いように長い椀状の穴です。すでに何頭かが入っていましたが、私たちは空いている穴の中にうずくまりました。生木しかないその場所でも、頭の上を火が走りました。母が作ってくれた大きめの防空頭巾(ずきん)、庇(ひさし)が出て前が見にくいとか紐が長すぎるとか、不満なものでしたが、火や風から私を守ってくれました。
夜が明けて外へ出た時、あまりに何もないのに驚きました。昨夜入った連隊の裏門前の溝の中には、沢山の人が背中を黒焦げに焼かれ、うつぶせに詰まっていました。
新道も石垣沿いに累(るい)々たる焼死体、以前から掘り進められていた大きな未完の貯水池には、引揚げ作業に携わった方の話によると、百八十九人の遺体が沈んでいました。以前、私は池の縁に立って中を覗(のぞ)いたことがあります。不気味なほど深く、先の曲がった鉄の杭(くい)が何本も立っていて、恐ろしかったのを覚えています。
明治通りの海軍館の方から新道を登って逃げて来た人たちは、広い新道が急に終わり、道幅が半分になるこの辺に来て、行き止まりに見えたのでしょう。前に進めず後続の人に押されて次々に池に入ってしまったのではないでしょうか。
五百人近いこのあたりの焼死体は身元を解くすべもなく、二日後、玉屋工場の少し先の屋敷跡に集められ、夜更けに火葬になりました。当時はガソリンとか灯油は一般にはありませんでしたので、どのように扱われたのかわかりません。夜目に燐光が青く上がり、生き残った人々は唯々遠目に見守るばかりでした。
近衛歩兵四連隊のすべての建物は全焼しました。兵隊は独断で門外へ出ると脱走という重罪に当りますから、脱出できずに焼死した兵隊さんも多かったことでしょう。後に隊内に入った父は、屋上から跳び下りたとみられる多くの兵隊の遺体を見たと言いました。
その後、焼け残った伯母の家をめざして、渋谷、大橋から三軒茶屋まで歩きました。かつて目にした建物はすべて焼け、瓦礫の中に沢山の焼死体があるのを見ました。
毎年五月、原宿一丁目の妙圓寺へ詣(まい)ります。ここに原宿であの日亡くなった方々の供養の碑が建っています。
(渋谷区原宿一丁目)
妙圓寺の供養碑
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悪夢の一日を回顧する
伊藤 竹雄
昭和二十年に入ると、本土決戦が取り沙汰され、空襲も軍の施設や軍需工場の爆弾攻撃から、都市の住宅と住民を狙った大編隊による大規模な焦土作戦に転じました。三月十日の「東京大空襲」を皮切りに、主要都市への攻撃が頻繁になってきました。
五月二十五日の夜、東京は前々日の大森や品川、大崎方面に続いて再度の大空襲でした。特に今回は渋谷、青山、赤坂と神田方面まで被災しているとのラジオの情報でしたので、大学に入学して間もない私は、翌日早朝の汽車に乗り、埼玉県の熊谷からやっとのことで上野駅に辿(たど)り着きました。
上野駅では、地上の電車は全(すべ)て不通で開通の見込みはなく、唯一、地下鉄が神田駅まで行くとのことでしたので、それに乗って神田駅に着きました。
私は都内の地図には疎(うと)く、都電で渋谷から神田須田町行きに乗って書店街に買物に行ったことがある程度でした。まず須田町に行き、そこから都電の線路伝いに渋谷方面へ向かうことにしました。しかし、神田周辺の道路も交通規制が多く、慣れない道を誘導されるままに西の方へ進むと、やがて宮城(現在の皇居)の大手門のところに突き当りました。
そこには軍服姿の兵士や消防隊員などが大勢おり、宮城側には高い板塀が建てられていて、中で何があったのか見ることができません。北の丸方面は完全な通行止めとなっていたので、止むを得ず誘導されるがままに内堀に沿って日比谷交差点の方向に歩きました。
この通りも高い板塀のため中を見ることが出来ず、要所々々には銃剣を持った兵士が立って警戒に当たっていました。この板塀は、日比谷交差点から祝田橋を経て桜田門まで延々と続いていました。
桜田門のところから国会議事堂の正面に向かうと、議事堂も罹災したらしく、多数の警官により通行を止められました。止むを得ず三宅坂を廻って赤坂見附から青山方面に向かうことにしました。
赤坂見附から左側の赤坂・青山方面は一面焼け野が原となっていて、電柱一本すら立っていません。質屋の土蔵らしきものや鉄筋コンクリートの建物の残骸や、赤錆びた大型の金庫が散見される状態で、一帯にはまだ熱気が残っている状態でした。
青山一丁目あたりから赤坂方面を見渡すと、遥(はる)か彼方(かなた)には国会議事堂の全景がはっきり見えたことを思い出します。
ふと、絵画館に通じる銀杏(いちょう)並木の方から一台の軍用トラックが、遺体を粗朶(そだ)のように山積みにしたまま、のろのろと走って行きました。
神宮前辺に在った銀行の前庭に植えられた大きな丸い桧葉(ひば)には、苦しさに耐えかねてか、少しの空気を求めて十人ほどの男女が、半身を株の中に突込んだまま折り重なって倒れていました。またその近くにあった柘植(つげ)の垣根に沿っても、数人が同様の姿で倒れていました。
青山五丁目から六丁目にかけては、未だ救援活動が全く行われていないらしく、被災したそのままの状態でした。
道路には、衣服が完全に燃えてしまい赤銅色(しゃくどういろ)に焼け爛(ただ)れて、男女の区別もつかなくなったマネキン人形のような格好をした遺体が、多数散乱していました。焼け落ちた商店の前の防空壕の周りにも、苦しさに耐えかねて壕から飛び出したと見られる、半身焼け爛れ苦悩した姿の遺体がありました。まるで地獄絵の世界に迷い込んだような異様な光景に、前に進めず、その場にしばらく立ち竦(すく)んでしまいました。今でもその光景は私の脳裡から消えることはありません。
都電の青山六丁目のところから高樹町方面へ行く細い道も、被災で通行することができないので、青山学院の渋谷寄りの方から常盤松にある大学へ、ようやくのことで辿り着きました。大学も木造部分は完全に燃え尽くして、広い焼け野が原となっていました。
大学の南側に隣接した宮内庁常盤松御領地は、消防隊の必死の活躍と地形に恵まれてか難を免れていました。
大学の西門のところから渋谷方面は一面の焼け野が原となっていて、遠く山手線の渋谷駅を見渡すことができ、山手線を走る電車も見え隠れし、走る音もかすかに聞こえる静かな空間となっていました。
ふと近くで、賛美歌の悲しい合唱が流れてきましたので、そっと近づいて見ると、数人の女性が焼け落ちた家のコンクリートの浴槽で、遺体を荼毘(だび)に付しているところでした。
また、宮益坂の中程に在った焼け落ちたお堂には、肢体(したい)がばらばらになった少女らしき遺体が安置され、傍らには身元捜(さが)しの札が置かれ、線香の薫りが微かに漂(ただよっ)っていました。
戦争の悲惨さを身を持って体験した悪夢の一日でした。
(埼玉県大里郡別府村)
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兄から動員先の弟へ
原宿駅竹下口近くに住んでいた平林博さんから、
松根掘りに動員中の弟晃さんへのはがき
5月24日未明のB29墜落の報
6月8日付、9日消印
5月25,26日の惨状を伝える
6月8日付、9日消印
何故か二枚とも表に乃木大将図柄の二銭切手が
逆さまに貼ってあります。(平林晃氏提供)
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投稿数: 4298
昭和12年頃の表参道
昭和2年に建った同潤会アパートは当時としては超モダンな集合住宅で家賃25円位。向い側は石垣、土塀、松の高木が目立つ通りでした。
片道5銭の青バスが行ったり来たり、日曜日にはユニオンチャーチへ行くのか、外人さんの姿も多く見られました。ロバのパン屋さんみたいな車も。
戦災を受けるまで、景観はあまり変わりませんでしたが、この頃から次第に代々木練兵場に往き来する兵隊達の軍靴の音が響く通りになっていきました。
同潤会アパートに長くお住まいだった
本書の執筆者清水俊子さん提供
撮影は父君、田北英彦氏
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編集後記
かつての大戦中、国民は正しい情報を知らされませんでした。三月十日に始まる予想もしていなかった夜間の大空襲に逃げ惑った人、命を落とした人たちは、なぜ急にこんな目に遭わなければならないのかと思ったことでしょう。戦後、国は戦争犠牲者(遺族も含め)に適切な対応をしてきたでしょうか。
善光寺での懇談の模様を冒頭に記しましたが、一男性の問いかけに誰も確かな回答ができませんでした。トラックに積まれた遺体をどこに運ぶのかと聞いたら、「上からの秘密だ」と言われたとか、仮埋葬したままその上に学校が建ったという噂を聞いたとかという話が飛び交いました。身元がわかる名札が付いていたり、身内がいっしょにいた人は記録され、のちに慰霊堂に納骨されたようですが、残された疎開していた子どもや、出征や、動員されていた人たちは、遺骨の行方は知る由もありません。尋ね、訪ねまわったら、事情は教えてもらったものの詳細はわかりません。
完全なものとはいえませんが、私たちは東京都慰霊協会および東京空襲を記録する会でまとめた仮埋葬、納骨についての資料を入手しました。
原宿一丁目の新道で多くの犠牲者が出たことについて、書かれている死亡者数がそれぞれ大幅に異なるので区役所、図書館で調べてみました。渋谷区史には二十五日の死亡者合計数が載っているだけで、元になるデーターはありません。もっともその当時は区にはそのような職務も権限もなく、担当していたのは警視庁、消防署、東京都でした。なお調査は続けたいと思います。
戦災についての資料は、公の機関では乏しく(公開されていないのかもしれません)、民間のかたの努力でかなり集められてきましたが、山の手地域だけでも百五十万といわれる罹災者の情報はまだまだ不足しています。
戦災を体験されたかたの記憶が重要な証言になることがあります。歴史の事実を正しく記録し後世に伝えるために、戦争を知らない若いかたにはご両親、祖父母からの話を伺って書き留めていただきたいと思います。
二〇〇九年八月
「表参道が燃えた日」編集委員会