増補版・表参道が燃えた日・13
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編集者
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東京最後の空襲の日
安田 和子
私の家は近衛歩兵四連隊のいわゆる御用商人で、連隊裏門前に住んでいました。
昭和二十年五月二十五日の夜、地響きのするような轟音と共にB が超低空で現れました。照明弾が落とされます。それは空の真中で止まり、あたりは真昼のように明るくなりました。焼夷弾が火花のように舞い散りながら落ちて来ます。突然、凄(すご)い風です。経験した事のない烈しい風が吹いて火の玉が飛び散り、凄い火事が始まったのです。
家の前があまり騒々しいので出て見ると、二丁目方面から大勢の人が毛布や肌がけふとんをかぶって逃げて来たのです。とても沢山の人で道が満員電車の中のようでした。私はその一人の毛布の端を引張って「何故逃げるの」と詰問したのです。当時は烈しい戦争下、私の頭にはその頃逃げるという言葉はありませんでした。でも皆は唯々外苑の方へ向かいました。
公用で外出していた父が戻って来て「出かけるぞ」と言いました。私たちも逃げたのです。防火用水の水を頭からバケツで何杯もかぶせられました。「手には何も持つな、手を放すな」が父の言いつけで、父と弟と私、三人はしっかり手をつないで四連隊の裏門の坂を登りました。日常、連隊に出入りしていた父は「入門証」を持っています。閉じられた大門の前には数十人の人がいたように覚えています。父が交渉した時、番兵は通用口を開けてくれました。私たちが門をくぐり抜けた時、すばやく何人かの人が飛び込んで来ましたが通用口はすぐ又、固く閉じられてしまいました。
「何故このような時に逃げようとする人を入れて上げないのだろう」と今の私たちは思うのですが、当時は戦争中、軍律は特にきびしく民間人を隊内に入れるなどは、兵にとっては重営倉の重罪だったのです。
中に入ると烈風が吹きすさび、煙と火の粉で何も見えない状態でした。父は隊内の地形、建物の配置をよく知っていたので、私たちは何とか表門にたどりつき、神宮野球場に入りました。その頃は下着までぐっしょり濡れていた服は全部カラカラに乾いていました。行き着いた所に、軍馬用の待避壕がいくつも掘られていました。それは畳一畳より広く、馬が入り良いように長い椀状の穴です。すでに何頭かが入っていましたが、私たちは空いている穴の中にうずくまりました。生木しかないその場所でも、頭の上を火が走りました。母が作ってくれた大きめの防空頭巾(ずきん)、庇(ひさし)が出て前が見にくいとか紐が長すぎるとか、不満なものでしたが、火や風から私を守ってくれました。
夜が明けて外へ出た時、あまりに何もないのに驚きました。昨夜入った連隊の裏門前の溝の中には、沢山の人が背中を黒焦げに焼かれ、うつぶせに詰まっていました。
新道も石垣沿いに累(るい)々たる焼死体、以前から掘り進められていた大きな未完の貯水池には、引揚げ作業に携わった方の話によると、百八十九人の遺体が沈んでいました。以前、私は池の縁に立って中を覗(のぞ)いたことがあります。不気味なほど深く、先の曲がった鉄の杭(くい)が何本も立っていて、恐ろしかったのを覚えています。
明治通りの海軍館の方から新道を登って逃げて来た人たちは、広い新道が急に終わり、道幅が半分になるこの辺に来て、行き止まりに見えたのでしょう。前に進めず後続の人に押されて次々に池に入ってしまったのではないでしょうか。
五百人近いこのあたりの焼死体は身元を解くすべもなく、二日後、玉屋工場の少し先の屋敷跡に集められ、夜更けに火葬になりました。当時はガソリンとか灯油は一般にはありませんでしたので、どのように扱われたのかわかりません。夜目に燐光が青く上がり、生き残った人々は唯々遠目に見守るばかりでした。
近衛歩兵四連隊のすべての建物は全焼しました。兵隊は独断で門外へ出ると脱走という重罪に当りますから、脱出できずに焼死した兵隊さんも多かったことでしょう。後に隊内に入った父は、屋上から跳び下りたとみられる多くの兵隊の遺体を見たと言いました。
その後、焼け残った伯母の家をめざして、渋谷、大橋から三軒茶屋まで歩きました。かつて目にした建物はすべて焼け、瓦礫の中に沢山の焼死体があるのを見ました。
毎年五月、原宿一丁目の妙圓寺へ詣(まい)ります。ここに原宿であの日亡くなった方々の供養の碑が建っています。
(渋谷区原宿一丁目)
妙圓寺の供養碑