増補版・表参道が燃えた日・11
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新道の戦災・1
新橋 健男
その晩も何時ものように、南方海上から敵機北上の警報をラジオが告げていた。凡そ二時間で彼らはやって来る。果たして続々と侵入のB が、あの不気味なうなり声と共に現れた。低空でサーチライトに、緑色に照らし出される。投下された焼夷弾がまるで打上げ花火のように開き、無数の火球となって降って来た。
未だ遠いと思っていた矢先、それは烈しい風に乗って群がって身辺一帯に落ちて来た。間もなく八方に火の手があがり、我が家の前の広い新道も火の粉が走るようになってしまった。それは丁度「燠(おき)」を叩くと赤々と火の粉が舞いあがるように道一面を走る。
父が怒った声で「三人を連れて逃げなさい」と言った。当時中学二年生だった私は、母とその時居合わせた二人の女性を連れて玉屋工場の方へ下り、厳(いわい)橋を渡って團男爵邸の方へ火を踏みわけて走った。
両側の火のついた家が烈しく揺れて今にも倒れかゝりそうになる。女性たちは恐怖でしゃがんでしまう。私は「こゝを突切らなければ死んでしまうよ」と皆を励まし乍ら引立て、外苑の方へ向かう。神宮の森の木々にも火がついていた。
やっと辿りついたのは国立競技場だった。何の為かわからないが、トラックの中に材木の山が五つか六つあり、それが皆、赤々と燃えている。それをスタンドに腰を下ろして呆然と見ていた。
四時頃だったと思う。避難している人はそれほど大勢ではなかったが、広い競技場の事だから数百人はいたと思う。
夜明けが来て外に出て見て唖(あ)然とした。一面の焼野原、渋谷の東横と新宿の伊勢丹、そして幾つかの土蔵が見えるのみだった。全く消火しない火事とはこんなに見事に燃えつくすものか。我が家のあった裏の道を入ると、焼けた表門の石柱の前で父と当時家にいた叔父が立っていた。父は私たちを見るなり「よく生きていたな」と言った。言葉の調子から、生きて再会できると思っていなかったのが察しられた。
庭へ入る。新道側の石段に近づくと、父は烈しい口調で「そっちへ行くな」と言った。石段の上には人の頭が見えていた。
その石段は新道へ下りる十三段、そこに九人の方たちの遺体、その下の石垣沿いの歩道には累々と数百の方たちの焼死体があった。
熊野神社から明治通りまで、数百米の道。東京オリンピックの為に昭和九年にできた切通しで、車道は四角い切石が青海波模様に埋め込まれ、南側の石段の上にはバラの花が咲き連らなる本当に美しい道だった通称新道。そこでこの夜、四百七十余人の方達が一夜にして非業の死を遂げられたのだ。道ばかりではない。隣家では表門脇の掘抜井戸の中で、私たちの知人が火消し装束(そうぞく)で亡くなっており、又、その傍らで親子と思われる四人が子どもをはさんで枕を並べ覚悟の死を遂げていた。
戦中の新道に面した新橋宅の裏の階段