増補版・表参道が燃えた日・12
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増補版・表参道が燃えた日 (編集者, 2009/11/9 8:11)
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編集者
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新道の戦災・2
新道のはじまる辺りに、その前年位から素掘(すぼ)りの溜池が掘られていた。私たち子どもには大きな堀のように思われたが、現在の道幅から考えると五米×七米位だったのではないかと思う。深さは七、八米もあったようだ。排水口もない赤土の素掘りで、何の目的で、誰が掘ったか定かではない。多分、防火用水として作りはじめたものと思うが一年余、未完のまま放置されていた。
あの夜、火に追われてこの辺まで来た人たちがあまりの熱さに「水がある、助かった」ととび込んだのだと思う。私が一夜明けて見た時は衣服らしい布きれが少々見えただけだったのに、百人以上の方たちがこの中で亡くなった由、この水溜りは尋常でなく罪深かったのだ。
あまりの熱さにとび込むと足は立たない。水面から上の縁まで三米位あるので、手は届かない。浮き上がれても赤土のヌルヌルする縁にはつかまれない。等々の悪条件でもがいているうちに次々と人がとび込んで来たのではないだろうか。このようなものを作った責任は何処にあるのだろうか。
その後、鳶口(とびくち)で遺体を引き上げるところを見ていた。上方の人の足に一人、二人、人がしがみついたまゝ上がって来た。懸命に助かりたいと努めた苦しみを思って瞑目(めいもく)した。
最も遺体の多かったのは私の家の下だった。熊野神社からはじまる新道の約半分、玉屋工場の近くまで七戸の家がある。もともとが新しく開けた道なので殆どの家は新道が裏口になっている。道に面して稍(やや)広い石段がある私の家の下の辺に、原宿二丁目、表参道方面から火に追われて来た人々が新道石段のこの辺で烈しい火に囲まれ、力尽きられたのだと思う。遺体は男性は仰向き、女性は俯(ふ)せ、腰をかがめている女の人の胸の中には大抵幼児がいた。露出している手先などは炭化・骨化して、衣服は脇の下とか、体の下側に僅かに残るばかり、殆どが裸で、いずこの人か識別はつかなかったと思う。
二日ほど放置された遺体は焼けトタンに乗せられて、周囲が稍高い大谷石で囲まれた屋敷跡に集められ荼毘(だび)に付された。遺体収容の作業は軍隊ではなく消防や警察、地元の人々の手でおこなわれたように記憶する。そして、その遺骨は其の後どのようになったか私にはわからない。
(渋谷区原宿一丁目)