増補版・表参道が燃えた日・14
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悪夢の一日を回顧する
伊藤 竹雄
昭和二十年に入ると、本土決戦が取り沙汰され、空襲も軍の施設や軍需工場の爆弾攻撃から、都市の住宅と住民を狙った大編隊による大規模な焦土作戦に転じました。三月十日の「東京大空襲」を皮切りに、主要都市への攻撃が頻繁になってきました。
五月二十五日の夜、東京は前々日の大森や品川、大崎方面に続いて再度の大空襲でした。特に今回は渋谷、青山、赤坂と神田方面まで被災しているとのラジオの情報でしたので、大学に入学して間もない私は、翌日早朝の汽車に乗り、埼玉県の熊谷からやっとのことで上野駅に辿(たど)り着きました。
上野駅では、地上の電車は全(すべ)て不通で開通の見込みはなく、唯一、地下鉄が神田駅まで行くとのことでしたので、それに乗って神田駅に着きました。
私は都内の地図には疎(うと)く、都電で渋谷から神田須田町行きに乗って書店街に買物に行ったことがある程度でした。まず須田町に行き、そこから都電の線路伝いに渋谷方面へ向かうことにしました。しかし、神田周辺の道路も交通規制が多く、慣れない道を誘導されるままに西の方へ進むと、やがて宮城(現在の皇居)の大手門のところに突き当りました。
そこには軍服姿の兵士や消防隊員などが大勢おり、宮城側には高い板塀が建てられていて、中で何があったのか見ることができません。北の丸方面は完全な通行止めとなっていたので、止むを得ず誘導されるがままに内堀に沿って日比谷交差点の方向に歩きました。
この通りも高い板塀のため中を見ることが出来ず、要所々々には銃剣を持った兵士が立って警戒に当たっていました。この板塀は、日比谷交差点から祝田橋を経て桜田門まで延々と続いていました。
桜田門のところから国会議事堂の正面に向かうと、議事堂も罹災したらしく、多数の警官により通行を止められました。止むを得ず三宅坂を廻って赤坂見附から青山方面に向かうことにしました。
赤坂見附から左側の赤坂・青山方面は一面焼け野が原となっていて、電柱一本すら立っていません。質屋の土蔵らしきものや鉄筋コンクリートの建物の残骸や、赤錆びた大型の金庫が散見される状態で、一帯にはまだ熱気が残っている状態でした。
青山一丁目あたりから赤坂方面を見渡すと、遥(はる)か彼方(かなた)には国会議事堂の全景がはっきり見えたことを思い出します。
ふと、絵画館に通じる銀杏(いちょう)並木の方から一台の軍用トラックが、遺体を粗朶(そだ)のように山積みにしたまま、のろのろと走って行きました。
神宮前辺に在った銀行の前庭に植えられた大きな丸い桧葉(ひば)には、苦しさに耐えかねてか、少しの空気を求めて十人ほどの男女が、半身を株の中に突込んだまま折り重なって倒れていました。またその近くにあった柘植(つげ)の垣根に沿っても、数人が同様の姿で倒れていました。
青山五丁目から六丁目にかけては、未だ救援活動が全く行われていないらしく、被災したそのままの状態でした。
道路には、衣服が完全に燃えてしまい赤銅色(しゃくどういろ)に焼け爛(ただ)れて、男女の区別もつかなくなったマネキン人形のような格好をした遺体が、多数散乱していました。焼け落ちた商店の前の防空壕の周りにも、苦しさに耐えかねて壕から飛び出したと見られる、半身焼け爛れ苦悩した姿の遺体がありました。まるで地獄絵の世界に迷い込んだような異様な光景に、前に進めず、その場にしばらく立ち竦(すく)んでしまいました。今でもその光景は私の脳裡から消えることはありません。
都電の青山六丁目のところから高樹町方面へ行く細い道も、被災で通行することができないので、青山学院の渋谷寄りの方から常盤松にある大学へ、ようやくのことで辿り着きました。大学も木造部分は完全に燃え尽くして、広い焼け野が原となっていました。
大学の南側に隣接した宮内庁常盤松御領地は、消防隊の必死の活躍と地形に恵まれてか難を免れていました。
大学の西門のところから渋谷方面は一面の焼け野が原となっていて、遠く山手線の渋谷駅を見渡すことができ、山手線を走る電車も見え隠れし、走る音もかすかに聞こえる静かな空間となっていました。
ふと近くで、賛美歌の悲しい合唱が流れてきましたので、そっと近づいて見ると、数人の女性が焼け落ちた家のコンクリートの浴槽で、遺体を荼毘(だび)に付しているところでした。
また、宮益坂の中程に在った焼け落ちたお堂には、肢体(したい)がばらばらになった少女らしき遺体が安置され、傍らには身元捜(さが)しの札が置かれ、線香の薫りが微かに漂(ただよっ)っていました。
戦争の悲惨さを身を持って体験した悪夢の一日でした。
(埼玉県大里郡別府村)