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特攻インタビュー(第1回) 後編 その14

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通常 特攻インタビュー(第1回) 後編 その14

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/12/25 8:54
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 陸軍航空特攻 前村 弘氏(後編)その14

 ◆玉音放送を聞いて(2)

 --------そうしているうちに、終戦が訪れたのでしょうか?

 前村‥そうです。

 --------玉音放送はラジオか何かで聞かれたのですか?

 前村‥ええ、半地下の兵舎がポッンポッンとある松林の中で、松の木にラジオを3つか4つ乗っけて、いくらか広いところが作ってありました。「集合」と号令をかけて、そこへみんな集まって、それで中隊長の命令でラジオを聞きました。ピーピーガーガー鳴るだけで、何を言っているのだかよく解らなかったです。勝った負けたなんていうことまで判断はできなかったですね。

 --------それが終戦の放送だということは、その後に誰かが説明してくれて解かったのでしょうか?

 前村‥中隊長だとか偉い人が私たちに説明する場面もなく、何となく終戦になったみたいだよっていうことだったんじゃないですかね。それで、あまりご飯も美味しいものが出ていなかったのが急に美味しいものが出るようになりました(笑)。ストックがあったんですね。

 --------そこから前村さんが復員するまは、結構早かったのですか?

 前村‥そうです。8月29日か30日にはもう復員しました。

 --------長崎の方に?

 前村‥はい。でも長崎は恐らく全滅だと……。きっと家もないし、親父もお袋もいないだろうと絶望していました。だからとにかくまず、熊本のお袋のじいさんばあさんがいる家に帰ろうと思いまして、真っ直ぐ熊本へ帰りました。熊本に帰ったら、ちょうど私の誕生日の9月2日に復員していたんです。しかも、そこに長崎から疎開していたお袋がいました。お袋も姉も妹2人も生きていたし、やっと家に帰ったぞ!という実感がしました。

 --------お母様たちは疎開していたので、原爆の被害を受けなかったということですね?

 前村‥そうなんです。一人だけ……私のすぐ下の妹が女学校に行っていまして、挺身隊で働いていたので被爆していました。熊本で1週間くらい経ったら、家に下宿している人が、長崎から熊本のじいさんばあさんの家まで連れてきてくれたんです。幸い近くの小学校が陸軍の病院になっていて、そこの軍医さんたちが、しょっちゅう往診して来てくれて、死ぬ間際のリンゲル注射とか、よくやってくれたらしいから……まあ、よかったんじゃないですかね。下の妹は1週間か10日経って熊本で死んでいるんです。

 --------長崎に原爆が落とされたというのは、既に新聞か何かで知っていたのでしょうか?

 前村‥はい。詳細は全然解りませんでしたけど、長崎には特殊爆弾が落ちたと。特殊爆弾というような表現でしたよ。

 --------人によっては、例えば広島と長崎が出身地の人は、取りあえず直ぐに帰れということで、2~3日で復員させてもらったという人もいるようなのですが、前村さんの場合は、そのようなことはなかったのでしょうか?

 前村‥それはなかったですね。

 --------特攻隊で2回も出撃されて、戦争が終わり復員されて、社会もどんどん変わって行きましたが、気持ちの変化や揺れはありましたでしょうか?

 前村‥1週間から10日経つと、やっぱり戦死しないで熊本に帰れてホッとはしたものの、男手が家族に誰もおらず、私1人だけ。さあ、どうやってこの妹やお袋を食わしていこうかなと、そういうことを一生懸命考えていたようですね。どこか心に空しい気持ちがありましたもので、今日はあそこのお寺で話があると耳に入ると、お坊さんの話を聞きに自転車で通いました。……何の話を聞いたのかはよく覚えていませんが(笑)。それから、荒れた畑をお袋と2人で開墾しサツマイモを植えたりしていました。

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