特攻インタビュー(第10回)
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投稿日時 2013/12/16 19:47
編集者
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海軍航空特攻
岡本鐵郎 氏
田中三郎 氏
(公財)特攻隊戦没者慰霊顕彰会特攻ライブラリー取材スタッフ
「編注・当会では、特攻に関連する史実とその精神を後世に伝承するため、特攻関係者の体験談等を取材し、記録することを企画し、有志会員による「特攻ライブラリー」を立ち上げ、先ず、関係者のインタビュー記事を記録することにいたしました。特攻出撃の如何を問わず、特攻体験をされて九死に一生を得た方、特攻出撃を待機された経験のある方等で、映像と写真を含めたインタビュー取材を引き受けて頂ける方がおられましたら、自薦他薦を問わず、当会事務局までご連絡下さい。」
◇ ◇ ◇
岡本鐵郎氏軍歴(略歴)
第十四期飛行予備学生 海軍少尉
松島海軍航空隊 九六式陸上攻撃機操縦
田中三郎氏軍歴(略歴)
第十四期飛行予備学生 海軍少尉
松島海軍航空隊 一式陸上攻撃機操縦
◇ ◇ ◇
特攻ライブラリー取材スタッフ
(五十音順)
及川 昌彦 世話人
神崎 夢現 進行
倉形 桃代 記録
提橋 律子 世話人
須貝 智行 写真撮影
高橋 暢 映像撮影
長尾 栄治 インタビュアー・構成
◇ ◇ ◇
編集者
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◆学徒出陣で海軍に
--------岡本さんと田中さんは同じ年齢なのですか?
岡本‥私が大正12年。
田中‥私は大正11年です。
--------お二人とも大学から海軍へ?
田中‥学徒出陣です。昭和18年12月、海軍に入団です。
--------学徒出陣で軍隊に入ることが決まった時、どう思われましたか?
岡本‥学徒出陣で大学生の徴兵猶予が取り止めになったわけですが、止むを得ないなと思いました。大学に行っていても、食べ物はだんだんなくなるし、本もあまり売ってないようになったし。日本全体が負け戦の状態でしたから、大学に行っていようがいまいが、私たちのような若い者は征かなくてはならないという気持ちでした。
田中‥私はもう、みんな軍隊に行くんだと、学生は軍隊に行くんだと思っていましたから、何の抵抗もなかったです。当時は学生の間にそういう空気がありました。私は海軍希望でしたが、希望通り海軍に入れて良かったと思いました。今でも思います。
岡本‥軍事教練で背嚢を背負ったり、匍匐前進をしたり、何kmも何kmも歩かされましたからね。陸軍に入って中国の奥地を歩き回されるより、どうせ死ぬなら、あっさりと、華々しく、というとなんですが、あっさり死ねる方がいいかなと考えていました。それに軍服も海軍の方がしゃれているしね。そういうことで、私も抵抗感はなかったです。それと、アメリカも大学生が軍隊に志願して、ヨーロッパ戦線や太平洋戦線に出ている。スポーツとして飛行機に乗っていた大学生が何万人もパイロットとして志願する。女性も軍隊に入って、軍用機のテストパイロットを多くの女性がやったという話を戦後聞くと、ああ、アメリカもやっぱり国を守るということで、どんどん若い人が征っていたんだなと。むしろ日本は遅れているという感じがしました。
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◆学徒出陣で海軍に その2
-------お二人とも出陣学徒壮行会には参加されましたか?
田中‥ええ。
岡本‥私は神戸大学で、神戸市にいたから、そういうのはなかったね。
田中‥私は法政大学でした。壮行会のことはあまり憶えていません。昭和18年12月に我々は海軍に入団することが決まって、神奈川県・武山の横須賀第二海兵団に入りました。
岡本‥私は広島県の大竹海兵団に入り、二等水兵を2カ月やりました。というのも、私たちの一期上の十三期は何千人も採用されて、どこの航空隊も一杯で収容できない。そこで、水兵として、まず海兵団に入らされて、そこでカッターとか手旗訓練とかもやって。二等水兵だから下士官の食事を運んだり、まあ洗濯まではやりませんでしたけど。
-------大学から海軍に入ったのに、水兵をやらされたのは心外でしたか?
田中‥軍隊そのものが初めての経験ですから、無我夢中でね。そんなに深刻に考えることもありませんでした。毎日毎日が夢のように過ぎていました。
-------海兵団に入った後、搭乗員になるまでの過程は同じなのですか?
岡本‥水兵の時に飛行科かそれ以外かに分けられるんです。飛行科以外だと陸戦隊に行くとかね。私たちは飛行科ということで土浦海軍航空隊に入って、土浦ではみんな一緒で、4カ月、基礎教程をやりました。
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◆飛行科の訓練が始まる
-------土浦でお二人は知り合ったのですか?
岡本‥いや、もう何千人もいましたから。
田中‥10何分隊もありましたからね。土浦で基礎教程を終えて、中練……中間練習機の教程に進み、九三式中間練習機、いわゆる赤トンボの訓練をやります。それが終わった後に機種が決まります。
岡本‥その土浦でね、一本の棒の上を歩いたり、体操でとんぼ返りをしてみたりして、運動神経をテストして、誰は操縦、誰は偵察とか決める。運動神経があまり良くない人は要務に回るといった具合に仕分けされました。
田中‥土浦ではほとんど体育。それと学科がありましたね。午前中、学科で午後が体育とかね。土浦では体を鍛えるというか、海軍の生活に慣れさせるというのが基本でした。
-------お二人とも希望の機種とかあったのですか?
岡本‥赤トンボの中練過程に入って、宙返りとかいろいろテストします。それで本人が希望して、戦闘機に行きたいとか、大型機に行きたいとか、ある程度の希望を出すわけです。その時、私は大型機を希望しました。
田中‥最終的には海軍が、誰がどの機種に向いているかを判定しますから、希望が必ず通るとは限りません。仲間うちでは、体がガツチリした運動をやっていた者は艦爆に向いているとか、スマートなのは中攻に向いているとか(笑)。そんなことを言っていましたが、戦闘機が一番多かったですね。私の班では半分が戦闘機を希望しました。あとは艦攻、艦爆、中攻などが数名ずつといったところでしょうか。
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◆飛行科の訓練が始まる その2
岡本‥やっぱり、勇ましい人が戦闘機や艦燦に行ったんじゃない?
田中‥そうね(笑)。
岡本‥ややおとなしい人が艦攻かな。私が赤トンボで宙返りをした時……あれ、下から見ると飛行機が緩やかに円を描いているように見えますが、操縦席では体がグーツと押し付けられてね、ギユウギユウになっているわけです。ギユウギユウ押し付けられてね、しかも反転するとかね、これはかなわないと(笑)。 で、戦闘機は操縦1人、艦爆、檻攻も操縦は1人でしょ。 敵弾に当たればそのまま墜落しますよね。でも陸攻は操縦2人でしょ。 メインとサブがいますから。1人が死んでも、もう1人が生きて操縦すれば……で、エンジンも2つでしょ。だから何とか基地にたどり着けるのではないかと。とすると、陸攻の方がやや安全。
それに陸攻は航続距離が長いから、もしかしたら台湾、香港くらいまでは行けるのではないか。死ぬ前に外国も少し見れたらいいなと(笑)。少し欲をかいちゃった(笑)。
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◆飛行科の訓練が始まる その2
田中‥機種を選ぶと言っても具体的に知っているわけではないですから、どれがいいかなんて正直、分かりませんよね。私は中攻を希望したわけではなく、選考で回されました。中練を終えると実用機過程に進みます。私は宮城県の松島海軍航空隊に行きました。そこでまず、九六式陸上攻撃機に乗ったわけです。いや大きかったですね。赤トンボなんか入っちゃうくらい大きい。こんな大きいのを操縦するのかと思いました(笑)。
-------お二人とも飛行機の操縦ということですが、それが決まった時のお気持ちは?
田中‥特別、操縦を希望していたわけではありませんが、ああ、自分に合っているなと思いました。自分の興味のある方に進んでいると感じました。赤トンボで訓練しても、スポーツみたいで楽しかったです。離陸するでしょ。その後はスタントと言って特殊飛行です。宙返りとか。そういうアクロバット的な課目があるわけです。そういうのをやると飛行機は面白いものだと思いました。だから、飛行機の操縦というのは自分の性分に合っていたんですね。
岡本‥私は海兵団で「飛行適」ということで、腹を括って土浦に行きました。まあ、予科練の人ほど張り切っていたわけではありませんが、これで死に花が咲けるという思いでした。艦船勤務や陸戦隊もありましたが、私は飛行機に人生を賭けたという気持ちでした。
-------土浦を卒業された後、どの航空隊に行きましたか?
岡本‥私は土浦の基礎課程の後、鹿児島県の出水海軍航空隊で赤トンボの訓練をやりました。出水は天気が良くて訓練は4カ月で済んだんですが、田中さんが中練課程で行った美保海軍航空隊は鳥取県で、天気が良くないので遅れたようです。
田中‥私は昭和19年5月から12月まで、美保空に半年ほどいました。
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◆松島海軍航空隊
-------中練課程を終え、お二人とも松島海軍航空隊に移ったのですか?
岡本‥そうです。
田中‥松島で一緒の部隊になったんです。
-------松島時代に知り合ったのですか?
田中‥いや、同じ飛行機に乗ることはありませんでしたから、まだ知り合っていません。岡本さんの方が私より早く松島に来ていました。同期ですが、彼の方が早かった。
-------松島に移った頃はもう士官になっていたのですか?
田中‥そうです。海軍少尉です。
岡本‥昭和19年12月に任官しました。
-------少尉ということは搭乗する飛行機の機長になるわけですか?
岡本‥いやいや。少尉と言ったって、陸攻の操縦は初めてですから、海軍兵学校を出た人や予科練出身のベテラン下士官が教官や教員になって、まずは離着陸から教えてくれるわけです。で、1機に予備学生が4人から5人、一緒に乗って飛んでいる最中に交代するわけです。
-------予備学生が海兵出の士官や、下士官にいじめられたという話を聞きますが、そういう体験をされましたか。
田中‥ありました。海兵出の士官は俺たちが本職だという意識があるでしょ。我々は大学から海軍に入って、海軍生活も短いわけですからね。特に、同じ年齢の人は対抗意識もありましたからね。
岡本‥下士官の人はね、飛曹長になっているような人も、絶対に我々に手を出すようなことはしない。ただ、海兵出身はね、71期生が我々と中学校が一緒で、72期、73期はその下で、我々より若いんですけど、何日間か早く少尉になったんです。で、私の感じでは海兵の若い連中が、非常に予備学生にきつく当たりました。理由があってもなくても殴る。私なんかもずい分、殴られました。同じ少尉ですけどね。
それで、予備学生が団結したという面もありましたけど、ある航空隊では13期と14期の予備学生が集まって、海兵と一戦ケンカをやろうと、あわや大乱闘になりかけたこともあったそうです。
編集者
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◆生と死 その1
-------海軍予備学生を扱った戦争映画などもたくさんありますが、そういうものをご覧になりますか?
岡本‥私は逆に、海軍の航空隊がらみのものは見たくないですね。ああいう状況で友達がみんな死んでいったなあと思い出しますから。
田中‥私はね、もう大分、前になりますが、アメリカ映画で「メンフィス・ベル」という映画がありましたね。ヨーロッパ戦線でアメリカの大型爆撃機が、イギリスのスコットランドからかな、ベルリン周辺を爆撃するという映画があったんです。それを見た時、出撃したアメリカのB17が高角砲に当たって、搭乗員に負傷者が出るんです。その時、「こいつに落下傘をつけて降ろせ」 と言うんですよ。「基地に戻るまで待っていては助からない」、「敵地に落下傘で降ろしたら、命が助かるかもしれない」 と議論し合うシーンがあったんです。あれには驚きました。まあ、映画だからそういう人道的なシーンを入れたのかもしれませんが、我々の軍隊生活を通してみても、日本ではあり得ないと思いました。本当にあったのかどうかは分かりませんが、あのシーンを見た時は考えさせられましたね。
-------海軍航空隊で搭乗員が負傷したら?
田中‥敵地に降ろすなんてことは絶対にしません。我々の知る限り、日本の軍隊でそんな考えはありませんでした。
-------そのシーンは、日本人とアメリカ人の考え方の違いを象徴していると
田中‥それと、もう一つ感じたのは、彼らは何回爆撃に行ったら本国に帰すというルールがあるんですね。生きる希望を持たすために、そういうルールがあったと思いますが、我々はそういうことは考えもしませんでしたね。
-------そうすると、特攻という考えはアメリカ人には出てこないでしょうね。
岡本‥出ない。
田中‥出ないでしょうね。
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◆生と死 その2
-------今、改めて特攻というものをアメリカ人や外国人に伝えるとしたら、どのようにお話をされますか?
田中‥難しいでしょうね。生還の見込みのない攻撃と言っても……少なくとも我々は純粋な気持ちでね。国のため、親兄弟のために犠牲になると……それは人間ですからね、どんな場合でも「生」というものは執着があると思います。
岡本‥私はね、出水の航空隊にいる時の教員が、みんなラバウルとか、ミッドウェーで負傷した人たちが教員でした。もう、空母はほとんどない。でも、フィリピンから沖縄へとアメリカ軍は上陸してくる……そして、松島空にいる時、……田中さんはもう出撃していたけど、第4次か第5次の出撃で、黒板に私の名前が書いてあるのを見たんです。「岡本鐵郎」と……。その時は足がブルブルと震えてね。体が地面にめり込むような感じで、もうこれで死ぬんだと……。
それで、話は前後しますが、松島海軍航空隊と豊橋海軍航空隊から第1次、第2次特別攻撃隊が出水に行った。で、私は松島にいる時、すべて特攻だと思っていたんです。ところが、豊橋海軍航空隊飛行長の巌谷二三男少佐が鹿屋の第五航空艦隊司令部に、「オンボロの九六式陸攻や一式陸攻で特攻に行くのは、みすみす落とされに行くようなものだ。だから、夜間爆撃に切り替えてほしい」と言って、夜間雷撃に方針が変わったんです。
ところが、それを我々は知らないし、1次も2次も3次攻撃隊も帰ってこないから、特攻で出撃したと思っていたら、実は特攻はやめて夜間雷撃になっていたわけです。それを知らないものだから、私はもうこれで終わりだと思ったんです。それから地面にスーツと沈み込む感じでね、空がフーつと離れていっちゃうんですよ。これで、4、5日後には死ぬんだなと思うと、親父が悲しむだろう、お袋が悲しむだろうと思うんだけど、不思議とこう下腹の辺りからね、いや、やっぱり行こうと。もう敵は沖縄を攻撃して、いずれは本土の九十九里とか相模湾とかに上陸して日本民族はやられちゃう。だから、せめて敵の輸送船でもいいから当たって、少しでも日本の被害を減らそうと。そういう気持ちが不思議とお腹の中から沸いてきて、それから頭の方にも来て、「ああ、自分も死ねるな」と、泣いたり喚いたりしなくて死ねると思って、思わずニッコリしてね。
それで、自分の宿舎に帰りました。恐らく、田中さんにしても全員ね。あの負け戦で、日本人は皆殺しとまではいかなくても半数近くは艦砲射撃と爆撃で殺されてしまう。それを少しでも防がなくてはという気持ちでみんな出撃したのではないですか。
編集者
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投稿数: 4298
◆生と死 その3
-------田中さんの時はまだ、特攻隊としての出撃でしたが、その時のことを教えてください。
田中‥確か、昭和20年3月頃でしたね。攻撃隊のメンバーが発表になって-----。その頃は志願ということでもなく、特別な理由がない限り、みんなに割り当てられたと思うんですが、メンバーが決まってから、松島では夜間の訓練だけでした。上層部はもう分かっていたのかもしれませんね。我々をどう使うのかと。それで、金華山と青森県の尻屋岬、北海道の襟裳岬の三角形を夜に飛ぶ。昼は何にもしないんです。毎日、夜ばかり訓練させられました。それで、アメリカ軍が沖縄に上陸して1週間目に、いよいよ沖縄の爆撃に行くという命令が出て、その時に、夜間の航法訓練をやらされたのはこのためだったのかと分かったんです。 私は4月末に松島を出発したんですが、同じ日に出発した同期が3人いたんです。もちろん飛行機は別です。それで、出水に着いて、最初に我々の機が沖縄に出撃することになったんです。
岡本‥松島で夜間訓練をしたのですが、訓練中に急に霧が出て2機が行方不明になる。また、霧が出なくて天気がいいのに2機が行方不明になる。1機に同期生が3、4人乗っているんです。陸攻だから一度に10何人も死んでしまう。それに燃料がないから、昼間の訓練でも夜間の訓練でも燃料がないと休んで、飛行場の雪かき……。燃料もどうやら芋のアルコールが入っているらしくて、エンジンのパワーが出せない。だから、途中でブスブス落ちてしまう。私も着陸のため旋回している時にエンジンが止まって、松林に落ちて1週間か10日くらい意識不明になったことがありました。同乗していた同期生は重症でその後、一生病院生活でした。だから、訓練をしたくても燃料がない。飛行訓練に出ると行方不明になる。そういう中で田中さんたちが出撃して沖縄攻撃をやるということです。
田中‥三陸沿岸というのは、春先に海霧が発生しやすいんです。だから訓練中に随分、殉職者が出ました。