『国民学校1年生』
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- 『国民学校1年生』 (三蔵志郎, 2004/3/28 1:09)
- Re: 『国民学校1年生』 (マーチャン, 2004/3/28 16:41)
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- Re: 『国民学校1年生』 (らごら, 2004/3/29 8:24)
- Re: 『国民学校1年生』 その2 (三蔵志郎, 2004/3/30 1:33)
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- Re: 『国民学校1年生』 (らごら, 2004/4/1 8:27)
- Re: 『国民学校1年生』 その3 (三蔵志郎, 2004/4/2 10:24)
- Re: 『国民学校1年生』 その3 (らごら, 2004/4/3 8:39)
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投稿日時 2004/3/28 1:09
三蔵志郎
居住地: 河内の国 金剛山麓
投稿数: 35
『国民学校1年生』
あやかさん、もう春ですね。新学期では、早や5年生になるのですね。高学年になったのだからしっかり勉強し、楽しい学校生活を送ってくださいね。
今日は、あやかさんにおじいさんが昔むかし小学校1年生の時のことを書きますので、眼をとおして下さいね。
もう58~59年も前のことだから、記憶も不確かになっておりますが何とか思い出して、また少々調べものをしてでも出来るだけ正確に書こうと思っています。
1972(明治5)年に学制がしかれて、全国に約5万校の小学校を設置する計画で、子供が身分や男女の別なく、満6才から8年間小学校にかように奨励されました。この頃、小学校は下等小学4年、上等小学4年の2段階にわけられていた。
1886(明治19)年に学校令が公布されました。このとき、小学校は尋常《じんじょう》小学校と高等小学校の2段階制となり、それぞれを4年制とし、尋常小学校4年間が義務教育となりました。
1907(明治40)年には、尋常小学校が6年制となり、義務教育は2年延長された。尋常高等小学校は2年となりました。
1941(昭和16)年に、国民学校令が出来、小学校は国民学校となり、初等科6年、高等科2年となりました。
第2次世界大戦後の1947(昭和22)年に学校教育法が制定され、ふたたび小学校という呼び名が戻ってきました、そして小学校の6年間と中学校3年間がとともに義務教育となりました。
おじいさんが入学したのは戦争が終わる数ヶ月前の昭和20年の春でした。その前の年、確か昭和19年の晩秋に、大阪市の北区から岐阜県に、大阪で働く父親を一人残し、母や姉妹たちと一緒に疎開して来たのです。入ったのは岐阜県加茂郡坂祝(さかほぎ)国民学校でした。そう、おじいさんは「国民学校1年生」になったのです。
○ソカイについて
あやかさん、「疎開(そかい)」ってわかりますか。
疎開というのは、もともと軍隊用語であったらしいですね。密集していた歩兵部隊などを戦況に応じて隊形の間隔を広く開けることを云ったらしいですね。
しかし、おじいさんの小さい頃は東京、大阪、名古屋などの都市の住民が空襲などの被害を避けるため郊外の農村などに移住し分散するころを云っていました。
しかし、この疎開も第2次世界大戦が始まる前や、始まった直後は禁じられていたのですよ。
1940年(昭和15年)陸軍参謀本部は「国民防空指導ニ関スル指針」を発表し、避難について「空襲ヲ恐レ、都市ヲ放棄シテ避難スルハ都市ノ壊滅、我国防空ノ敗北ニシテ之《これ》ヲ認メサル所ナリ」ときめつけ、空襲下の緊急避難を除き平時避難を認めなかったそうです。
1941年(昭和16年)12月20日施行の第二次防空法でも、老幼者等で防空活動に従事できない者を定めたものも引き続き事前避難は禁止し、消火活動に従事しなかった者には500円以下の罰金を科せられることになっていたそうです。
1943(昭和18)年10月に第三次防空法という法律が公布されました。「特ニ防空ノ実施ニ従事セシムルノ要アル者以外ノ者ニ対シ情況ニ応ジ退去ヲ命ズルコトヲ得ル」と、戦火を防ぐのに役に立たない子供や女は強制的に都市部から農村部等へ移動することになりました。これが戦争疎開の始まりです。
この疎開は親戚《しんせき》や知り合いを頼って行くのが原則でしたが、このような縁故者がない小学生は、集団で郊外の農村部へ一時移住させられました。これを当時は学童疎開などと云っておりました。
おじいさんは、この学童疎開ではなく、あやかの曾《そう》おじいさんの故郷・岐阜県加茂郡坂祝村へ、曾おばあさんとおじいさんとその姉や妹二人と一緒に移住しました。そう、縁故疎開と呼ばれるものでした。それは確か、前に述べましたように戦争の終わる約8ヵ月前の1944(昭和19)年の秋だったと思います。
広島や長崎の原爆投下による悲惨な被害状況、東京の大空襲などは広く喧伝《けんでん=言い広める》されていますが、大阪にも大空襲があったのですよ。
大阪では、おじいさんたちが母に連れられて岐阜の坂祝へ疎開した直後の、1944(昭和19)年12月から終戦前日の8月14日まで、8回の大空襲を含む50回以上の空襲を受けたそうです、これらの度重なる空襲で大阪の町は焦土《しょうど=焼けこげた土地》となって終戦を迎えることとなったのです。これらの空襲被災者は120万人を越え、そのうち死者や行方不明の人達は約1万5,000人と言われています。
疎開せず大阪市に残って仕事をしていた、おじいさんのお父さん、そう あやかにとっての曾おじいさんは戦火に見舞われ、ここかしこに死者が横たわり、焼夷弾《しょういだん=燃やすために油脂や黄燐などを入れた爆弾》で燻《くす》ぶりつづける大阪の旧市街地を、布団や僅かな身の回り品を小さな荷車に積み、それを引いて逃げ惑い淀川に架かる十三《じゅうそう》大橋を越え曾おばあさんの遠縁の親戚に身を寄せたということを後で聞かされました。
おばあさんの家族は、福井県の丸岡町に疎開し戦災から免れたのですよ。おばあさんもおじいさんも疎開して難を免れましたが、もし疎開しなかったならばどうなっていたか分からないですね。ひょっとしてあやかのお母さんやあやかも生まれてなかったかも知れませんね。人がこの世に生を受けると云うことは何か不思議な縁があるのですね。このご縁を大事にしたいですね。
○遠い道程、嫌だった国民学校
あやかさん、学校は楽しいですか。お友達と仲良くやっていますか。 おじいさんが国民学校1年生だった頃は、学校へ行くのは本当にいやでした。
疎開っ子としてイジメニあったこともありますが、何よりも学校への道程が大変だったことが原因だとおもいます。おじいさん達が疎開したのは、前にも述べましたように岐阜県加茂郡坂祝村のある村落でした。坂祝村は今では坂祝町となったいます、疎開先の村落は深田といっていました、お隣の美濃太田町は市に昇格し、美濃加茂市になりましたが、その深田は、美濃太田に隣接していた為、今では坂祝から美濃加茂市に編入されています。
疎開先の住居からは、国鉄高山線の美濃太田駅が近くにあり、太田国民学校は目の先にありました。しかし、当時は越境入学など考えられず真面目《まじめ》に一駅先にある坂祝駅近くにある坂祝国民学校までかよっていました。坂祝駅と美濃太田駅の間は、1里(4km)ありましたので、毎日この長い長い砂利道を通学したことになります。
毎朝、村落のはずれにある鎮守の森《ちんじゅのもり=その地を守る社のある森》に集められ、5,6人のグループにまとめられたうえ、上級生に引率され通学していました。5,6人の子供が隊列を組んで途中で「兵隊さんよありがとう!」などを歌いつつ遠いと~い道をとぼとぼと歩いてまいりました。
あやかさん、「兵隊さんよありがとう!」を知っていますか。ちょっと紹介しましょね。1番と2番だけです。
「 肩をならべて兄さんと 夕べ楽しき御飯どき
今日も学校へいけるのは 家内そろって語るのも
兵隊さんのおかげです 兵隊さんのおかげです
お国のために お国のために
お国のために戦った お国のために傷ついた
兵隊さんのおかげです 兵隊さんのおかげです」
(-皇軍将士に感謝の歌- 昭和14年 橋本善三郎 作詞)
下校時は、学年によって授業の終りがまちまちのためか、隊列を組むことなく三々五々帰宅していました。その下校時にこのようなことがありました。それは終戦直前のたしか昭和20年7月の日がカンカンと照り付けていた暑い日のことだったと思います。
同級生や上級生4,5人で下校していた昼過ぎのことです。敵の小型飛行機が私たちに目掛けて急旋回し降下して来ました、機関銃で通学路の前方目掛けて弾を数発撃ちつけてきました。音と共に砂煙が数箇所で上がったのを目撃しました。私達は、慌てて通学路近くの藪の中に身を隠しました。
その頃は、空も陸でも日本軍は防衛能力を失くしていたのでしょうね。多分、若い敵の飛行兵が茶目っ気をだして日本の子供を驚かすためやったのではないでしょうか。
遠い道のりと言えば、この1年生の時たった1度経験した遠足も、岐阜県のお隣の愛知県にある犬山城でした。確か、坂祝から犬山までは10キロ以上あったと思います。疎開先の居住地からは片道約15キロほどの道程になったと思います。大阪生まれで大阪育ちのおじいさんには、とっても辛い遠足でした。その上、近道をするため国鉄高山線の線路伝いに進んで行ったところもありました。とくに途中、木曽川に架かる鉄橋を渡るときは大変怖い思いをしました。線路の枕木《まくらぎ》と枕木の間は相当広く開いており1年生の小さな体ではスッポリと落ちてしまいそうでした。その上、下に見える木曽川は水かさ多く轟々《ごうごう》と流れており本当に肝を冷やす思いでした。
今、この様な危険な遠足をやればきっと担任の先生や校長は、PTAのお母さんたちから喧々囂々《けんけんごうごう=たくさんの人が喧しく騒ぎ立てるさま》の非難を浴びるでしょうね。
○ヨミカタ1
1年生の頃、教室でどのようなことを習ったかは定かではありません。ただ思い出されるのは、担任の先生はミシナ(三品?)という名の相当ご年配の男の先生であったこと、勤労奉仕で学校内でレンガ運びをやらされたこと、木曽川から自分の頭ぐらいの石を拾って来て校庭まで運んだことなどです。
男女同一のクラスであったかも思い出せず、どうであったかは分かりません。
算数や音楽、図工などで何を習ったかは全然記憶にはありませんが、国語の教科書のことは多少記憶しているようです。
当時は、国語と云わないで「ヨミカタ」といっていたと記憶しています。1年生の教科書は「ヨミカタ1」です。
そこには最初
「 アカイ アカイ アサヒ アサヒ 」
と書かれていたと思います。
「 ハト コイコイ コマイヌサン ア コマイヌサン ウン」
などもあったと記憶しています。
このテキストの最後の方には、「舌切り雀」や「桃太郎さん」の童話ものっていたと記憶してます。
そのほか、「○○サン(太郎さんかな?)ハ、ラッパノエヲカキマシタ △△サンハ、グンカンノエヲカキマシタ」など戦時を反映したモノもあったように思います。
( 志郎 2004.3.27)
---- 続く----
あやかさん、もう春ですね。新学期では、早や5年生になるのですね。高学年になったのだからしっかり勉強し、楽しい学校生活を送ってくださいね。
今日は、あやかさんにおじいさんが昔むかし小学校1年生の時のことを書きますので、眼をとおして下さいね。
もう58~59年も前のことだから、記憶も不確かになっておりますが何とか思い出して、また少々調べものをしてでも出来るだけ正確に書こうと思っています。
1972(明治5)年に学制がしかれて、全国に約5万校の小学校を設置する計画で、子供が身分や男女の別なく、満6才から8年間小学校にかように奨励されました。この頃、小学校は下等小学4年、上等小学4年の2段階にわけられていた。
1886(明治19)年に学校令が公布されました。このとき、小学校は尋常《じんじょう》小学校と高等小学校の2段階制となり、それぞれを4年制とし、尋常小学校4年間が義務教育となりました。
1907(明治40)年には、尋常小学校が6年制となり、義務教育は2年延長された。尋常高等小学校は2年となりました。
1941(昭和16)年に、国民学校令が出来、小学校は国民学校となり、初等科6年、高等科2年となりました。
第2次世界大戦後の1947(昭和22)年に学校教育法が制定され、ふたたび小学校という呼び名が戻ってきました、そして小学校の6年間と中学校3年間がとともに義務教育となりました。
おじいさんが入学したのは戦争が終わる数ヶ月前の昭和20年の春でした。その前の年、確か昭和19年の晩秋に、大阪市の北区から岐阜県に、大阪で働く父親を一人残し、母や姉妹たちと一緒に疎開して来たのです。入ったのは岐阜県加茂郡坂祝(さかほぎ)国民学校でした。そう、おじいさんは「国民学校1年生」になったのです。
○ソカイについて
あやかさん、「疎開(そかい)」ってわかりますか。
疎開というのは、もともと軍隊用語であったらしいですね。密集していた歩兵部隊などを戦況に応じて隊形の間隔を広く開けることを云ったらしいですね。
しかし、おじいさんの小さい頃は東京、大阪、名古屋などの都市の住民が空襲などの被害を避けるため郊外の農村などに移住し分散するころを云っていました。
しかし、この疎開も第2次世界大戦が始まる前や、始まった直後は禁じられていたのですよ。
1940年(昭和15年)陸軍参謀本部は「国民防空指導ニ関スル指針」を発表し、避難について「空襲ヲ恐レ、都市ヲ放棄シテ避難スルハ都市ノ壊滅、我国防空ノ敗北ニシテ之《これ》ヲ認メサル所ナリ」ときめつけ、空襲下の緊急避難を除き平時避難を認めなかったそうです。
1941年(昭和16年)12月20日施行の第二次防空法でも、老幼者等で防空活動に従事できない者を定めたものも引き続き事前避難は禁止し、消火活動に従事しなかった者には500円以下の罰金を科せられることになっていたそうです。
1943(昭和18)年10月に第三次防空法という法律が公布されました。「特ニ防空ノ実施ニ従事セシムルノ要アル者以外ノ者ニ対シ情況ニ応ジ退去ヲ命ズルコトヲ得ル」と、戦火を防ぐのに役に立たない子供や女は強制的に都市部から農村部等へ移動することになりました。これが戦争疎開の始まりです。
この疎開は親戚《しんせき》や知り合いを頼って行くのが原則でしたが、このような縁故者がない小学生は、集団で郊外の農村部へ一時移住させられました。これを当時は学童疎開などと云っておりました。
おじいさんは、この学童疎開ではなく、あやかの曾《そう》おじいさんの故郷・岐阜県加茂郡坂祝村へ、曾おばあさんとおじいさんとその姉や妹二人と一緒に移住しました。そう、縁故疎開と呼ばれるものでした。それは確か、前に述べましたように戦争の終わる約8ヵ月前の1944(昭和19)年の秋だったと思います。
広島や長崎の原爆投下による悲惨な被害状況、東京の大空襲などは広く喧伝《けんでん=言い広める》されていますが、大阪にも大空襲があったのですよ。
大阪では、おじいさんたちが母に連れられて岐阜の坂祝へ疎開した直後の、1944(昭和19)年12月から終戦前日の8月14日まで、8回の大空襲を含む50回以上の空襲を受けたそうです、これらの度重なる空襲で大阪の町は焦土《しょうど=焼けこげた土地》となって終戦を迎えることとなったのです。これらの空襲被災者は120万人を越え、そのうち死者や行方不明の人達は約1万5,000人と言われています。
疎開せず大阪市に残って仕事をしていた、おじいさんのお父さん、そう あやかにとっての曾おじいさんは戦火に見舞われ、ここかしこに死者が横たわり、焼夷弾《しょういだん=燃やすために油脂や黄燐などを入れた爆弾》で燻《くす》ぶりつづける大阪の旧市街地を、布団や僅かな身の回り品を小さな荷車に積み、それを引いて逃げ惑い淀川に架かる十三《じゅうそう》大橋を越え曾おばあさんの遠縁の親戚に身を寄せたということを後で聞かされました。
おばあさんの家族は、福井県の丸岡町に疎開し戦災から免れたのですよ。おばあさんもおじいさんも疎開して難を免れましたが、もし疎開しなかったならばどうなっていたか分からないですね。ひょっとしてあやかのお母さんやあやかも生まれてなかったかも知れませんね。人がこの世に生を受けると云うことは何か不思議な縁があるのですね。このご縁を大事にしたいですね。
○遠い道程、嫌だった国民学校
あやかさん、学校は楽しいですか。お友達と仲良くやっていますか。 おじいさんが国民学校1年生だった頃は、学校へ行くのは本当にいやでした。
疎開っ子としてイジメニあったこともありますが、何よりも学校への道程が大変だったことが原因だとおもいます。おじいさん達が疎開したのは、前にも述べましたように岐阜県加茂郡坂祝村のある村落でした。坂祝村は今では坂祝町となったいます、疎開先の村落は深田といっていました、お隣の美濃太田町は市に昇格し、美濃加茂市になりましたが、その深田は、美濃太田に隣接していた為、今では坂祝から美濃加茂市に編入されています。
疎開先の住居からは、国鉄高山線の美濃太田駅が近くにあり、太田国民学校は目の先にありました。しかし、当時は越境入学など考えられず真面目《まじめ》に一駅先にある坂祝駅近くにある坂祝国民学校までかよっていました。坂祝駅と美濃太田駅の間は、1里(4km)ありましたので、毎日この長い長い砂利道を通学したことになります。
毎朝、村落のはずれにある鎮守の森《ちんじゅのもり=その地を守る社のある森》に集められ、5,6人のグループにまとめられたうえ、上級生に引率され通学していました。5,6人の子供が隊列を組んで途中で「兵隊さんよありがとう!」などを歌いつつ遠いと~い道をとぼとぼと歩いてまいりました。
あやかさん、「兵隊さんよありがとう!」を知っていますか。ちょっと紹介しましょね。1番と2番だけです。
「 肩をならべて兄さんと 夕べ楽しき御飯どき
今日も学校へいけるのは 家内そろって語るのも
兵隊さんのおかげです 兵隊さんのおかげです
お国のために お国のために
お国のために戦った お国のために傷ついた
兵隊さんのおかげです 兵隊さんのおかげです」
(-皇軍将士に感謝の歌- 昭和14年 橋本善三郎 作詞)
下校時は、学年によって授業の終りがまちまちのためか、隊列を組むことなく三々五々帰宅していました。その下校時にこのようなことがありました。それは終戦直前のたしか昭和20年7月の日がカンカンと照り付けていた暑い日のことだったと思います。
同級生や上級生4,5人で下校していた昼過ぎのことです。敵の小型飛行機が私たちに目掛けて急旋回し降下して来ました、機関銃で通学路の前方目掛けて弾を数発撃ちつけてきました。音と共に砂煙が数箇所で上がったのを目撃しました。私達は、慌てて通学路近くの藪の中に身を隠しました。
その頃は、空も陸でも日本軍は防衛能力を失くしていたのでしょうね。多分、若い敵の飛行兵が茶目っ気をだして日本の子供を驚かすためやったのではないでしょうか。
遠い道のりと言えば、この1年生の時たった1度経験した遠足も、岐阜県のお隣の愛知県にある犬山城でした。確か、坂祝から犬山までは10キロ以上あったと思います。疎開先の居住地からは片道約15キロほどの道程になったと思います。大阪生まれで大阪育ちのおじいさんには、とっても辛い遠足でした。その上、近道をするため国鉄高山線の線路伝いに進んで行ったところもありました。とくに途中、木曽川に架かる鉄橋を渡るときは大変怖い思いをしました。線路の枕木《まくらぎ》と枕木の間は相当広く開いており1年生の小さな体ではスッポリと落ちてしまいそうでした。その上、下に見える木曽川は水かさ多く轟々《ごうごう》と流れており本当に肝を冷やす思いでした。
今、この様な危険な遠足をやればきっと担任の先生や校長は、PTAのお母さんたちから喧々囂々《けんけんごうごう=たくさんの人が喧しく騒ぎ立てるさま》の非難を浴びるでしょうね。
○ヨミカタ1
1年生の頃、教室でどのようなことを習ったかは定かではありません。ただ思い出されるのは、担任の先生はミシナ(三品?)という名の相当ご年配の男の先生であったこと、勤労奉仕で学校内でレンガ運びをやらされたこと、木曽川から自分の頭ぐらいの石を拾って来て校庭まで運んだことなどです。
男女同一のクラスであったかも思い出せず、どうであったかは分かりません。
算数や音楽、図工などで何を習ったかは全然記憶にはありませんが、国語の教科書のことは多少記憶しているようです。
当時は、国語と云わないで「ヨミカタ」といっていたと記憶しています。1年生の教科書は「ヨミカタ1」です。
そこには最初
「 アカイ アカイ アサヒ アサヒ 」
と書かれていたと思います。
「 ハト コイコイ コマイヌサン ア コマイヌサン ウン」
などもあったと記憶しています。
このテキストの最後の方には、「舌切り雀」や「桃太郎さん」の童話ものっていたと記憶してます。
そのほか、「○○サン(太郎さんかな?)ハ、ラッパノエヲカキマシタ △△サンハ、グンカンノエヲカキマシタ」など戦時を反映したモノもあったように思います。
( 志郎 2004.3.27)
---- 続く----
マーチャン
居住地: 宇宙
投稿数: 358
志郎さん
一息で読んでしまいました。
感動しました。
「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」世代の一人として。
私は、学童疎開児童の成れの果てーーーですが、「この疎開も第2次世界大戦が始まる前や、始まった直後は禁じられていたのですよ」ということは存じませんでした。
続きを期待しています。
一息で読んでしまいました。
感動しました。
「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」世代の一人として。
私は、学童疎開児童の成れの果てーーーですが、「この疎開も第2次世界大戦が始まる前や、始まった直後は禁じられていたのですよ」ということは存じませんでした。
続きを期待しています。
あんみつ姫
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 485
志郎さん こんばんは!
おじいさんの小学生の頃のお話し、あやかさんは
どんな感想を持たれるでしょうか('-'*)
私が小学校に入学したのは、戦後数年経ってから
ですから、もうすっかり633制で推移しました。
志郎さんは終戦の年の入学ですから、8月以降の
学校がどのように変って行ったのか、これから逐
次教えて頂けるのでしょう。
とても興味深いです。
小学生でも教科書を墨で塗り潰《つぶ》したりしたので
しょうか?
----------------
あんみつ姫
おじいさんの小学生の頃のお話し、あやかさんは
どんな感想を持たれるでしょうか('-'*)
私が小学校に入学したのは、戦後数年経ってから
ですから、もうすっかり633制で推移しました。
志郎さんは終戦の年の入学ですから、8月以降の
学校がどのように変って行ったのか、これから逐
次教えて頂けるのでしょう。
とても興味深いです。
小学生でも教科書を墨で塗り潰《つぶ》したりしたので
しょうか?
----------------
あんみつ姫
--
あんみつ姫
らごら
居住地: 横須賀市
投稿数: 46
志郎さん
引用:
昭和19年、僕が小学校5年生の頃。場所は永登浦、今のソウル特別区でした。
毎朝、近所の子供5,6人と隊列を組んで登校しました。
僕が一番年上なので班長でした。
先生が来られると「ホチョウトレーッ カシラーッ ミギィーッ」と大きな声で号令をかけます。するとみんな「ドタッ ドタッ」と歩調をとって先生の方に頭を向けます。僕は先生の方を向いて敬礼しながら歩きます。先生が答礼すると「ナオレーッ」と号令して元に戻りました。
兵隊さんの真似事をさせられていたわけです。
僕は昭和15年に入学したけれど、そのときの国語の教科書の最初には、サイタ サイタ サクラガ サイタ となっていて、桜の花とランドセルを背負った新入生の絵が載っていました。
らごら
引用:
毎朝、村落のはずれにある鎮守の森に集められ、5,6人のグループにまとめられたうえ、上級生に引率され通学していました。5,6人の子供が隊列を組んで途中で「兵隊さんよありがとう!」などを歌いつつ遠いと~い道をとぼとぼと歩いてまいりました。
・・・途中省略します・・・
算数や音楽、図工などで何を習ったかは全然記憶にはありませんが、国語の教科書のことは多少記憶しているようです。
当時は、国語と云わないで「ヨミカタ」といっていたと記憶しています。1年生の教科書は「ヨミカタ1」です。
そこには最初
「 アカイ アカイ アサヒ アサヒ 」
と書かれていたと思います。
昭和19年、僕が小学校5年生の頃。場所は永登浦、今のソウル特別区でした。
毎朝、近所の子供5,6人と隊列を組んで登校しました。
僕が一番年上なので班長でした。
先生が来られると「ホチョウトレーッ カシラーッ ミギィーッ」と大きな声で号令をかけます。するとみんな「ドタッ ドタッ」と歩調をとって先生の方に頭を向けます。僕は先生の方を向いて敬礼しながら歩きます。先生が答礼すると「ナオレーッ」と号令して元に戻りました。
兵隊さんの真似事をさせられていたわけです。
僕は昭和15年に入学したけれど、そのときの国語の教科書の最初には、サイタ サイタ サクラガ サイタ となっていて、桜の花とランドセルを背負った新入生の絵が載っていました。
らごら
三蔵志郎
居住地: 河内の国 金剛山麓
投稿数: 35
Re: 『国民学校1年生』 その2
○ローセキとセキバン
あやかさん、あなたのランドセルには教科書のほかに、ノートやいろいろな鉛筆や消しゴムなど文房具の入った筆箱などがありますね。おじいさんが1年生だった昭和20年頃は、鉛筆はすこしあったもののノートは殆《ほと》んど遣った記憶はありません。ブリキかアルマイトで出来た筆箱はあったと思います。そして、わら半紙に鉛筆や粗末な色鉛筆で字や絵を書いた記憶はかすかにあるようですが---。
書き方の練習や算数の計算は、ローセキ(蝋石)とセキバン(石盤)でやっていました。蝋石は滑石などで出来たローソク状の柔らかく白い小さな石のかけらでした。黒板に書くチョークと同じ役割をするもので、成分が石灰ではなく、岩石のかけらだったということです。石盤は、スレートとも呼ばれ、石を板状に薄く平らにしたもので文字や絵をしるす当時の学用品でした。その石盤に、ローセキを使って書き方や算数の練習をしていました。
当時は、文字は縦書きでしかも右から左方向に書いていくので、手のひらや袖口がローセキで書いた文字に触れて消えてしまうので困ったと言う思い出もあります。
○トウカカンセイとボウクウゴウ
おじいさん達が疎開した坂祝は、岐阜と飛騨高山を結ぶ国鉄(現JR)の高山本線の沿線にありました。
たしか、岐阜から数えて6つ目の駅です。この地は、当時は鄙《ひな》びた農村地帯でしたが、岐阜市街から20キロメートル、工場が多くあった大垣からは約30キロメートルの距離にあった為だったのでしょうか、時たま警戒警報や空襲警報のサイレンが鳴り響くこともありました。
敵の飛行機がもう間もなく爆撃にやって来ますから用心しなさいと云うのが警戒警報、敵の飛行機がやって来た注意しなさい、爆撃されるような事があれば防火や消火につとめなさい、さらに身の安全を確保するためにボウクウゴウ(防空壕)へ非難しなさい というのが空襲警報だったと思います。
夜、敵機が爆撃にやってくる、それに備えて裸電球の周りに黒布で覆いをかぶせたり、窓ガラスに厚い布で覆ったりして家の外に光が洩れないようにしていました。これをトウカカンセイ(灯火管制)と云っていました。
また、白く塗った土蔵の壁や民家の壁も、反射して敵機に見つかりやすくならないように、墨で黒く塗りつぶしたものが多く見られました。
防空壕は、敵機から投下される爆弾の爆風を避けたり、焼夷弾の直撃をさけるために設けられた溝や穴のことを云《い》っていました。
(焼夷弾とは、普通の爆弾が目標物を破壊するのに対し、目標物やその周辺を焼き尽くすことを目的とし、高熱を出して燃える薬剤が装備されていた砲弾のことです)
疎開前の大阪市北区(当時は大淀区といっていました)の家では、玄関を入ってすぐある上がり口の床下に1.5メータ四方、深さ1メータ程度の穴が掘られていました。その中にかがんで入って、祖母や母達と一緒に炒《い》った豆や米を齧《かじ》っていたという記憶があります。
疎開先の防空壕は、桑畑の中に作られた露天掘りのものでした。空襲サイレンが鳴る、母に連れられ姉妹たちと一緒に防空壕に駆け込む。前日から降っていた雨で防空壕の中は10数センチばかりの水溜《たま》りが出来ている。その中に足を入れる、冷たいと感じつつ空を見上げると木曽川の対岸方向の空が真っ赤に燃えている。今でも、印象に残る景色です。 大人たちは云っていました、「大垣の工場がやられている」と。
(2004.3.29)
---- 続く----
○ローセキとセキバン
あやかさん、あなたのランドセルには教科書のほかに、ノートやいろいろな鉛筆や消しゴムなど文房具の入った筆箱などがありますね。おじいさんが1年生だった昭和20年頃は、鉛筆はすこしあったもののノートは殆《ほと》んど遣った記憶はありません。ブリキかアルマイトで出来た筆箱はあったと思います。そして、わら半紙に鉛筆や粗末な色鉛筆で字や絵を書いた記憶はかすかにあるようですが---。
書き方の練習や算数の計算は、ローセキ(蝋石)とセキバン(石盤)でやっていました。蝋石は滑石などで出来たローソク状の柔らかく白い小さな石のかけらでした。黒板に書くチョークと同じ役割をするもので、成分が石灰ではなく、岩石のかけらだったということです。石盤は、スレートとも呼ばれ、石を板状に薄く平らにしたもので文字や絵をしるす当時の学用品でした。その石盤に、ローセキを使って書き方や算数の練習をしていました。
当時は、文字は縦書きでしかも右から左方向に書いていくので、手のひらや袖口がローセキで書いた文字に触れて消えてしまうので困ったと言う思い出もあります。
○トウカカンセイとボウクウゴウ
おじいさん達が疎開した坂祝は、岐阜と飛騨高山を結ぶ国鉄(現JR)の高山本線の沿線にありました。
たしか、岐阜から数えて6つ目の駅です。この地は、当時は鄙《ひな》びた農村地帯でしたが、岐阜市街から20キロメートル、工場が多くあった大垣からは約30キロメートルの距離にあった為だったのでしょうか、時たま警戒警報や空襲警報のサイレンが鳴り響くこともありました。
敵の飛行機がもう間もなく爆撃にやって来ますから用心しなさいと云うのが警戒警報、敵の飛行機がやって来た注意しなさい、爆撃されるような事があれば防火や消火につとめなさい、さらに身の安全を確保するためにボウクウゴウ(防空壕)へ非難しなさい というのが空襲警報だったと思います。
夜、敵機が爆撃にやってくる、それに備えて裸電球の周りに黒布で覆いをかぶせたり、窓ガラスに厚い布で覆ったりして家の外に光が洩れないようにしていました。これをトウカカンセイ(灯火管制)と云っていました。
また、白く塗った土蔵の壁や民家の壁も、反射して敵機に見つかりやすくならないように、墨で黒く塗りつぶしたものが多く見られました。
防空壕は、敵機から投下される爆弾の爆風を避けたり、焼夷弾の直撃をさけるために設けられた溝や穴のことを云《い》っていました。
(焼夷弾とは、普通の爆弾が目標物を破壊するのに対し、目標物やその周辺を焼き尽くすことを目的とし、高熱を出して燃える薬剤が装備されていた砲弾のことです)
疎開前の大阪市北区(当時は大淀区といっていました)の家では、玄関を入ってすぐある上がり口の床下に1.5メータ四方、深さ1メータ程度の穴が掘られていました。その中にかがんで入って、祖母や母達と一緒に炒《い》った豆や米を齧《かじ》っていたという記憶があります。
疎開先の防空壕は、桑畑の中に作られた露天掘りのものでした。空襲サイレンが鳴る、母に連れられ姉妹たちと一緒に防空壕に駆け込む。前日から降っていた雨で防空壕の中は10数センチばかりの水溜《たま》りが出来ている。その中に足を入れる、冷たいと感じつつ空を見上げると木曽川の対岸方向の空が真っ赤に燃えている。今でも、印象に残る景色です。 大人たちは云っていました、「大垣の工場がやられている」と。
(2004.3.29)
---- 続く----
変蝠林
居住地: 横浜市 オオクラヤマ
投稿数: 22
志郎さん
御立派な訓話、此処《ここ》では此の様な書き方が妥当ですね。
些《さ》てヨミカタの本、私は昭和五年の卒業ですから一年生の時には
ハナ ハト マメ マス ミノ カサ カラカサ で始まりました
後は忘れましたが其処《そこ》だけハッキリ憶えて居ます。嗚呼《ああ》懐かしい。
変蝠林(1917-)
御立派な訓話、此処《ここ》では此の様な書き方が妥当ですね。
些《さ》てヨミカタの本、私は昭和五年の卒業ですから一年生の時には
ハナ ハト マメ マス ミノ カサ カラカサ で始まりました
後は忘れましたが其処《そこ》だけハッキリ憶えて居ます。嗚呼《ああ》懐かしい。
変蝠林(1917-)
--
変蝠林
らごら
居住地: 横須賀市
投稿数: 46
ゲートルのことを忘れていました。
小学校の高学年生は、みんなゲートルを巻いて戦闘帽《せんとうぼう=日本軍が戦闘用にした帽子、内地でも男子はこの帽子をかぶった》で通学しました。服は学生服でした。
ゲートルと云うのは、厚手の細長い布を足首の上に2回ほど巻いて、少しずつ上へずらせながら膝下までぐるぐる巻きます。
途中、布を何回か折り曲げて巻きます。
こうすると、ズボンの裾がきっちりとするので、瓦礫《壊れたかわらや小石》の中などを歩いてもズボンがひっかかったりしないわけです。
帽子とすねだけ兵隊さんと同じスタイルです。
体操の時間には、行軍とか云って時々遠出をしたりしましたが、遠出の時はゲートルを少し緩く巻きます。
巻き方が下手だと、途中でぐずぐずに解けて困ったものでした。
小学校の高学年生は、みんなゲートルを巻いて戦闘帽《せんとうぼう=日本軍が戦闘用にした帽子、内地でも男子はこの帽子をかぶった》で通学しました。服は学生服でした。
ゲートルと云うのは、厚手の細長い布を足首の上に2回ほど巻いて、少しずつ上へずらせながら膝下までぐるぐる巻きます。
途中、布を何回か折り曲げて巻きます。
こうすると、ズボンの裾がきっちりとするので、瓦礫《壊れたかわらや小石》の中などを歩いてもズボンがひっかかったりしないわけです。
帽子とすねだけ兵隊さんと同じスタイルです。
体操の時間には、行軍とか云って時々遠出をしたりしましたが、遠出の時はゲートルを少し緩く巻きます。
巻き方が下手だと、途中でぐずぐずに解けて困ったものでした。
三蔵志郎
居住地: 河内の国 金剛山麓
投稿数: 35
Re: 『国民学校1年生』 その3
○キチクベイエイ
あやかさん、キチクベイエイなどと云ってもわからないでしょうね。おじいさんも、当時そのような言葉を耳にしましたが、何のことか分からなかったと思います。わかったのはそれから数年経《た》ってからのことだったと思います。キチクベイエイは鬼畜米英と書きます、当時、敵国人であった米国(アメリカ)や英国(イギリス)の人達を鬼や畜生と同じく、人の情けを知らない無慈悲な者として軽蔑《けいべつ》し、このようなもの達に負けるな、打ち負かせというような思いが込められていたのでしょうね。
このように国民に対し、辛くても貧しくても頑張りぬきなさい! そして戦意を高めなさい!というような意味の言葉がもてはやされました。
例えば
・産めよ、殖やせよ(1939年結婚10訓、第2次世界大戦勃発《ぼっぱつ》)
・ぜいたくは敵だ(この看板が1940年に登場。日独伊が軍事同盟を結ぶ)
・欲しがりません勝つまでは(1942年の流行語に、この前年に真珠湾攻撃で日米開戦)
・月月火水木金金(1945年 海軍の標語になる)
などです。これらは戦時標語と云われていたそうですよ。鬼畜米英(1944年、国民の合言葉になる)もきっとそのうちの一つだったのでしょうね。
上のなかに、結婚10訓というような今では耳にすることがないような言葉も含まれていますね。政府が「結婚十訓」を発表し、国民の結婚も国の政策で左右しようとしたのですね。兵隊の確保のため、早く結婚させてたくさん産ませるという考えであったのでしょうね。おじいさんの兄弟姉妹は5人でした、伯母《おば》さんの子即ちおじいさんにとって従兄弟《いとこ》にあたる姉妹兄弟たちは9人もおりました。当時はどの家庭も子沢山だったのですね。
この「結婚10訓」には、健康な人を選べ、悪い遺伝のない人を選べ、晩婚は避けよう、式は質素に届出は早く、産めよ殖やせよ国のため などがあったそうですね。
当時は幼かったため何のことだか分かりませんでしたが、あとで思うとあれが鬼畜米英を表す行事だとだと思うことがありました。
村の青年団の行事か、それとも「どんと祭」の変形として行われたかよく分かりません、いつの時期かも定かではありません。
村落のはずれにある鎮守の森にお兄さんたちが沢山集まっていました。幼かったおじいさん達も遠巻きに眺めていました。鎮守の森の広場に太い青竹で櫓《やぐら=高く作った構築物》のようなものを作ります、その上に米わらを覆いかぶせます。わらの塔が出来上がります。
半紙と竹串で小さな旗をつくります。その白い紙には、墨で「ルーズベルト」、「チャーチル」と云う文字が書かれていました。そうです、ルーズベルトは当時の米国大統領、チャーチルは英国の首相でした。
わらに火を点けます、炎が次第に大きくなり夜空に大きく舞い上がる様です、火花も飛び散ってきます。すると青竹の節が破裂して「ばぁ~ん」と大きく鳴り渡ります。暫らくして、また「ばぁ~ん」「ばぁ~ん」と鳴ります。
その都度、周りを囲むお兄さん達は「バンザイ」「バンザイ」「ニッポン バンザイ」と叫んでいました。
幼かったおじいさん達も一緒に「バンザイ」「ニッポン バンザイ」叫びました。訳もわからず大声で叫んでいました。
(2004.4.2)
○キチクベイエイ
あやかさん、キチクベイエイなどと云ってもわからないでしょうね。おじいさんも、当時そのような言葉を耳にしましたが、何のことか分からなかったと思います。わかったのはそれから数年経《た》ってからのことだったと思います。キチクベイエイは鬼畜米英と書きます、当時、敵国人であった米国(アメリカ)や英国(イギリス)の人達を鬼や畜生と同じく、人の情けを知らない無慈悲な者として軽蔑《けいべつ》し、このようなもの達に負けるな、打ち負かせというような思いが込められていたのでしょうね。
このように国民に対し、辛くても貧しくても頑張りぬきなさい! そして戦意を高めなさい!というような意味の言葉がもてはやされました。
例えば
・産めよ、殖やせよ(1939年結婚10訓、第2次世界大戦勃発《ぼっぱつ》)
・ぜいたくは敵だ(この看板が1940年に登場。日独伊が軍事同盟を結ぶ)
・欲しがりません勝つまでは(1942年の流行語に、この前年に真珠湾攻撃で日米開戦)
・月月火水木金金(1945年 海軍の標語になる)
などです。これらは戦時標語と云われていたそうですよ。鬼畜米英(1944年、国民の合言葉になる)もきっとそのうちの一つだったのでしょうね。
上のなかに、結婚10訓というような今では耳にすることがないような言葉も含まれていますね。政府が「結婚十訓」を発表し、国民の結婚も国の政策で左右しようとしたのですね。兵隊の確保のため、早く結婚させてたくさん産ませるという考えであったのでしょうね。おじいさんの兄弟姉妹は5人でした、伯母《おば》さんの子即ちおじいさんにとって従兄弟《いとこ》にあたる姉妹兄弟たちは9人もおりました。当時はどの家庭も子沢山だったのですね。
この「結婚10訓」には、健康な人を選べ、悪い遺伝のない人を選べ、晩婚は避けよう、式は質素に届出は早く、産めよ殖やせよ国のため などがあったそうですね。
当時は幼かったため何のことだか分かりませんでしたが、あとで思うとあれが鬼畜米英を表す行事だとだと思うことがありました。
村の青年団の行事か、それとも「どんと祭」の変形として行われたかよく分かりません、いつの時期かも定かではありません。
村落のはずれにある鎮守の森にお兄さんたちが沢山集まっていました。幼かったおじいさん達も遠巻きに眺めていました。鎮守の森の広場に太い青竹で櫓《やぐら=高く作った構築物》のようなものを作ります、その上に米わらを覆いかぶせます。わらの塔が出来上がります。
半紙と竹串で小さな旗をつくります。その白い紙には、墨で「ルーズベルト」、「チャーチル」と云う文字が書かれていました。そうです、ルーズベルトは当時の米国大統領、チャーチルは英国の首相でした。
わらに火を点けます、炎が次第に大きくなり夜空に大きく舞い上がる様です、火花も飛び散ってきます。すると青竹の節が破裂して「ばぁ~ん」と大きく鳴り渡ります。暫らくして、また「ばぁ~ん」「ばぁ~ん」と鳴ります。
その都度、周りを囲むお兄さん達は「バンザイ」「バンザイ」「ニッポン バンザイ」と叫んでいました。
幼かったおじいさん達も一緒に「バンザイ」「ニッポン バンザイ」叫びました。訳もわからず大声で叫んでいました。
(2004.4.2)
らごら
居住地: 横須賀市
投稿数: 46
引用: 隣の兄ちゃんは玄関の横に、実物大のアメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相の似顔絵を張っていました。
毎朝、その似顔絵を拳骨《げんこつ》で殴りながら「お前らのために毎日雑炊しか食えないんだ、この野郎」と怒っていましたよ。
お米も配給制で一日大人一人あたり2合5勺《=約450立方》、当時はお米が主でおかずは少ないのが普通でしたから、2合5勺では足りません。しかも配給になるのは精米していない玄米でした。玄米は炊いてもあまり膨らみません。
量を多くしようと家庭で精米(米糠《こめぬか》をとる)しました。
一升瓶《びん》に玄米を入れて、はたきの棒で根気よく突くのです。
鬼畜米英さえやっつければ、こんなことしなくて済むんだ、コンチクショウコンチクショウと棒を突っ込んでいました。
腕が疲れていやになる頃には真っ白なお米になりました。とれた米糠は炒《い》って食べました。
今では健康のためとかで、玄米を食べたりしますけれど。
当時の小学校は、現在のように給食はなく弁当を持って行きました。日の丸弁当というのが奨励されて、ご飯の真ん中に梅干しが一つだけで他のおかずは一切なしでした。ある生徒が梅干しを二つ入れてきたら、「日の丸の旗ではありませんね」と叱られていましたよ。
それから、楠公飯というのが流行《はや》りました。
お米を炒ってからお湯を入れて暫く置いておくと、米が水を吸って非常に大きくなる。ふかふかして不味《まず》いのだけれど、見た目の量が多くなるのす。
毎日、ひもじい思いをしながらも「欲しがりません勝つまでは」と頑張っていました。
半紙と竹串で小さな旗をつくります。その白い紙には、墨で「ルーズベルト」、「チャーチル」と云う文字が書かれていました。そうです、ルーズベルトは当時の米国大統領、チャーチルは英国の首相でした。
わらに火を点けます、炎が次第に大きくなり夜空に大きく舞い上がる様です、火花も飛び散ってきます。すると青竹の節が破裂して「ばぁ~ん」と大きく鳴り渡ります。暫らくして、また「ばぁ~ん」「ばぁ~ん」と鳴ります。
その都度、周りを囲むお兄さん達は「バンザイ」「バンザイ」「ニッポン バンザイ」と叫んでいました。
幼かったおじいさん達も一緒に「バンザイ」「ニッポン バンザイ」叫びました。訳もわからず大声で叫んでいました。
毎朝、その似顔絵を拳骨《げんこつ》で殴りながら「お前らのために毎日雑炊しか食えないんだ、この野郎」と怒っていましたよ。
お米も配給制で一日大人一人あたり2合5勺《=約450立方》、当時はお米が主でおかずは少ないのが普通でしたから、2合5勺では足りません。しかも配給になるのは精米していない玄米でした。玄米は炊いてもあまり膨らみません。
量を多くしようと家庭で精米(米糠《こめぬか》をとる)しました。
一升瓶《びん》に玄米を入れて、はたきの棒で根気よく突くのです。
鬼畜米英さえやっつければ、こんなことしなくて済むんだ、コンチクショウコンチクショウと棒を突っ込んでいました。
腕が疲れていやになる頃には真っ白なお米になりました。とれた米糠は炒《い》って食べました。
今では健康のためとかで、玄米を食べたりしますけれど。
当時の小学校は、現在のように給食はなく弁当を持って行きました。日の丸弁当というのが奨励されて、ご飯の真ん中に梅干しが一つだけで他のおかずは一切なしでした。ある生徒が梅干しを二つ入れてきたら、「日の丸の旗ではありませんね」と叱られていましたよ。
それから、楠公飯というのが流行《はや》りました。
お米を炒ってからお湯を入れて暫く置いておくと、米が水を吸って非常に大きくなる。ふかふかして不味《まず》いのだけれど、見た目の量が多くなるのす。
毎日、ひもじい思いをしながらも「欲しがりません勝つまでは」と頑張っていました。
三蔵志郎
居住地: 河内の国 金剛山麓
投稿数: 35
○唱歌と軍歌
あやかさん、あなたの小学校で習う課目のなかに「音楽」の時間がありますね。おじいさん達が国民学校1年生だった頃は、これを確か「唱歌」の時間といっていたように思います。その時の教科書がどのようなモノであったかは、忘れて思い出すことは出来ません。
どのような歌を習ったかも忘れました。ただ、“シロジニアカク ヒノマルソメテ アアウツクシイ日本ノハタハ”の「日の丸」と国家「君が代」は間違いなく習ったと思います。あとは、疎開先のオトナや上級生が歌っていた軍歌を口ずさんでいた記憶があります。先に紹介しました「兵隊さんよありがとう」もその1つだと思います。
日本が戦争に負けた1年生の後半から、2、3年生にかけてはラジオから流れて来る新しい歌を覚えたように思えます。その代表的なものが、“緑の丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台 鐘が鳴ります チンコンカン”の「鐘の鳴る丘」だと思います。
これは、戦争で親を亡くした浮浪児のたくましく集団で暮らし成長する内容をラジオドラマ化したものであり、そしてこの歌はそのテーマ曲であったと思います。
このほかに、明るさと爽《さわ》やかさでいつまでも記憶に残る歌があります。「朝はどこから(昭和21年 森まさる作詞)」です。この歌は今でも、口ずさむことができます、当時相当のインパクトで心に刻まれたのでしょうね。
朝はどこから 来るかしら
あの空越えて 雲越えて
光の国から 来るかしら
いえいえ そうではありません
それは 希望の家庭から
朝が来る来る 朝が来る
「お早う」 「お早う」
軍歌もいつの間にか口にしていました。当時、その歌詞の意味も十分理解せず、お兄さんたちの真似をしているまに覚えていったのでしょうね。 そのなかにはこのようなものがありました。
“父よあなたは強かった 兜《かぶと》も焦がす炎熱を 敵の屍《かばね》とともに寝て---”の「父よあなたは強かった(昭和14年)」
“見よ東海の空あけて 旭日高く輝けば 天地の正気溌剌《はつらつ》と 希望は躍る大八洲《おおやしま》---”「愛国行進曲(昭和12年)」
“海の民なら男なら みんな一度は憧《あこが》れた 太平洋の黒潮を---”「太平洋行進曲(昭和14年)」
“貴様と俺《おれ》とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く 咲いた花なら散るのは覚悟 みごと散りましょ国のため”「同期の桜(昭和19年)」 などです。
あやかさん、軍歌って何なんでしょうね。兵隊さんの士気をふるい立たせるためや、国民の愛国心をかきたてるための歌だったのでしょうか。うまく表現できませんが、軍歌には何か人々の心に訴え行動を起させるような力、魔性とも云うべきようなものがあるのでしょうか。 今でも、クラス会などで40数年前の級友と肩を組み「同期の桜」など、大声でがなり立てる時、ジーン熱くなる想いが湧《わ》き上がってきます。
軍歌といえば、こういうこともありました。おじいさんが二十歳すぎのごろ北攝のあるお寺で月1回の座禅会に出席していました。あさの10時から午後4時まで坐《すわ》り続けます、1時間に10分毎の休憩があります。あるときその休憩中に軍歌が話題になりました。そのとき、三十過ぎの上品なご婦人(ご存命なら今では80歳前ぐらいの方です)が静かに語られました。「私は、軍歌が憎い。あの軍歌が若者を戦場に駆り立てていってしまった」。当時は、夫や許嫁(いいなずけ)を戦場でなくした若いご婦人が沢山おられたのですね。いまでも、その時のその方の悔しそうなお姿が記憶にのこっています。
(2004.4.8)
--------------------続く--------------------------------------
あやかさん、あなたの小学校で習う課目のなかに「音楽」の時間がありますね。おじいさん達が国民学校1年生だった頃は、これを確か「唱歌」の時間といっていたように思います。その時の教科書がどのようなモノであったかは、忘れて思い出すことは出来ません。
どのような歌を習ったかも忘れました。ただ、“シロジニアカク ヒノマルソメテ アアウツクシイ日本ノハタハ”の「日の丸」と国家「君が代」は間違いなく習ったと思います。あとは、疎開先のオトナや上級生が歌っていた軍歌を口ずさんでいた記憶があります。先に紹介しました「兵隊さんよありがとう」もその1つだと思います。
日本が戦争に負けた1年生の後半から、2、3年生にかけてはラジオから流れて来る新しい歌を覚えたように思えます。その代表的なものが、“緑の丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台 鐘が鳴ります チンコンカン”の「鐘の鳴る丘」だと思います。
これは、戦争で親を亡くした浮浪児のたくましく集団で暮らし成長する内容をラジオドラマ化したものであり、そしてこの歌はそのテーマ曲であったと思います。
このほかに、明るさと爽《さわ》やかさでいつまでも記憶に残る歌があります。「朝はどこから(昭和21年 森まさる作詞)」です。この歌は今でも、口ずさむことができます、当時相当のインパクトで心に刻まれたのでしょうね。
朝はどこから 来るかしら
あの空越えて 雲越えて
光の国から 来るかしら
いえいえ そうではありません
それは 希望の家庭から
朝が来る来る 朝が来る
「お早う」 「お早う」
軍歌もいつの間にか口にしていました。当時、その歌詞の意味も十分理解せず、お兄さんたちの真似をしているまに覚えていったのでしょうね。 そのなかにはこのようなものがありました。
“父よあなたは強かった 兜《かぶと》も焦がす炎熱を 敵の屍《かばね》とともに寝て---”の「父よあなたは強かった(昭和14年)」
“見よ東海の空あけて 旭日高く輝けば 天地の正気溌剌《はつらつ》と 希望は躍る大八洲《おおやしま》---”「愛国行進曲(昭和12年)」
“海の民なら男なら みんな一度は憧《あこが》れた 太平洋の黒潮を---”「太平洋行進曲(昭和14年)」
“貴様と俺《おれ》とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く 咲いた花なら散るのは覚悟 みごと散りましょ国のため”「同期の桜(昭和19年)」 などです。
あやかさん、軍歌って何なんでしょうね。兵隊さんの士気をふるい立たせるためや、国民の愛国心をかきたてるための歌だったのでしょうか。うまく表現できませんが、軍歌には何か人々の心に訴え行動を起させるような力、魔性とも云うべきようなものがあるのでしょうか。 今でも、クラス会などで40数年前の級友と肩を組み「同期の桜」など、大声でがなり立てる時、ジーン熱くなる想いが湧《わ》き上がってきます。
軍歌といえば、こういうこともありました。おじいさんが二十歳すぎのごろ北攝のあるお寺で月1回の座禅会に出席していました。あさの10時から午後4時まで坐《すわ》り続けます、1時間に10分毎の休憩があります。あるときその休憩中に軍歌が話題になりました。そのとき、三十過ぎの上品なご婦人(ご存命なら今では80歳前ぐらいの方です)が静かに語られました。「私は、軍歌が憎い。あの軍歌が若者を戦場に駆り立てていってしまった」。当時は、夫や許嫁(いいなずけ)を戦場でなくした若いご婦人が沢山おられたのですね。いまでも、その時のその方の悔しそうなお姿が記憶にのこっています。
(2004.4.8)
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