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Re: 『国民学校1年生』 その2

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三蔵志郎

通常 Re: 『国民学校1年生』 その2

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/3/30 1:33
三蔵志郎  半人前 居住地: 河内の国 金剛山麓  投稿数: 35
Re: 『国民学校1年生』 その2
○ローセキとセキバン
 あやかさん、あなたのランドセルには教科書のほかに、ノートやいろいろな鉛筆や消しゴムなど文房具の入った筆箱などがありますね。おじいさんが1年生だった昭和20年頃は、鉛筆はすこしあったもののノートは殆《ほと》んど遣った記憶はありません。ブリキかアルマイトで出来た筆箱はあったと思います。そして、わら半紙に鉛筆や粗末な色鉛筆で字や絵を書いた記憶はかすかにあるようですが---。

 書き方の練習や算数の計算は、ローセキ(蝋石)とセキバン(石盤)でやっていました。蝋石は滑石などで出来たローソク状の柔らかく白い小さな石のかけらでした。黒板に書くチョークと同じ役割をするもので、成分が石灰ではなく、岩石のかけらだったということです。石盤は、スレートとも呼ばれ、石を板状に薄く平らにしたもので文字や絵をしるす当時の学用品でした。その石盤に、ローセキを使って書き方や算数の練習をしていました。
 当時は、文字は縦書きでしかも右から左方向に書いていくので、手のひらや袖口がローセキで書いた文字に触れて消えてしまうので困ったと言う思い出もあります。

○トウカカンセイとボウクウゴウ
 おじいさん達が疎開した坂祝は、岐阜と飛騨高山を結ぶ国鉄(現JR)の高山本線の沿線にありました。
たしか、岐阜から数えて6つ目の駅です。この地は、当時は鄙《ひな》びた農村地帯でしたが、岐阜市街から20キロメートル、工場が多くあった大垣からは約30キロメートルの距離にあった為だったのでしょうか、時たま警戒警報や空襲警報のサイレンが鳴り響くこともありました。
 敵の飛行機がもう間もなく爆撃にやって来ますから用心しなさいと云うのが警戒警報、敵の飛行機がやって来た注意しなさい、爆撃されるような事があれば防火や消火につとめなさい、さらに身の安全を確保するためにボウクウゴウ(防空壕)へ非難しなさい というのが空襲警報だったと思います。
 夜、敵機が爆撃にやってくる、それに備えて裸電球の周りに黒布で覆いをかぶせたり、窓ガラスに厚い布で覆ったりして家の外に光が洩れないようにしていました。これをトウカカンセイ(灯火管制)と云っていました。
また、白く塗った土蔵の壁や民家の壁も、反射して敵機に見つかりやすくならないように、墨で黒く塗りつぶしたものが多く見られました。

防空壕は、敵機から投下される爆弾の爆風を避けたり、焼夷弾の直撃をさけるために設けられた溝や穴のことを云《い》っていました。
(焼夷弾とは、普通の爆弾が目標物を破壊するのに対し、目標物やその周辺を焼き尽くすことを目的とし、高熱を出して燃える薬剤が装備されていた砲弾のことです)
疎開前の大阪市北区(当時は大淀区といっていました)の家では、玄関を入ってすぐある上がり口の床下に1.5メータ四方、深さ1メータ程度の穴が掘られていました。その中にかがんで入って、祖母や母達と一緒に炒《い》った豆や米を齧《かじ》っていたという記憶があります。
疎開先の防空壕は、桑畑の中に作られた露天掘りのものでした。空襲サイレンが鳴る、母に連れられ姉妹たちと一緒に防空壕に駆け込む。前日から降っていた雨で防空壕の中は10数センチばかりの水溜《たま》りが出来ている。その中に足を入れる、冷たいと感じつつ空を見上げると木曽川の対岸方向の空が真っ赤に燃えている。今でも、印象に残る景色です。 大人たちは云っていました、「大垣の工場がやられている」と。
                          (2004.3.29)
               ---- 続く----  

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