『国民学校1年生』
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『国民学校1年生』 (三蔵志郎, 2004/3/28 1:09)
- Re: 『国民学校1年生』 (マーチャン, 2004/3/28 16:41)
- Re: 『国民学校1年生』 (あんみつ姫, 2004/3/28 19:06)
- Re: 『国民学校1年生』 (らごら, 2004/3/29 8:24)
- Re: 『国民学校1年生』 その2 (三蔵志郎, 2004/3/30 1:33)
- Re: 『国民学校1年生』 (変蝠林, 2004/3/30 11:49)
- Re: 『国民学校1年生』 (らごら, 2004/4/1 8:27)
- Re: 『国民学校1年生』 その3 (三蔵志郎, 2004/4/2 10:24)
- Re: 『国民学校1年生』 その3 (らごら, 2004/4/3 8:39)
- Re: 『国民学校1年生』 その4 (三蔵志郎, 2004/4/8 16:30)
- Re: 『国民学校1年生』 その4 (らごら, 2004/4/8 20:55)
- Re: 『国民学校1年生』 その4 (番外) (三蔵志郎, 2004/4/11 21:38)
- Re: 『国民学校1年生』 その4 (番外) (マーチャン, 2004/4/11 22:42)
- Re: 『国民学校1年生』 その4 (番外) (三蔵志郎, 2004/4/12 11:26)
- Re: 『国民学校1年生』 その5 (三蔵志郎, 2004/4/17 11:34)
- Re: 『国民学校1年生』 その6 (三蔵志郎, 2004/5/5 23:59)
- Re: 『国民学校1年生』 資料編01 (三蔵志郎, 2004/5/8 2:29)
- Re: 『国民学校1年生』 資料編02 (三蔵志郎, 2004/5/9 21:50)
- Re: 『国民学校1年生』 その7 (三蔵志郎, 2004/5/17 5:10)
- Re: 大変な力作、ご苦労様でした。 (オアシス, 2004/5/18 22:03)
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投稿日時 2004/3/28 1:09
三蔵志郎
居住地: 河内の国 金剛山麓
投稿数: 35
『国民学校1年生』
あやかさん、もう春ですね。新学期では、早や5年生になるのですね。高学年になったのだからしっかり勉強し、楽しい学校生活を送ってくださいね。
今日は、あやかさんにおじいさんが昔むかし小学校1年生の時のことを書きますので、眼をとおして下さいね。
もう58~59年も前のことだから、記憶も不確かになっておりますが何とか思い出して、また少々調べものをしてでも出来るだけ正確に書こうと思っています。
1972(明治5)年に学制がしかれて、全国に約5万校の小学校を設置する計画で、子供が身分や男女の別なく、満6才から8年間小学校にかように奨励されました。この頃、小学校は下等小学4年、上等小学4年の2段階にわけられていた。
1886(明治19)年に学校令が公布されました。このとき、小学校は尋常《じんじょう》小学校と高等小学校の2段階制となり、それぞれを4年制とし、尋常小学校4年間が義務教育となりました。
1907(明治40)年には、尋常小学校が6年制となり、義務教育は2年延長された。尋常高等小学校は2年となりました。
1941(昭和16)年に、国民学校令が出来、小学校は国民学校となり、初等科6年、高等科2年となりました。
第2次世界大戦後の1947(昭和22)年に学校教育法が制定され、ふたたび小学校という呼び名が戻ってきました、そして小学校の6年間と中学校3年間がとともに義務教育となりました。
おじいさんが入学したのは戦争が終わる数ヶ月前の昭和20年の春でした。その前の年、確か昭和19年の晩秋に、大阪市の北区から岐阜県に、大阪で働く父親を一人残し、母や姉妹たちと一緒に疎開して来たのです。入ったのは岐阜県加茂郡坂祝(さかほぎ)国民学校でした。そう、おじいさんは「国民学校1年生」になったのです。
○ソカイについて
あやかさん、「疎開(そかい)」ってわかりますか。
疎開というのは、もともと軍隊用語であったらしいですね。密集していた歩兵部隊などを戦況に応じて隊形の間隔を広く開けることを云ったらしいですね。
しかし、おじいさんの小さい頃は東京、大阪、名古屋などの都市の住民が空襲などの被害を避けるため郊外の農村などに移住し分散するころを云っていました。
しかし、この疎開も第2次世界大戦が始まる前や、始まった直後は禁じられていたのですよ。
1940年(昭和15年)陸軍参謀本部は「国民防空指導ニ関スル指針」を発表し、避難について「空襲ヲ恐レ、都市ヲ放棄シテ避難スルハ都市ノ壊滅、我国防空ノ敗北ニシテ之《これ》ヲ認メサル所ナリ」ときめつけ、空襲下の緊急避難を除き平時避難を認めなかったそうです。
1941年(昭和16年)12月20日施行の第二次防空法でも、老幼者等で防空活動に従事できない者を定めたものも引き続き事前避難は禁止し、消火活動に従事しなかった者には500円以下の罰金を科せられることになっていたそうです。
1943(昭和18)年10月に第三次防空法という法律が公布されました。「特ニ防空ノ実施ニ従事セシムルノ要アル者以外ノ者ニ対シ情況ニ応ジ退去ヲ命ズルコトヲ得ル」と、戦火を防ぐのに役に立たない子供や女は強制的に都市部から農村部等へ移動することになりました。これが戦争疎開の始まりです。
この疎開は親戚《しんせき》や知り合いを頼って行くのが原則でしたが、このような縁故者がない小学生は、集団で郊外の農村部へ一時移住させられました。これを当時は学童疎開などと云っておりました。
おじいさんは、この学童疎開ではなく、あやかの曾《そう》おじいさんの故郷・岐阜県加茂郡坂祝村へ、曾おばあさんとおじいさんとその姉や妹二人と一緒に移住しました。そう、縁故疎開と呼ばれるものでした。それは確か、前に述べましたように戦争の終わる約8ヵ月前の1944(昭和19)年の秋だったと思います。
広島や長崎の原爆投下による悲惨な被害状況、東京の大空襲などは広く喧伝《けんでん=言い広める》されていますが、大阪にも大空襲があったのですよ。
大阪では、おじいさんたちが母に連れられて岐阜の坂祝へ疎開した直後の、1944(昭和19)年12月から終戦前日の8月14日まで、8回の大空襲を含む50回以上の空襲を受けたそうです、これらの度重なる空襲で大阪の町は焦土《しょうど=焼けこげた土地》となって終戦を迎えることとなったのです。これらの空襲被災者は120万人を越え、そのうち死者や行方不明の人達は約1万5,000人と言われています。
疎開せず大阪市に残って仕事をしていた、おじいさんのお父さん、そう あやかにとっての曾おじいさんは戦火に見舞われ、ここかしこに死者が横たわり、焼夷弾《しょういだん=燃やすために油脂や黄燐などを入れた爆弾》で燻《くす》ぶりつづける大阪の旧市街地を、布団や僅かな身の回り品を小さな荷車に積み、それを引いて逃げ惑い淀川に架かる十三《じゅうそう》大橋を越え曾おばあさんの遠縁の親戚に身を寄せたということを後で聞かされました。
おばあさんの家族は、福井県の丸岡町に疎開し戦災から免れたのですよ。おばあさんもおじいさんも疎開して難を免れましたが、もし疎開しなかったならばどうなっていたか分からないですね。ひょっとしてあやかのお母さんやあやかも生まれてなかったかも知れませんね。人がこの世に生を受けると云うことは何か不思議な縁があるのですね。このご縁を大事にしたいですね。
○遠い道程、嫌だった国民学校
あやかさん、学校は楽しいですか。お友達と仲良くやっていますか。 おじいさんが国民学校1年生だった頃は、学校へ行くのは本当にいやでした。
疎開っ子としてイジメニあったこともありますが、何よりも学校への道程が大変だったことが原因だとおもいます。おじいさん達が疎開したのは、前にも述べましたように岐阜県加茂郡坂祝村のある村落でした。坂祝村は今では坂祝町となったいます、疎開先の村落は深田といっていました、お隣の美濃太田町は市に昇格し、美濃加茂市になりましたが、その深田は、美濃太田に隣接していた為、今では坂祝から美濃加茂市に編入されています。
疎開先の住居からは、国鉄高山線の美濃太田駅が近くにあり、太田国民学校は目の先にありました。しかし、当時は越境入学など考えられず真面目《まじめ》に一駅先にある坂祝駅近くにある坂祝国民学校までかよっていました。坂祝駅と美濃太田駅の間は、1里(4km)ありましたので、毎日この長い長い砂利道を通学したことになります。
毎朝、村落のはずれにある鎮守の森《ちんじゅのもり=その地を守る社のある森》に集められ、5,6人のグループにまとめられたうえ、上級生に引率され通学していました。5,6人の子供が隊列を組んで途中で「兵隊さんよありがとう!」などを歌いつつ遠いと~い道をとぼとぼと歩いてまいりました。
あやかさん、「兵隊さんよありがとう!」を知っていますか。ちょっと紹介しましょね。1番と2番だけです。
「 肩をならべて兄さんと 夕べ楽しき御飯どき
今日も学校へいけるのは 家内そろって語るのも
兵隊さんのおかげです 兵隊さんのおかげです
お国のために お国のために
お国のために戦った お国のために傷ついた
兵隊さんのおかげです 兵隊さんのおかげです」
(-皇軍将士に感謝の歌- 昭和14年 橋本善三郎 作詞)
下校時は、学年によって授業の終りがまちまちのためか、隊列を組むことなく三々五々帰宅していました。その下校時にこのようなことがありました。それは終戦直前のたしか昭和20年7月の日がカンカンと照り付けていた暑い日のことだったと思います。
同級生や上級生4,5人で下校していた昼過ぎのことです。敵の小型飛行機が私たちに目掛けて急旋回し降下して来ました、機関銃で通学路の前方目掛けて弾を数発撃ちつけてきました。音と共に砂煙が数箇所で上がったのを目撃しました。私達は、慌てて通学路近くの藪の中に身を隠しました。
その頃は、空も陸でも日本軍は防衛能力を失くしていたのでしょうね。多分、若い敵の飛行兵が茶目っ気をだして日本の子供を驚かすためやったのではないでしょうか。
遠い道のりと言えば、この1年生の時たった1度経験した遠足も、岐阜県のお隣の愛知県にある犬山城でした。確か、坂祝から犬山までは10キロ以上あったと思います。疎開先の居住地からは片道約15キロほどの道程になったと思います。大阪生まれで大阪育ちのおじいさんには、とっても辛い遠足でした。その上、近道をするため国鉄高山線の線路伝いに進んで行ったところもありました。とくに途中、木曽川に架かる鉄橋を渡るときは大変怖い思いをしました。線路の枕木《まくらぎ》と枕木の間は相当広く開いており1年生の小さな体ではスッポリと落ちてしまいそうでした。その上、下に見える木曽川は水かさ多く轟々《ごうごう》と流れており本当に肝を冷やす思いでした。
今、この様な危険な遠足をやればきっと担任の先生や校長は、PTAのお母さんたちから喧々囂々《けんけんごうごう=たくさんの人が喧しく騒ぎ立てるさま》の非難を浴びるでしょうね。
○ヨミカタ1
1年生の頃、教室でどのようなことを習ったかは定かではありません。ただ思い出されるのは、担任の先生はミシナ(三品?)という名の相当ご年配の男の先生であったこと、勤労奉仕で学校内でレンガ運びをやらされたこと、木曽川から自分の頭ぐらいの石を拾って来て校庭まで運んだことなどです。
男女同一のクラスであったかも思い出せず、どうであったかは分かりません。
算数や音楽、図工などで何を習ったかは全然記憶にはありませんが、国語の教科書のことは多少記憶しているようです。
当時は、国語と云わないで「ヨミカタ」といっていたと記憶しています。1年生の教科書は「ヨミカタ1」です。
そこには最初
「 アカイ アカイ アサヒ アサヒ 」
と書かれていたと思います。
「 ハト コイコイ コマイヌサン ア コマイヌサン ウン」
などもあったと記憶しています。
このテキストの最後の方には、「舌切り雀」や「桃太郎さん」の童話ものっていたと記憶してます。
そのほか、「○○サン(太郎さんかな?)ハ、ラッパノエヲカキマシタ △△サンハ、グンカンノエヲカキマシタ」など戦時を反映したモノもあったように思います。
( 志郎 2004.3.27)
---- 続く----
あやかさん、もう春ですね。新学期では、早や5年生になるのですね。高学年になったのだからしっかり勉強し、楽しい学校生活を送ってくださいね。
今日は、あやかさんにおじいさんが昔むかし小学校1年生の時のことを書きますので、眼をとおして下さいね。
もう58~59年も前のことだから、記憶も不確かになっておりますが何とか思い出して、また少々調べものをしてでも出来るだけ正確に書こうと思っています。
1972(明治5)年に学制がしかれて、全国に約5万校の小学校を設置する計画で、子供が身分や男女の別なく、満6才から8年間小学校にかように奨励されました。この頃、小学校は下等小学4年、上等小学4年の2段階にわけられていた。
1886(明治19)年に学校令が公布されました。このとき、小学校は尋常《じんじょう》小学校と高等小学校の2段階制となり、それぞれを4年制とし、尋常小学校4年間が義務教育となりました。
1907(明治40)年には、尋常小学校が6年制となり、義務教育は2年延長された。尋常高等小学校は2年となりました。
1941(昭和16)年に、国民学校令が出来、小学校は国民学校となり、初等科6年、高等科2年となりました。
第2次世界大戦後の1947(昭和22)年に学校教育法が制定され、ふたたび小学校という呼び名が戻ってきました、そして小学校の6年間と中学校3年間がとともに義務教育となりました。
おじいさんが入学したのは戦争が終わる数ヶ月前の昭和20年の春でした。その前の年、確か昭和19年の晩秋に、大阪市の北区から岐阜県に、大阪で働く父親を一人残し、母や姉妹たちと一緒に疎開して来たのです。入ったのは岐阜県加茂郡坂祝(さかほぎ)国民学校でした。そう、おじいさんは「国民学校1年生」になったのです。
○ソカイについて
あやかさん、「疎開(そかい)」ってわかりますか。
疎開というのは、もともと軍隊用語であったらしいですね。密集していた歩兵部隊などを戦況に応じて隊形の間隔を広く開けることを云ったらしいですね。
しかし、おじいさんの小さい頃は東京、大阪、名古屋などの都市の住民が空襲などの被害を避けるため郊外の農村などに移住し分散するころを云っていました。
しかし、この疎開も第2次世界大戦が始まる前や、始まった直後は禁じられていたのですよ。
1940年(昭和15年)陸軍参謀本部は「国民防空指導ニ関スル指針」を発表し、避難について「空襲ヲ恐レ、都市ヲ放棄シテ避難スルハ都市ノ壊滅、我国防空ノ敗北ニシテ之《これ》ヲ認メサル所ナリ」ときめつけ、空襲下の緊急避難を除き平時避難を認めなかったそうです。
1941年(昭和16年)12月20日施行の第二次防空法でも、老幼者等で防空活動に従事できない者を定めたものも引き続き事前避難は禁止し、消火活動に従事しなかった者には500円以下の罰金を科せられることになっていたそうです。
1943(昭和18)年10月に第三次防空法という法律が公布されました。「特ニ防空ノ実施ニ従事セシムルノ要アル者以外ノ者ニ対シ情況ニ応ジ退去ヲ命ズルコトヲ得ル」と、戦火を防ぐのに役に立たない子供や女は強制的に都市部から農村部等へ移動することになりました。これが戦争疎開の始まりです。
この疎開は親戚《しんせき》や知り合いを頼って行くのが原則でしたが、このような縁故者がない小学生は、集団で郊外の農村部へ一時移住させられました。これを当時は学童疎開などと云っておりました。
おじいさんは、この学童疎開ではなく、あやかの曾《そう》おじいさんの故郷・岐阜県加茂郡坂祝村へ、曾おばあさんとおじいさんとその姉や妹二人と一緒に移住しました。そう、縁故疎開と呼ばれるものでした。それは確か、前に述べましたように戦争の終わる約8ヵ月前の1944(昭和19)年の秋だったと思います。
広島や長崎の原爆投下による悲惨な被害状況、東京の大空襲などは広く喧伝《けんでん=言い広める》されていますが、大阪にも大空襲があったのですよ。
大阪では、おじいさんたちが母に連れられて岐阜の坂祝へ疎開した直後の、1944(昭和19)年12月から終戦前日の8月14日まで、8回の大空襲を含む50回以上の空襲を受けたそうです、これらの度重なる空襲で大阪の町は焦土《しょうど=焼けこげた土地》となって終戦を迎えることとなったのです。これらの空襲被災者は120万人を越え、そのうち死者や行方不明の人達は約1万5,000人と言われています。
疎開せず大阪市に残って仕事をしていた、おじいさんのお父さん、そう あやかにとっての曾おじいさんは戦火に見舞われ、ここかしこに死者が横たわり、焼夷弾《しょういだん=燃やすために油脂や黄燐などを入れた爆弾》で燻《くす》ぶりつづける大阪の旧市街地を、布団や僅かな身の回り品を小さな荷車に積み、それを引いて逃げ惑い淀川に架かる十三《じゅうそう》大橋を越え曾おばあさんの遠縁の親戚に身を寄せたということを後で聞かされました。
おばあさんの家族は、福井県の丸岡町に疎開し戦災から免れたのですよ。おばあさんもおじいさんも疎開して難を免れましたが、もし疎開しなかったならばどうなっていたか分からないですね。ひょっとしてあやかのお母さんやあやかも生まれてなかったかも知れませんね。人がこの世に生を受けると云うことは何か不思議な縁があるのですね。このご縁を大事にしたいですね。
○遠い道程、嫌だった国民学校
あやかさん、学校は楽しいですか。お友達と仲良くやっていますか。 おじいさんが国民学校1年生だった頃は、学校へ行くのは本当にいやでした。
疎開っ子としてイジメニあったこともありますが、何よりも学校への道程が大変だったことが原因だとおもいます。おじいさん達が疎開したのは、前にも述べましたように岐阜県加茂郡坂祝村のある村落でした。坂祝村は今では坂祝町となったいます、疎開先の村落は深田といっていました、お隣の美濃太田町は市に昇格し、美濃加茂市になりましたが、その深田は、美濃太田に隣接していた為、今では坂祝から美濃加茂市に編入されています。
疎開先の住居からは、国鉄高山線の美濃太田駅が近くにあり、太田国民学校は目の先にありました。しかし、当時は越境入学など考えられず真面目《まじめ》に一駅先にある坂祝駅近くにある坂祝国民学校までかよっていました。坂祝駅と美濃太田駅の間は、1里(4km)ありましたので、毎日この長い長い砂利道を通学したことになります。
毎朝、村落のはずれにある鎮守の森《ちんじゅのもり=その地を守る社のある森》に集められ、5,6人のグループにまとめられたうえ、上級生に引率され通学していました。5,6人の子供が隊列を組んで途中で「兵隊さんよありがとう!」などを歌いつつ遠いと~い道をとぼとぼと歩いてまいりました。
あやかさん、「兵隊さんよありがとう!」を知っていますか。ちょっと紹介しましょね。1番と2番だけです。
「 肩をならべて兄さんと 夕べ楽しき御飯どき
今日も学校へいけるのは 家内そろって語るのも
兵隊さんのおかげです 兵隊さんのおかげです
お国のために お国のために
お国のために戦った お国のために傷ついた
兵隊さんのおかげです 兵隊さんのおかげです」
(-皇軍将士に感謝の歌- 昭和14年 橋本善三郎 作詞)
下校時は、学年によって授業の終りがまちまちのためか、隊列を組むことなく三々五々帰宅していました。その下校時にこのようなことがありました。それは終戦直前のたしか昭和20年7月の日がカンカンと照り付けていた暑い日のことだったと思います。
同級生や上級生4,5人で下校していた昼過ぎのことです。敵の小型飛行機が私たちに目掛けて急旋回し降下して来ました、機関銃で通学路の前方目掛けて弾を数発撃ちつけてきました。音と共に砂煙が数箇所で上がったのを目撃しました。私達は、慌てて通学路近くの藪の中に身を隠しました。
その頃は、空も陸でも日本軍は防衛能力を失くしていたのでしょうね。多分、若い敵の飛行兵が茶目っ気をだして日本の子供を驚かすためやったのではないでしょうか。
遠い道のりと言えば、この1年生の時たった1度経験した遠足も、岐阜県のお隣の愛知県にある犬山城でした。確か、坂祝から犬山までは10キロ以上あったと思います。疎開先の居住地からは片道約15キロほどの道程になったと思います。大阪生まれで大阪育ちのおじいさんには、とっても辛い遠足でした。その上、近道をするため国鉄高山線の線路伝いに進んで行ったところもありました。とくに途中、木曽川に架かる鉄橋を渡るときは大変怖い思いをしました。線路の枕木《まくらぎ》と枕木の間は相当広く開いており1年生の小さな体ではスッポリと落ちてしまいそうでした。その上、下に見える木曽川は水かさ多く轟々《ごうごう》と流れており本当に肝を冷やす思いでした。
今、この様な危険な遠足をやればきっと担任の先生や校長は、PTAのお母さんたちから喧々囂々《けんけんごうごう=たくさんの人が喧しく騒ぎ立てるさま》の非難を浴びるでしょうね。
○ヨミカタ1
1年生の頃、教室でどのようなことを習ったかは定かではありません。ただ思い出されるのは、担任の先生はミシナ(三品?)という名の相当ご年配の男の先生であったこと、勤労奉仕で学校内でレンガ運びをやらされたこと、木曽川から自分の頭ぐらいの石を拾って来て校庭まで運んだことなどです。
男女同一のクラスであったかも思い出せず、どうであったかは分かりません。
算数や音楽、図工などで何を習ったかは全然記憶にはありませんが、国語の教科書のことは多少記憶しているようです。
当時は、国語と云わないで「ヨミカタ」といっていたと記憶しています。1年生の教科書は「ヨミカタ1」です。
そこには最初
「 アカイ アカイ アサヒ アサヒ 」
と書かれていたと思います。
「 ハト コイコイ コマイヌサン ア コマイヌサン ウン」
などもあったと記憶しています。
このテキストの最後の方には、「舌切り雀」や「桃太郎さん」の童話ものっていたと記憶してます。
そのほか、「○○サン(太郎さんかな?)ハ、ラッパノエヲカキマシタ △△サンハ、グンカンノエヲカキマシタ」など戦時を反映したモノもあったように思います。
( 志郎 2004.3.27)
---- 続く----