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Re: 『国民学校1年生』 その4

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三蔵志郎

通常 Re: 『国民学校1年生』 その4

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/4/8 16:30
三蔵志郎  半人前 居住地: 河内の国 金剛山麓  投稿数: 35
○唱歌と軍歌
 あやかさん、あなたの小学校で習う課目のなかに「音楽」の時間がありますね。おじいさん達が国民学校1年生だった頃は、これを確か「唱歌」の時間といっていたように思います。その時の教科書がどのようなモノであったかは、忘れて思い出すことは出来ません。
 どのような歌を習ったかも忘れました。ただ、“シロジニアカク ヒノマルソメテ アアウツクシイ日本ノハタハ”の「日の丸」と国家「君が代」は間違いなく習ったと思います。あとは、疎開先のオトナや上級生が歌っていた軍歌を口ずさんでいた記憶があります。先に紹介しました「兵隊さんよありがとう」もその1つだと思います。
 日本が戦争に負けた1年生の後半から、2、3年生にかけてはラジオから流れて来る新しい歌を覚えたように思えます。その代表的なものが、“緑の丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台 鐘が鳴ります チンコンカン”の「鐘の鳴る丘」だと思います。
これは、戦争で親を亡くした浮浪児のたくましく集団で暮らし成長する内容をラジオドラマ化したものであり、そしてこの歌はそのテーマ曲であったと思います。
 このほかに、明るさと爽《さわ》やかさでいつまでも記憶に残る歌があります。「朝はどこから(昭和21年 森まさる作詞)」です。この歌は今でも、口ずさむことができます、当時相当のインパクトで心に刻まれたのでしょうね。
           朝はどこから 来るかしら
           あの空越えて 雲越えて
           光の国から 来るかしら
           いえいえ そうではありません
           それは 希望の家庭から
           朝が来る来る 朝が来る
           「お早う」 「お早う」
 
 軍歌もいつの間にか口にしていました。当時、その歌詞の意味も十分理解せず、お兄さんたちの真似をしているまに覚えていったのでしょうね。 そのなかにはこのようなものがありました。
 “父よあなたは強かった 兜《かぶと》も焦がす炎熱を 敵の屍《かばね》とともに寝て---”の「父よあなたは強かった(昭和14年)」
 “見よ東海の空あけて 旭日高く輝けば 天地の正気溌剌《はつらつ》と 希望は躍る大八洲《おおやしま》---”「愛国行進曲(昭和12年)」
 “海の民なら男なら みんな一度は憧《あこが》れた 太平洋の黒潮を---”「太平洋行進曲(昭和14年)」
 “貴様と俺《おれ》とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く 咲いた花なら散るのは覚悟 みごと散りましょ国のため”「同期の桜(昭和19年)」  などです。

 あやかさん、軍歌って何なんでしょうね。兵隊さんの士気をふるい立たせるためや、国民の愛国心をかきたてるための歌だったのでしょうか。うまく表現できませんが、軍歌には何か人々の心に訴え行動を起させるような力、魔性とも云うべきようなものがあるのでしょうか。 今でも、クラス会などで40数年前の級友と肩を組み「同期の桜」など、大声でがなり立てる時、ジーン熱くなる想いが湧《わ》き上がってきます。
 軍歌といえば、こういうこともありました。おじいさんが二十歳すぎのごろ北攝のあるお寺で月1回の座禅会に出席していました。あさの10時から午後4時まで坐《すわ》り続けます、1時間に10分毎の休憩があります。あるときその休憩中に軍歌が話題になりました。そのとき、三十過ぎの上品なご婦人(ご存命なら今では80歳前ぐらいの方です)が静かに語られました。「私は、軍歌が憎い。あの軍歌が若者を戦場に駆り立てていってしまった」。当時は、夫や許嫁(いいなずけ)を戦場でなくした若いご婦人が沢山おられたのですね。いまでも、その時のその方の悔しそうなお姿が記憶にのこっています。
        (2004.4.8)
       --------------------続く--------------------------------------

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