ある学徒兵の死 (スカッパー) <一部英訳あり>
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投稿日時 2007/2/3 15:26
スカッパー
投稿数: 25
今更 63年も前の出来事を と考えましたが 忘れようとしても忘れられない青春時代の 痛恨の思い出 を書くことで こんな青春を送った人もあるのだ という事を 現代社会の若い方々に送り 最近「硫黄島からの手紙」が映画上映され 感激した方も有るやに聞きますが これに勝るとも 劣らない戦場での 悲惨さがあった事も知っておいて 戴《いただ》きたい との 思いから 綴《つづ》ります
これは昭和18年《1943年》12月 中央大学法科から学業半ばで学窓から 学徒出陣《がくとしゅつじん=学生の間は徴兵されなかったが1943年、この制度が廃止され、文科系の学生が招集された》で海軍に入った日から 始まるのである 鹿児島海軍航空隊での基礎。術科教程終了後 出水航空基地の405飛行隊から新編成の763航空隊に配属された M海軍少尉の物語である
昭和19年12月下旬比島(ヒリピン)ルソン島のクラーク中飛行場に無事(当時は制空海権も米軍に握られていた)着任した
この手記を書いたのは 彼M少尉と同時着任し 彼の最後を見届けたT海軍一等整備兵曹《へいそう=》〔生還者〕の遺族宛《あて》の手記から 転載するものです
当時の比島での戦況は 既にマッカーサー麾下《きか=指揮の下にあること》の米軍は レイテ島に大挙来襲して 上陸に成功し さらに比島奪回に陸 海 空軍の全力を投入して 総反撃に転じており その圧倒的な敵戦力の前に日本軍の敗色は濃厚であった
かつて精鋭を誇った クラーク基地群所在の各航空隊の保有機数も激減 在比第一航空艦隊並びに台湾から応援に駆けつけた第二航空艦隊も壊滅状態に陥り 第一航空艦隊大西司令長官は在比塔乗員を台湾に脱出させ 第二航空艦隊を第一航空艦隊に吸収 昭和20年1月5日急遽《きゅうきょ=大急ぎで》 残された航空隊所属隊員に クラーク防衛海部隊の陸戦隊編成を命じ 長官他司令部要員は 台湾に移動した
1月9日には既に敵米軍は大挙 リンガエン湾に上陸開始し 逐次《ちくじ=次々と》クラークに進撃が始まった
急遽編成された 陸戦隊も陸戦の経験もなければ 訓練も無い 航空部隊の地上勤務員で構成され 陸戦に必要な兵器とて 満足に無く 弾薬 医薬 糧秣《りょうまつ=兵と馬の食糧》など 誠に乏しく 辛うじて 機上搭載の機銃《=飛行機の中で使用する機関銃》を改造したもの(長期間使用すると銃身が焼ける)等々 見るべき兵器無しで 戦はねばならないのである その上50キロ西方のピナツボ山麓《さんろく=やまのふもと》に 一夜作り《=短時間で作った間に合わせ》の 塹壕《ざんごう=土を掘って身を隠す穴》に篭《こも》り 敵戦車 航空機 重砲《口径の大きい強力な砲》を迎い撃たねばならない その総員約23,000名 戦線を11戦区から17戦区に配備 彼M海軍少尉の展開先は16戦区で約6,000名の中の一員で部下50名の小隊長として悪戦苦闘が始まるのである
1月末には敵はダウまで進出 いよいよ各戦区での迎撃戦が始まり 16戦区では右翼第一線の赤山黄山陣地で地形を利用して奮戦したが 手榴弾《しゅりゅうだん=手で投げる小型爆弾》と機銃《=機関銃》が主力兵器で敵の重砲 戦車には 抗しきれず 相当な損害を受けるに至った
他戦区の13,14,15戦区は壊滅状態になり 3月5日戦線の第一次整理が発令 16,17戦区は現状を確保 他の戦区は後退し17戦区に収容となる
3月中旬の残存兵力は16戦区で1,300名〔編成当初の21%〕負傷者を含む 総員2,750名〔編成当初の12%〕で80%以上が戦陣に埋もれた事となる
4月中旬 司令部は今後の作戦方針を
1、治療を要しない病人と負傷者は西方及びイバに先行分散 自活を計る
2、戦闘可能な者は集団行動により ピナツポ山西方又はイバ方面に出て 畑を占領 自活を計り 好機に乗じて ゲリラ戦を行う
16戦区でも 4月17日生存者の中から戦闘可能者を集め 部隊の新編成が行われ 同時に戦闘不能の負傷者及び栄養失調 マラリア チフス 赤痢《せきり》等の患者は 適宜戦線を離脱し 山野を彷徨《ほうこう=さまようこと》する
「死の旅」に発つ運命となる 「この日以降 連絡不能 消息不明の者は<戦病死>とみなす」と言う事であった
これまで指揮小隊長として 病(マラリアと赤痢)をおして勇戦敢闘していたM少尉も 部下の殆ど《ほとんど》を失い 心身共に疲労困憊《こんぱい》して戦闘不能の状態で 患者隊に編入された
4月24日から28日にかけて 敵はピナツポ山麓の我が軍に対し一大殲滅《せんめつ=みなごろし》作戦を開始
この山の北北東 オンドネル川の水源地に「桶谷」という 小さな谷があります
この谷で私の所属しておりました 海軍第16戦区部隊(指揮官佐多直大佐)は 前方の左右後方から敵を迎える事になり 直ちに傘下《さんか=中心的な人物の周りに寄り集まること》の第2連隊を迎撃隊として後方に急派し 又第1連隊(連隊長田中次郎中佐)を 谷の西方ピナツポ山北稜線《りょうせん=山の尾根》下の ナマコに進出させて ここに連隊本部を構えさせた そして主力をこの付近から西側の崖《がけ》の密林 マロナット川の川原にかけて 布陣せしめた やがてマロナット川に沿って進攻してきた 敵と一大決戦が展開される 特に24~25日のナマコ山での激戦は まさに凄惨《せいさん》な「死闘」で 殆ど《ほとんど》が戦死を遂げた
私(T一等整備兵曹)は この戦闘においても 不思議にも命を永らえ 幸運としか申し上げようがありません 生き延びた私は 全く偶然に M少尉にお目にかかったのであります
5月15日だったと記憶しておりますが マロナット川の下流方面に 食料の偵察《ていさつ》に行った私は 崖《がけ》に沿い煙草を吸いながら帰路を急いでおりました
「オーイ オーイ」と かすかな声で呼ばれているような気がして立ち止まって辺りを見回しますと 20メートル程右手の大きな石の陰から 誰か手を振っているのが目に入り 思わず駆け寄りました 小高いバナナ林から流れる小川があり その川原の石の間に色褪《あ》せて汚れきった三種軍装の士官が蹲《うずくま》っておりました
黒線二本の略帽《=艦内帽》をかぶり 階級章はありませんでした 髭《ひげ》は伸び放題《ほうだい》 痩《や》せ細って憔悴《しょうすい》し切った顔は 土色で 腰から下は既に腐って異臭を放ち 目を覆う惨状を呈しておりました その士官から 「16戦区か?」と聞かれ 「そうです」と答えますと 「煙草を吸っているのか。。。俺《おれ》にも一服吸わせろよ。。。。俺も16戦区だ」と言われました 私がポケットから煙草を出そうとすると「その吸いさしでいいよ」と言われ 一口吸って「うまいなー」と言って 私に返されました 暫く間をおいて 「俺はもうだめだ。。。。動こうにも動けなくなった 今度はもう助かりそうにない。。。。この下の川原の戦闘で。。。皆死んで俺1人になってしまったのだが こいつの始末に困っているんだ」と 横に置いてあった軍刀を手にして「君にやるから 持って行ってくれ。。。」と言われ 一言いっては 肩で息をすると いった状態で まことに痛ましい限りでした
私は辞退しましたが それでも「持って行ってくれ。。。」と 苦しい息の下から何度も言われました
普通の刀とは異なり 士官の制式軍刀ですので「戴《いただ》いて宜しいのですか」と念を押しますと「うん」と頷《うなず》き 微《かす》かに にっこりされました 「カビが生えて美味く無い煙草ですが二本しか ありませんが吸って下さい」 私は半ば強引にポケットに入れました 士官は何かつぶやきながら 一度 こっくりして私を見上げました 私は戴いた軍刀を持って「偵察の帰りですので これで失礼します お大事になさって下さい 又参ります」と言って別れを告げましたが 士官の顔には 微かな安堵《あんど》の色と寂しい影が浮かんでいました 士官の名前は幾ら尋ねても 最後まで申されませんでした
帰隊後 直ちに小隊長I少尉に報告しますと 「あれはM少尉だよ」と言われました 私は声が出ない位驚きました
それは あまりにも変わり果てたM少尉の姿であり そしてナマコ山を脱出後三週間余り あの死闘の戦場を病気の身をもって どの様に切り抜け あの川原までたどり着かれたのか。。。。常識では想像も出来なかったからでした
私は小隊長の言葉を信じかね「まさかあの方が M少尉とは。。。。」と申しました
しかし本部では しきりに偵察を出し 状況を最もよく把握しておられた参謀のD大尉や本部付のS中尉 I少尉等が本部へ復帰を勧められた際 M少尉は「部下を全滅させておいて なんの面目があって本部に帰れますか 私の配置は飽くまで第一線です」と答え 頑として応じ無かったとのことでした 学徒出身の士官でありながら その責任感の強さに私は深く感動いたしました
M少尉は陸戦隊の指揮小隊長として 50名の部下を率いて クラーク基地を後に密林に入ってから 悪戦苦闘を続ける事約四ヶ月 小隊は全滅しながらただ1人生き残り しかも病苦をおして最後まで軍人らしく第一線の配置を守り通したのです
そして海軍士官の名誉にかけて 軍刀を持ったまま 野垂れ死の姿を さらしたく無かったに 違いありません 士官は全員拳銃《けんじゅう》を持っておられたのですが 当時のM少尉はもって おられませんでした 多分自ら処分されたのでしょう
ピナツポ山北稜線下の いわゆる「ナマコ山の決戦」の頃 すでに我が軍には空腹を満たすに 一口の食料もなく 病気を治療する医薬品もないという 状態でした
M少尉は僅《わず》か数名の部下と ピナツポ山麓か マロナット川辺を彷徨《ほうこう》中 敵と遭遇されたのでは ないかと 思いますが これと如何《いか》に戦い 如何に生き永らえたかを知る人は 最早やこの世におりません 恐らく所持していた拳銃で 弾丸を撃ち尽くし さらに倒れた部下の銃を執り 病躯《びょうく》に鞭《むち》打って 死に物狂いで戦われたのでしょう そしてマロット川を押し渡り 上流西岸の密林に潜んで 敵の鉾先《ほこさき》をかわしている間に 部下は次々に 息絶えて ついにM少尉1人きりになってしまったと 思われます その後病気で衰弱した体を回復すべく 密林の小さな流れにいる 小蟹《かに》や蛙《かえる》 或は昆虫や カタツムリ を食べられたようです (総ての人がこうしていたからです)
しかし 此れが好転しかけていた病気を 再び悪化させる原因になったと思われます 猛烈な下痢《げり》に苦しむ日が続き ついに川原の石の間に倒れ 歩く事も出来なくなり 精も根も尽き果てて静かに死を待っておられた と想像するものです
そして 偶々《たまたま》近くを通り掛かった私を見かけ 最後の力を振り絞って 声をあげ手を振り呼び止め 気がかりで死のうにも死ねなかった軍刀の処置を私に託されたのだと 思われます
この頃16戦区司令部は マロナット川最上流 ピナツポ山北西内懐の奥深い密林の中にありましたが 餓死する者 栄養失調で動けなくなる者 敗戦による不安から逃亡する者等で 支離滅裂となり 地獄の敗残兵とも言うべき 無惨な有様でした
私はM少尉の事が気がかりでしたが 雑務に追われて直ちに行く事が出来ませんでした 数日後の偵察の際 M少尉のおられた地点に行って見ましたが 既に その姿は無く 誰かの手によって周囲を石で囲われておりました
一面の川原で 土をかけ様にも それが無いのです 恐らくM少尉を良く知っておられた D大尉がそうされたのでは 無いでしょうか そのD大尉も先年故人となられ 確認のしようもありません
前述の通り 私がM少尉と運命的な巡り会いをしたのは 昭和20年5月10日でしたから その時の状態からして 亡くなられたのは 11日か12日頃では 無いかと 思われます
遥かに遠く故国を離れた ルソン島中部の奥地 ピナツポ山西麓《せいろく》マロナット川上流西岸 その荒涼たる石の川原に 23歳を一期として 護国の鬼となられた M少尉の墓前に額《ぬか》ずき 合掌しながら私は 男泣きしました
気作《きさく》に下士官達のところに来ては 談笑しておられた元気な頃の M少尉を偲《しの》びつつ。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
M少尉の戦没の公式発表は「5月25日戦病死」ではなかったかと思います
瀕死《ひんし》の士官を無情にも見殺しにしたと蔑《さげす》まないで下さい
それぞれが生きる事に一生懸命で 「今日の人の身も 明日は我が身」と言う 毎日でした
何時自分が死ぬか 夢夢生きて帰れるなんて 思ってもいられなかったのです
「殺されるか 餓死するか 自決か」の三つしか 考えられませんでした。。。。。以下省略します
その後の クラーク防衛海部隊の動向は 当初23.000名の隊員が 終戦時には 僅《わず》か 450名(2%に満たない)の生存者と成る程の 激戦地であった
まだM少尉は最後の状況が少しでも判明した事は 幸いな方で 何時《いつ》 何処《どこ》で 如何《どう》して も判明しない 多くの戦死者が殆どあります
ただ一片の「戦死公報」のみでご遺族にすれば 表現できない 悲しみが残るものと 偲びます
スカッパー
KyoYamO
投稿数: 13
はじめまして。
私の祖父にあたる人物は、昭和20年にフィリピンのルソン島で戦死したそうです。遺児である私の母が2歳のときに出征したので、母は実父の顔も覚えておらず、母の姉たちが戦死について語ってくれた少しの情報しか持ち合わせていませんでした。当然、その孫にあたる私は、祖父の戦死についてはまったく知らず、お恥ずかしいことですが、まったく他人事のような気がしておりました。
ところが、2007年春になって、いろいろな出来事があり、孫である私が祖父の戦死の詳細を知りたいと思うようになりました。
所属部隊や戦死までの概要は叔母《おば=父母の妹》が持っていた記録からだいたいのことが明らかになりましたが、もし祖父と同部隊の方が生還していらっしゃるのなら、そして、その方がご健在ならば是非お話を伺いたいと思っています。
しかし、日本遺族会や厚生労働省に問い合わせても、生還者についての情報は手がかりがなく、肩をおとしていました。
そんな矢先に、このHPで祖父と非常に近い場所でともに戦っていた方の記録があることを目にしました。何か少しでも良いので、当時の状況がわかる方とコンタクトが取れるかもしれない、と藁《わら》にもすがる思いでメッセージを書き込んでいます。
祖父の記録で残っているものは以下のみです。
大竹海兵団 第318設営隊
呉二補技 海軍技術兵長 氏名:稲見職知
昭和19年10月12日 マニラ上陸
昭和20年1月6日クラーク防衛部第17戦区隊に編入・複郭陣地を構築
昭和20年1月11日 マバラカットの陸軍建武陣地に入る
昭和20年20年6月10日 クラーク西方山地において戦死
残された家族にとって、家長の戦死はあまりにも辛い思い出だったようで、祖母は生前、孫の私には何も話してはくれませんでした。遺児である母やその兄弟も同様です。しかし、遺児の母や叔母たちも高齢化し、今年がフィリピンに慰霊に行ける最期のチャンスかもしれないと言っています。遺族の心情としては、できるだけ終焉《しゅうえん=臨終》を迎えた地の近くで慰霊を行いたい、と考えていますが、そのためには上記の公報よりは詳細な情報が必要になります。
このメッセージをお読みになった方で、何かしらの手がかりをお持ちの方がいらっしゃれば、是非ご一報いただきたいと思います。
よろしくお願いします。
私の祖父にあたる人物は、昭和20年にフィリピンのルソン島で戦死したそうです。遺児である私の母が2歳のときに出征したので、母は実父の顔も覚えておらず、母の姉たちが戦死について語ってくれた少しの情報しか持ち合わせていませんでした。当然、その孫にあたる私は、祖父の戦死についてはまったく知らず、お恥ずかしいことですが、まったく他人事のような気がしておりました。
ところが、2007年春になって、いろいろな出来事があり、孫である私が祖父の戦死の詳細を知りたいと思うようになりました。
所属部隊や戦死までの概要は叔母《おば=父母の妹》が持っていた記録からだいたいのことが明らかになりましたが、もし祖父と同部隊の方が生還していらっしゃるのなら、そして、その方がご健在ならば是非お話を伺いたいと思っています。
しかし、日本遺族会や厚生労働省に問い合わせても、生還者についての情報は手がかりがなく、肩をおとしていました。
そんな矢先に、このHPで祖父と非常に近い場所でともに戦っていた方の記録があることを目にしました。何か少しでも良いので、当時の状況がわかる方とコンタクトが取れるかもしれない、と藁《わら》にもすがる思いでメッセージを書き込んでいます。
祖父の記録で残っているものは以下のみです。
大竹海兵団 第318設営隊
呉二補技 海軍技術兵長 氏名:稲見職知
昭和19年10月12日 マニラ上陸
昭和20年1月6日クラーク防衛部第17戦区隊に編入・複郭陣地を構築
昭和20年1月11日 マバラカットの陸軍建武陣地に入る
昭和20年20年6月10日 クラーク西方山地において戦死
残された家族にとって、家長の戦死はあまりにも辛い思い出だったようで、祖母は生前、孫の私には何も話してはくれませんでした。遺児である母やその兄弟も同様です。しかし、遺児の母や叔母たちも高齢化し、今年がフィリピンに慰霊に行ける最期のチャンスかもしれないと言っています。遺族の心情としては、できるだけ終焉《しゅうえん=臨終》を迎えた地の近くで慰霊を行いたい、と考えていますが、そのためには上記の公報よりは詳細な情報が必要になります。
このメッセージをお読みになった方で、何かしらの手がかりをお持ちの方がいらっしゃれば、是非ご一報いただきたいと思います。
よろしくお願いします。
スカッパー
投稿数: 25
kyoyamo様
はじめまして 御投稿有難とう御座いました
御遺族として 一片の戦死公報だけでは 御納得出来ない心情は充分 はかり知れます しかし 当時の生存者探しは 大変困難だろうと思います 私と同様既に傘寿《さんじゅ》(80歳)は過ぎ少数だろうと 考えるからです
昭和19年10月マニラ上陸 なんと奇遇でしょうか 私も同月マニラ経由クラーク北飛行場の 攻撃251飛行隊に着任しております 私の場合は飛行隊が全滅状態で 編成替えのため12月に 内地に移動しております 同時期に一緒に行った同期生は 総て戦死しております
若し残されれば 同様に戦死していたでしょう
御祖父様はクラーク防衛隊海部隊では17戦区に配属とか しかし直ぐに最前線のマバラカット基地の陸軍部隊に派遣された とか 当時は11戦区から17戦区が ピナツポ山麓に北から南に それぞれ布陣しており17戦区に留まって居られれば戦区の行動はある程度 判るものと思いますが 陸軍部隊への派遣は 勿論少数の事だろうと考えますと 消息を知るのは尚困難だろうと 思います
特に航空部隊の把握は可也《かなり》出来ますが 設営部隊の消息は私には把握できません 戦闘状況の概要は「ある学徒兵の死」の前半に簡単に書いてありますが 今回の投稿は偶々《たまたま》戦死した同期生と同じ部隊に所属した部下が生還して 御遺族に報告されたので判明したもので 希少なものでした 殆ど《ほとんど》判明しないのが現実です
従って 御祖父様の個別の状況把握は 恐らく困難ではないでしょうか 航空隊の場合も 一度基地を発進しますと 未帰還機となれば それまでで 遺骨も何も残りません はかないものです 戦死されたのが6月10日 ピナツポ山麓西方山地とありますので マバラカット基地での守備が崩壊し 山地に移動され戦死されたものでしょうね
唯当時の防衛隊の概括的な 戦闘状況は判りますので せめてもの 当時の状況把握の意味での資料ならば いつでも提供は出来ますので 御知らせ下さい
折角のお申し出ながら 納得される御返事が出来ず申し訳ありません 御冥福《めいふく》を お祈りします 合掌
スカッパー拝
はじめまして 御投稿有難とう御座いました
御遺族として 一片の戦死公報だけでは 御納得出来ない心情は充分 はかり知れます しかし 当時の生存者探しは 大変困難だろうと思います 私と同様既に傘寿《さんじゅ》(80歳)は過ぎ少数だろうと 考えるからです
昭和19年10月マニラ上陸 なんと奇遇でしょうか 私も同月マニラ経由クラーク北飛行場の 攻撃251飛行隊に着任しております 私の場合は飛行隊が全滅状態で 編成替えのため12月に 内地に移動しております 同時期に一緒に行った同期生は 総て戦死しております
若し残されれば 同様に戦死していたでしょう
御祖父様はクラーク防衛隊海部隊では17戦区に配属とか しかし直ぐに最前線のマバラカット基地の陸軍部隊に派遣された とか 当時は11戦区から17戦区が ピナツポ山麓に北から南に それぞれ布陣しており17戦区に留まって居られれば戦区の行動はある程度 判るものと思いますが 陸軍部隊への派遣は 勿論少数の事だろうと考えますと 消息を知るのは尚困難だろうと 思います
特に航空部隊の把握は可也《かなり》出来ますが 設営部隊の消息は私には把握できません 戦闘状況の概要は「ある学徒兵の死」の前半に簡単に書いてありますが 今回の投稿は偶々《たまたま》戦死した同期生と同じ部隊に所属した部下が生還して 御遺族に報告されたので判明したもので 希少なものでした 殆ど《ほとんど》判明しないのが現実です
従って 御祖父様の個別の状況把握は 恐らく困難ではないでしょうか 航空隊の場合も 一度基地を発進しますと 未帰還機となれば それまでで 遺骨も何も残りません はかないものです 戦死されたのが6月10日 ピナツポ山麓西方山地とありますので マバラカット基地での守備が崩壊し 山地に移動され戦死されたものでしょうね
唯当時の防衛隊の概括的な 戦闘状況は判りますので せめてもの 当時の状況把握の意味での資料ならば いつでも提供は出来ますので 御知らせ下さい
折角のお申し出ながら 納得される御返事が出来ず申し訳ありません 御冥福《めいふく》を お祈りします 合掌
スカッパー拝
KyoYamO
投稿数: 13
スカッパー様
早速にご連絡いただき、ありがとうございました。
戦死者の状況を知ることがかなり困難であること、よくわかりました。
「ある学徒兵の死」の前半の戦況とクラーク基地周辺の状況は今まで調べた中でもっとも祖父に近く、具体的なものでした。貴重な情報、ありがとうございました。
また、祖父の最期の状況も、今回の返信にいただいたように「マバラカット基地での守備が崩壊し 山地に移動」し、そして病死か餓死か殺されたか、で亡くなったのだろうと思います。「ある学徒兵・・」で当時の山中での状況を知り、祖父は6月までよく持ちこたえたな、というのが正直な感想です。ただ、あと2ヶ月生き延びてくれていたら、祖母や残された遺児たちは戦後あれほどの苦労をしなくてもよかったかもしれない、と思うと残念です。
祖父がいつまで第17戦区にとどまっていたのか、まったくわかりませんが、第17戦区というのが祖父の最期の所属になっています。この第17戦区というのは山中に入った後、どこを守備していたのでしょうか。
当時の状況について、できるだけ知りたいと思っています。ご協力いただけると大変ありがたく存じます。
KyoYamO
早速にご連絡いただき、ありがとうございました。
戦死者の状況を知ることがかなり困難であること、よくわかりました。
「ある学徒兵の死」の前半の戦況とクラーク基地周辺の状況は今まで調べた中でもっとも祖父に近く、具体的なものでした。貴重な情報、ありがとうございました。
また、祖父の最期の状況も、今回の返信にいただいたように「マバラカット基地での守備が崩壊し 山地に移動」し、そして病死か餓死か殺されたか、で亡くなったのだろうと思います。「ある学徒兵・・」で当時の山中での状況を知り、祖父は6月までよく持ちこたえたな、というのが正直な感想です。ただ、あと2ヶ月生き延びてくれていたら、祖母や残された遺児たちは戦後あれほどの苦労をしなくてもよかったかもしれない、と思うと残念です。
祖父がいつまで第17戦区にとどまっていたのか、まったくわかりませんが、第17戦区というのが祖父の最期の所属になっています。この第17戦区というのは山中に入った後、どこを守備していたのでしょうか。
当時の状況について、できるだけ知りたいと思っています。ご協力いただけると大変ありがたく存じます。
KyoYamO
スカッパー
投稿数: 25
kyoyamoさん
あくまで 御祖父様の個別の状況把握は 余程《よほど》の目撃者が居ない限り 判りませんが お手許に保存されている項目別に 判る範囲での解説を致しますが 長くなりますので 2~3回に分けて記載いたします
御祖父様の記録に従って当時の戦線の状況からお話いたしましょう
○大竹海兵団 第318設営隊
○呉二補技 海軍技術兵長
大竹海兵団とは 私も昭和18年に 学徒出陣で入団しましたが
当時呉海兵団の派遣隊として造成された 処で 主に新しく海軍に志願した人の 新人教育を行う 施設です
設営隊とは 基地や飛行場 道路 その他陸上での施設建設を目的とした部隊であって 他の兵科の様に銃砲等での直接兵器をもって戦うのを目的とした部隊ではない 土木建築等の技術集団である
御祖父様も入団前の御職業に関係があったのでは無いでしょうか
昭和19年10月12日マニラ上陸
大竹海兵団での教育が終わり何らかの便で比島の設営隊に移動されたようです 当時の比島(ヒリピンのルソン島)での戦況は 第一航空艦隊の各航空隊では連日の攻撃で 保有している飛行機も殆ど消滅し 司令長官大西中将が 初めての 神風特攻隊の攻撃(体当たり攻撃)を決意し決行した 時期であって敗戦色濃厚な時期でもありました 従って私の着任した攻撃251飛行隊は搭乗する飛行機も皆無で 結果12月に隊の編成替えで内地に移動し ルソン島での機動攻撃は終焉《しゅうえん=最後》の時期でもありました
○昭和20年1月6日クラーク防衛海部隊17戦区に編入。複郭陣地《ふっかくじんち=多人数が入れる壕(堀)》を構築
前述の戦況で1月4日 第一航空艦隊司令長官大西中将は 在比(ヒリピン)全航空隊の焼尽に伴い 先に増成に馳《は》せ参じ一体化して戦って来た 第二航空艦隊に 比島から退いて貰い 第一航空艦隊が残留して陸戦続行を決断
1月6日には在比航空隊の残留兵力で 急遽《きゅうきょ》クラーク防衛海部隊(KBK)を編成 ルソン島の陸戦迎撃要綱では ルソン島を三箇所に分け 山下陸軍大将を最高指揮官として 北部山岳地帯に陸軍による尚武集団 中部クラーク周辺に海軍と陸軍混成の建武集団 東部山岳地帯に陸軍と海軍の混成の振武集団とした
1月8日在比航空隊残留搭乗員は最北基地のツゲガラオから 台湾に引き上げ 第一航空艦隊司令長官も台湾に移動 26航空戦隊司令長官杉本丑衛少将がクラーク防衛海部隊の総指揮を継承 陸戦には殆ど経験の無い しかも武器弾薬 食料も備蓄の無い 急造の防衛隊で ピナツポ山麓の丘陵に 複郭陣地の構築に当られたので ありましょう
戦線を11戦区から17戦区に 山麓の北から南に配置 17戦区は 最南端後方の位置にありました 当時の略図は別途メール添付で送ります
○昭和20年1月11日 マバラカットの陸軍陣地に入る
ご祖父様は17戦区からマバラカットの陸軍陣地(マバラカットには)二箇所の飛行場がありましたが 恐らくどちらかの飛行場を 迎撃陣地とする為) 一部の兵員と共に派遣され 陣地構築に当られたのでありましょう 既に1月9日には敵米軍がリンガエン湾から上陸マニラに向けて進出中でありました
「クラーク防衛海部隊の編成と陣地場所並びに構成人員」
本丸司令部 26航空戦隊司令長官 杉本丑衛少将「戦死」
(本丸 ) 800名
11戦区部隊 141航空隊司令 中村大佐「戦死」
12戦区部隊 11戦区司令兼任 11+12 約1,500名
13戦区部隊 14戦区司令兼任(オードネル南西)約3,000名
14戦区部隊 761航空隊司令 松本中佐「生還」約3,000名
(屋島 富士 箱崎)
15戦区部隊 1航空艦隊参謀 宮本中佐「生還」 約3,000名
(天神山 高千穂)
16戦区部隊 763航空隊司令 佐多大佐「生還」 約6,000名
(赤山 黄山)
17戦区部隊 341航空隊司令 船木中佐「戦死」 約3,000名
(奥山)
雷部隊(兵站)北非航空隊司令 瀬戸口中佐「戦死」約800名
(本丸)
後方勤務 (本丸西方) 約2,250名
合計 23,350名
(注)本数字は厚生省資料による 推計です
この構成員が終戦時には 僅か450名になるほどの 激戦地でした
○昭和20年6月10日 クラーク西方山地において戦死
マバラカットの陸軍陣地(当時マバラカットには東西二つの飛行場があった)に17戦区から派遣されて 帰隊されていたのか
残られたのか判りませんが いずれにしても 個別情報はありません
以下次号へ
あくまで 御祖父様の個別の状況把握は 余程《よほど》の目撃者が居ない限り 判りませんが お手許に保存されている項目別に 判る範囲での解説を致しますが 長くなりますので 2~3回に分けて記載いたします
御祖父様の記録に従って当時の戦線の状況からお話いたしましょう
○大竹海兵団 第318設営隊
○呉二補技 海軍技術兵長
大竹海兵団とは 私も昭和18年に 学徒出陣で入団しましたが
当時呉海兵団の派遣隊として造成された 処で 主に新しく海軍に志願した人の 新人教育を行う 施設です
設営隊とは 基地や飛行場 道路 その他陸上での施設建設を目的とした部隊であって 他の兵科の様に銃砲等での直接兵器をもって戦うのを目的とした部隊ではない 土木建築等の技術集団である
御祖父様も入団前の御職業に関係があったのでは無いでしょうか
昭和19年10月12日マニラ上陸
大竹海兵団での教育が終わり何らかの便で比島の設営隊に移動されたようです 当時の比島(ヒリピンのルソン島)での戦況は 第一航空艦隊の各航空隊では連日の攻撃で 保有している飛行機も殆ど消滅し 司令長官大西中将が 初めての 神風特攻隊の攻撃(体当たり攻撃)を決意し決行した 時期であって敗戦色濃厚な時期でもありました 従って私の着任した攻撃251飛行隊は搭乗する飛行機も皆無で 結果12月に隊の編成替えで内地に移動し ルソン島での機動攻撃は終焉《しゅうえん=最後》の時期でもありました
○昭和20年1月6日クラーク防衛海部隊17戦区に編入。複郭陣地《ふっかくじんち=多人数が入れる壕(堀)》を構築
前述の戦況で1月4日 第一航空艦隊司令長官大西中将は 在比(ヒリピン)全航空隊の焼尽に伴い 先に増成に馳《は》せ参じ一体化して戦って来た 第二航空艦隊に 比島から退いて貰い 第一航空艦隊が残留して陸戦続行を決断
1月6日には在比航空隊の残留兵力で 急遽《きゅうきょ》クラーク防衛海部隊(KBK)を編成 ルソン島の陸戦迎撃要綱では ルソン島を三箇所に分け 山下陸軍大将を最高指揮官として 北部山岳地帯に陸軍による尚武集団 中部クラーク周辺に海軍と陸軍混成の建武集団 東部山岳地帯に陸軍と海軍の混成の振武集団とした
1月8日在比航空隊残留搭乗員は最北基地のツゲガラオから 台湾に引き上げ 第一航空艦隊司令長官も台湾に移動 26航空戦隊司令長官杉本丑衛少将がクラーク防衛海部隊の総指揮を継承 陸戦には殆ど経験の無い しかも武器弾薬 食料も備蓄の無い 急造の防衛隊で ピナツポ山麓の丘陵に 複郭陣地の構築に当られたので ありましょう
戦線を11戦区から17戦区に 山麓の北から南に配置 17戦区は 最南端後方の位置にありました 当時の略図は別途メール添付で送ります
○昭和20年1月11日 マバラカットの陸軍陣地に入る
ご祖父様は17戦区からマバラカットの陸軍陣地(マバラカットには)二箇所の飛行場がありましたが 恐らくどちらかの飛行場を 迎撃陣地とする為) 一部の兵員と共に派遣され 陣地構築に当られたのでありましょう 既に1月9日には敵米軍がリンガエン湾から上陸マニラに向けて進出中でありました
「クラーク防衛海部隊の編成と陣地場所並びに構成人員」
本丸司令部 26航空戦隊司令長官 杉本丑衛少将「戦死」
(本丸 ) 800名
11戦区部隊 141航空隊司令 中村大佐「戦死」
12戦区部隊 11戦区司令兼任 11+12 約1,500名
13戦区部隊 14戦区司令兼任(オードネル南西)約3,000名
14戦区部隊 761航空隊司令 松本中佐「生還」約3,000名
(屋島 富士 箱崎)
15戦区部隊 1航空艦隊参謀 宮本中佐「生還」 約3,000名
(天神山 高千穂)
16戦区部隊 763航空隊司令 佐多大佐「生還」 約6,000名
(赤山 黄山)
17戦区部隊 341航空隊司令 船木中佐「戦死」 約3,000名
(奥山)
雷部隊(兵站)北非航空隊司令 瀬戸口中佐「戦死」約800名
(本丸)
後方勤務 (本丸西方) 約2,250名
合計 23,350名
(注)本数字は厚生省資料による 推計です
この構成員が終戦時には 僅か450名になるほどの 激戦地でした
○昭和20年6月10日 クラーク西方山地において戦死
マバラカットの陸軍陣地(当時マバラカットには東西二つの飛行場があった)に17戦区から派遣されて 帰隊されていたのか
残られたのか判りませんが いずれにしても 個別情報はありません
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スカッパー
投稿数: 25
(2)
17戦区だけの 戦闘資料ではありませんが クラーク防衛海部隊
全体の行動資料として 当時の763航空隊(16戦区)付の残務整理班が書いた 戦闘状況報告に基づき 当時の状況を書いてみますので 御祖父様の最後の状況を推察して下さい
戦闘状況
昭和20年1月9日 敵米軍はリンガエン湾に上陸と共にクラーク飛行場に対する空襲は連日延べ800機を越え 地上部隊は20日にタルラックに 24日にはバンバンに達し同飛行場より観測機が発進し弾着観測を開始した 陸軍陣地の被害は逐次《ちくじ=次々と》増大し戦闘は激烈を極めた 連絡と転進《てんしん=戦争末期、退却を意味する軍隊用語》作業に使用していたクラーク中飛行場は26日以降使用不能となる 敵がダウまで進出してきたからである
2月複郭陣地の戦闘
陸軍陣地が突破された後2月下旬よりバンバン及びストチェンバーク方面から砲爆撃と戦車歩兵の攻撃が始まる
右翼第一線の16戦区は2月上旬より赤山 黄山陣地で地形を利用して奮戦したが相当大きな損害を受けた 2月9日 15戦区の天神山 高千穂が第一線となる 手榴弾と機銃が主力武器である友軍
は重砲と戦車を制圧する方法はなく 洞穴陣地間の相互支援も地形状 適せず 敵は猛爆の下一歩一歩我が陣地を侵食する
天神山は司令部の高森山陣地の直前に位置し 死守陣地として16戦区 陸軍 17戦区よりの支援により 3月5日まで確保された
左翼の13 14戦区に対し敵は急速道路を造成し 猛烈な砲駁撃の下に戦車を推進し 両陣営の背面より砲爆を浴びせ 屋島 富士
箱崎の各陣地は全く崩壊し 敵の席巻《せっけん=片端から攻め取る》するままとなる
15戦区の友軍の一部に絶望的敗戦感により戦意を全く欠如し時に戦線離脱者を出し所々に戦線欠落することがあった この2月中下旬の戦闘においては15 13 14各戦区の大部分は陣地の崩壊と埋没で殆ど戦死を遂げたものと推察される
尚13戦区は終戦までに全滅した為 状態全く不明となる
第一次陣地整理
中央及び左翼が崩壊し このままでは全く包囲される恐れが出てきたので3月5日戦線整理が発令された 即ち16 17戦区は現状のまま陣地を確保し 15戦区を17戦区に収容し13 14戦区は丸山 西丸山の線に後退させる事になった 司令部は3月8日深山に移動 この頃的は天神山を突破し戦車が高森山に進出してきた
16 17戦区は連日激戦を展開 3月上旬黄山に来襲の敵は撃退したが 赤山の一部に拠点を築いた敵は次第に兵力を増してきた
3月中旬の残存兵力と西方転進
13 14戦区が西方に撤収《てっしゅう=纏めて引き揚げる》を完了し 16 17戦区に対しピナツポ山北方 楠谷への転進が発令された 3月21日頃の推定兵力は13戦区150名 14戦区350名 15戦区150名 16戦区1,300名
17戦区500名 司令部300名の計2,750名であった 但し負傷者多数を含むで 編成当初の18%に過ぎない 2ヶ月で80%が戦陣に埋もれた事になる これでも尚悲惨な戦闘行為を強いるには時の流れと言うべきか 4月11日16 17戦区は所定に位置に移動を完了した
次へ
17戦区だけの 戦闘資料ではありませんが クラーク防衛海部隊
全体の行動資料として 当時の763航空隊(16戦区)付の残務整理班が書いた 戦闘状況報告に基づき 当時の状況を書いてみますので 御祖父様の最後の状況を推察して下さい
戦闘状況
昭和20年1月9日 敵米軍はリンガエン湾に上陸と共にクラーク飛行場に対する空襲は連日延べ800機を越え 地上部隊は20日にタルラックに 24日にはバンバンに達し同飛行場より観測機が発進し弾着観測を開始した 陸軍陣地の被害は逐次《ちくじ=次々と》増大し戦闘は激烈を極めた 連絡と転進《てんしん=戦争末期、退却を意味する軍隊用語》作業に使用していたクラーク中飛行場は26日以降使用不能となる 敵がダウまで進出してきたからである
2月複郭陣地の戦闘
陸軍陣地が突破された後2月下旬よりバンバン及びストチェンバーク方面から砲爆撃と戦車歩兵の攻撃が始まる
右翼第一線の16戦区は2月上旬より赤山 黄山陣地で地形を利用して奮戦したが相当大きな損害を受けた 2月9日 15戦区の天神山 高千穂が第一線となる 手榴弾と機銃が主力武器である友軍
は重砲と戦車を制圧する方法はなく 洞穴陣地間の相互支援も地形状 適せず 敵は猛爆の下一歩一歩我が陣地を侵食する
天神山は司令部の高森山陣地の直前に位置し 死守陣地として16戦区 陸軍 17戦区よりの支援により 3月5日まで確保された
左翼の13 14戦区に対し敵は急速道路を造成し 猛烈な砲駁撃の下に戦車を推進し 両陣営の背面より砲爆を浴びせ 屋島 富士
箱崎の各陣地は全く崩壊し 敵の席巻《せっけん=片端から攻め取る》するままとなる
15戦区の友軍の一部に絶望的敗戦感により戦意を全く欠如し時に戦線離脱者を出し所々に戦線欠落することがあった この2月中下旬の戦闘においては15 13 14各戦区の大部分は陣地の崩壊と埋没で殆ど戦死を遂げたものと推察される
尚13戦区は終戦までに全滅した為 状態全く不明となる
第一次陣地整理
中央及び左翼が崩壊し このままでは全く包囲される恐れが出てきたので3月5日戦線整理が発令された 即ち16 17戦区は現状のまま陣地を確保し 15戦区を17戦区に収容し13 14戦区は丸山 西丸山の線に後退させる事になった 司令部は3月8日深山に移動 この頃的は天神山を突破し戦車が高森山に進出してきた
16 17戦区は連日激戦を展開 3月上旬黄山に来襲の敵は撃退したが 赤山の一部に拠点を築いた敵は次第に兵力を増してきた
3月中旬の残存兵力と西方転進
13 14戦区が西方に撤収《てっしゅう=纏めて引き揚げる》を完了し 16 17戦区に対しピナツポ山北方 楠谷への転進が発令された 3月21日頃の推定兵力は13戦区150名 14戦区350名 15戦区150名 16戦区1,300名
17戦区500名 司令部300名の計2,750名であった 但し負傷者多数を含むで 編成当初の18%に過ぎない 2ヶ月で80%が戦陣に埋もれた事になる これでも尚悲惨な戦闘行為を強いるには時の流れと言うべきか 4月11日16 17戦区は所定に位置に移動を完了した
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スカッパー
投稿数: 25
(3)
4月上旬より中旬
4月上旬司令部は今後の作戦方針を次のように指示した
1.治療を必要としない病人 負傷者は西方及びイバに分散 先行し自活を計る
2.戦闘可能の者は集団行動によりピナツポ山西方又はイバ方面に出て畑を占領 自活を計り 好機に乗じてゲリラ戦を行う
これに基づいて各隊は4月10日頃西進の行動を起こしたが 12日に至り 急造の道路を戦車が西方及び北方には相当数の敵がいる事を認めた イバ街道は厳重な警備がなされている事が判明
この状態により4月20日頃司令部はKBKの編成を解き 各部隊の行動は各戦区の司令部の指揮官に委《ゆだ》ねられる事となる
第二次包囲攻撃
4月下旬 各隊はピナツポ山北側を西進し草原地帯に入った 4月23日 16戦区の偵察により東方及び西方より挟撃《きょうげき=挟み撃ち》を受ける状況にある事知る
24日未明東方の敵は司令部及び16戦区の一部と楠谷で遭遇交戦
又西方の敵はマロット川沿いのナマコ山付近で16戦区と交戦しその後東西の敵は合流して大利根川を北上掃討《そうとう=すっかり滅ぼすこと》を行い 28日山地一帯より撤収したものと思われる
この挟撃により4月24日から28日の間に16 17戦区以外は殆ど全滅したものと推定される
戦没認定資料(状況推定)
13 15戦区は4月24日より28日に至る間ピナツポ山西北麓ヤンガー部落付近において包囲攻撃を受け 交戦戦死
14戦区部隊は4月中旬13 15戦区と略《ほぼ》同様の行動中 土民の攻撃を受け後退 その後南下し7月上旬ピナツポ山南麓で50名が 16戦区指揮官佐多大佐の指揮下に入る
16戦区 攻撃702飛行隊兵器整備科員は3月31日バンバン川上流の十の谷付近でP38戦闘機の攻撃を受け 又同整備科員 153航空隊 1021航空隊は4月28日ピナツポ山西北麓マロナット川上流において包囲攻撃を受け交戦戦死
17戦区は4月中旬大利根川一の谷川沿いを北上し イバ タルラック方面に向う途中 4月24日より28日の間包囲攻撃を受け交戦戦死したものと推定する
司令部は4月25日イバ マシンロック方面に進出 以後消息不明となる
終戦時の生存者は14戦区60名 16戦区350名 後方部隊40名
合計450名であった
と結んであるが これを書いたのは16戦区付の残務整理班であって
16戦区以外の戦区の事の情報収集が何処《どこ》まで信じられるか疑問である その証拠に 17戦区で6月10日戦死した稲見職知さんのことが洩《も》れている 恐らく 何名かは4月の包囲攻撃から生き残り山地をさまよう内に 6月10日に交戦戦死したものと推察できます
当時の混乱した戦場でのことで止むを得ない点は考慮しても 16戦区だけは最後まで部隊組織を継承し 部下の統率があったので 最も多くの生存者が残されたのであろうと 私は推定しております
この報告は事実をさらりと 報告文書にしておりますが 各戦区個々での 前述の「ある学徒兵の死」のような生生しい悲劇は数多く有りますが 割愛します 如何でしたか少しは御祖父様の最後が
思い描けたでしょうか スカッパー拝
4月上旬より中旬
4月上旬司令部は今後の作戦方針を次のように指示した
1.治療を必要としない病人 負傷者は西方及びイバに分散 先行し自活を計る
2.戦闘可能の者は集団行動によりピナツポ山西方又はイバ方面に出て畑を占領 自活を計り 好機に乗じてゲリラ戦を行う
これに基づいて各隊は4月10日頃西進の行動を起こしたが 12日に至り 急造の道路を戦車が西方及び北方には相当数の敵がいる事を認めた イバ街道は厳重な警備がなされている事が判明
この状態により4月20日頃司令部はKBKの編成を解き 各部隊の行動は各戦区の司令部の指揮官に委《ゆだ》ねられる事となる
第二次包囲攻撃
4月下旬 各隊はピナツポ山北側を西進し草原地帯に入った 4月23日 16戦区の偵察により東方及び西方より挟撃《きょうげき=挟み撃ち》を受ける状況にある事知る
24日未明東方の敵は司令部及び16戦区の一部と楠谷で遭遇交戦
又西方の敵はマロット川沿いのナマコ山付近で16戦区と交戦しその後東西の敵は合流して大利根川を北上掃討《そうとう=すっかり滅ぼすこと》を行い 28日山地一帯より撤収したものと思われる
この挟撃により4月24日から28日の間に16 17戦区以外は殆ど全滅したものと推定される
戦没認定資料(状況推定)
13 15戦区は4月24日より28日に至る間ピナツポ山西北麓ヤンガー部落付近において包囲攻撃を受け 交戦戦死
14戦区部隊は4月中旬13 15戦区と略《ほぼ》同様の行動中 土民の攻撃を受け後退 その後南下し7月上旬ピナツポ山南麓で50名が 16戦区指揮官佐多大佐の指揮下に入る
16戦区 攻撃702飛行隊兵器整備科員は3月31日バンバン川上流の十の谷付近でP38戦闘機の攻撃を受け 又同整備科員 153航空隊 1021航空隊は4月28日ピナツポ山西北麓マロナット川上流において包囲攻撃を受け交戦戦死
17戦区は4月中旬大利根川一の谷川沿いを北上し イバ タルラック方面に向う途中 4月24日より28日の間包囲攻撃を受け交戦戦死したものと推定する
司令部は4月25日イバ マシンロック方面に進出 以後消息不明となる
終戦時の生存者は14戦区60名 16戦区350名 後方部隊40名
合計450名であった
と結んであるが これを書いたのは16戦区付の残務整理班であって
16戦区以外の戦区の事の情報収集が何処《どこ》まで信じられるか疑問である その証拠に 17戦区で6月10日戦死した稲見職知さんのことが洩《も》れている 恐らく 何名かは4月の包囲攻撃から生き残り山地をさまよう内に 6月10日に交戦戦死したものと推察できます
当時の混乱した戦場でのことで止むを得ない点は考慮しても 16戦区だけは最後まで部隊組織を継承し 部下の統率があったので 最も多くの生存者が残されたのであろうと 私は推定しております
この報告は事実をさらりと 報告文書にしておりますが 各戦区個々での 前述の「ある学徒兵の死」のような生生しい悲劇は数多く有りますが 割愛します 如何でしたか少しは御祖父様の最後が
思い描けたでしょうか スカッパー拝
KyoYamO
投稿数: 13
スカッパー様
詳細な記録をありがとうございました。大変貴重な情報で、これをお調べになるのにはかなりの時間がかかったことと思われます。
ルソン島方面からの生還者の手記(出版されているもの)を数冊読みまして、山中での抗戦がいかに悲壮を極めるものだったかがよくわかりました。
こんな悲惨な経験を経て生還された方々にとっては口をつぐんで忘れたい体験だろうと思いますが、その気持ちを押して若い世代に伝承してくださっていることに心から感謝をいたします。
さて、いくつかご教示願いたいことがあります。
1)祖父の入隊とその配属については、ご推察のとおりで、祖父は召集前は炭鉱技師だったそうです。召集されたとき(昭和19年7月)はすでに37歳で、当時の平均年齢からするとかなり高齢だったと思うのですが、それでも召集がかかるほど当時の日本の戦局には暗雲が立ち込めていた、ということでしょうか。
2)混成集団だった建武集団には、構成兵士3万人にいきわたるほどの武器はなく、大多数が丸腰だったという記述をどこかで読みました。事実でしょうか?
3)建武集団のマバラカット陣地が突破された後、残存していた兵士たちはクラーク西方の複郭陣地に後退し、その複郭陣地も3月中旬には崩壊したため、西方山中に後退した、という記述を別のHPで目にしました。真偽の程は不明ですが、建武集団の残された兵士たちとクラーク防衛海部隊との行動行程が重なっているような気がします。このような場合、どこかに部隊合流の記録などが残っているものなのでしょうか?
3)祖父の戦死公報には、海軍技術兵長(呉二補技 第32125号)という記録があります。番号の部分は以前のメッセージには掲載しなかったのですが、この番号は何の番号ですか?また、国が保管している資料(たとえば防衛省の戦史資料室など)には、この番号から何か情報がたどれる可能性はありますか?
お分かりになる範囲で教えていただければ幸甚です。
KyoYamO 拝
詳細な記録をありがとうございました。大変貴重な情報で、これをお調べになるのにはかなりの時間がかかったことと思われます。
ルソン島方面からの生還者の手記(出版されているもの)を数冊読みまして、山中での抗戦がいかに悲壮を極めるものだったかがよくわかりました。
こんな悲惨な経験を経て生還された方々にとっては口をつぐんで忘れたい体験だろうと思いますが、その気持ちを押して若い世代に伝承してくださっていることに心から感謝をいたします。
さて、いくつかご教示願いたいことがあります。
1)祖父の入隊とその配属については、ご推察のとおりで、祖父は召集前は炭鉱技師だったそうです。召集されたとき(昭和19年7月)はすでに37歳で、当時の平均年齢からするとかなり高齢だったと思うのですが、それでも召集がかかるほど当時の日本の戦局には暗雲が立ち込めていた、ということでしょうか。
2)混成集団だった建武集団には、構成兵士3万人にいきわたるほどの武器はなく、大多数が丸腰だったという記述をどこかで読みました。事実でしょうか?
3)建武集団のマバラカット陣地が突破された後、残存していた兵士たちはクラーク西方の複郭陣地に後退し、その複郭陣地も3月中旬には崩壊したため、西方山中に後退した、という記述を別のHPで目にしました。真偽の程は不明ですが、建武集団の残された兵士たちとクラーク防衛海部隊との行動行程が重なっているような気がします。このような場合、どこかに部隊合流の記録などが残っているものなのでしょうか?
3)祖父の戦死公報には、海軍技術兵長(呉二補技 第32125号)という記録があります。番号の部分は以前のメッセージには掲載しなかったのですが、この番号は何の番号ですか?また、国が保管している資料(たとえば防衛省の戦史資料室など)には、この番号から何か情報がたどれる可能性はありますか?
お分かりになる範囲で教えていただければ幸甚です。
KyoYamO 拝
スカッパー
投稿数: 25
Kyoyamo様
長文の投稿をお読み願って 有難う御座いました
私が当時 内地に移動した後 現地に残された同期の内 1名だけが最後まで16戦区の司令部付として 残され生還した者がおりますが 彼に当時の手記を書くよう何度も 勧めましたが 頑として書こうとはしません 余りにも悲惨な状況だったので 思い出したくも無かったのでしょう 戦後比島の捕虜収容所で私を探してくれたそうですが 見当たらないので てっきり戦死したものと 思っていたらしく 戦後の同期生の集まりで 再会した時の 私に対する第一声が「卑怯者《ひきょうもの》!」だった事を思い出します 彼の複雑な心情は良く理解できました
御質問について 私の判る範囲で 書いてみますが 必ずしも 確実であるとはいえません 既に 60数年は経過しておりますので 忘れた事も多々ありますので その点加味して 判読して下さい
(1) 御祖父様が召集を受けた昭和19年7月での 戦況は
日本海軍のつまずきの初めは 昭和17年6月5日の ミッドウエイ海戦から始まる この作戦は日本は永く闘う戦力は保持していないから 早く結末をつけるべく ミッドウエイ島の攻略を考えたが 敵はこの作戦の暗号を傍受《ぼうじゅ=交信相手でないものが受ける》しており 結果大敗を被り 多くの空母 艦戦を失った これが分岐点となり
以後の戦いは米軍が反撃に始まり 我が方は 防戦一方になる
昭和17年8月のガダルカナルの死闘 で 昭和18年2月同島から撤退
昭和18年5月アッツ島守備隊玉砕 昭和18年7月キスカ島 撤退
昭和18年9月 絶対国防圏をパンダ海よりカロリン群島の線に後退
昭和19年7月 サイパン島玉砕 昭和19年8月 グアム島失陥
昭和19年10月 米軍レイテ島に上陸
と 米軍の反撃で サイパンよりの本土爆撃も可能となり 比島(ヒリピン)を失う事で 資源皆無のわが国として 原油輸送のシーレーンの壊滅を恐れると共に 比島での勝敗を度外視した戦いは 本土防衛の時期を延ばす為にもルソン島での戦いは 必死であったと思われます
(2)混成集団だった建武集団には 構成兵士3万人に いきわたる武器は無く、大多数が丸腰だったという記述を どこかで読みました。事実でしょうか?
陸軍部隊は別として 海軍部隊は もともと航空隊の地上勤務員が殆どで
各兵員に対する個別の武器なんて ある筈《はず》がありません 航空機の整備技術は専門の普通科或は高等科の軍の専門教育は受けてはいるものの 陸戦(地上戦闘)については基礎教育で 習っただけです 従って 平素は個別の武器は携帯しておらず 唯 基地周辺の防衛の為に 派遣されていた少数の陸戦隊(武器を携帯)が居ただけでした その為 航空機搭載の機銃を改造したものとか(但し平地では長時間使用すると銃身が焼け付きますが) 高角砲(高射砲)を平射砲として 一部使用していたとか聴いておりますが 又士官は軍刀は所持しており 搭乗員用の拳銃《けんじゅう=ピストル》は 携帯してたようです でも前近代的です 以上の状況でかき集めた小銃や手榴弾で 満足に武器はありませんでした 丸腰の兵士も居た事だろうと思いますが 戦死した友の武器を拾い 闘ったのでは 無いでしょうか
(3)建武集団の残された兵士達とクラーク防衛海部隊との行動が行程が
重なって居るように気がします この様な場合 どこかに部隊合流の記録が 残っているものなのでしょうか?
建武集団とは 陸軍部隊と クラーク防衛海部隊との混合された 集団の事で 詳しくは次ぎの様な編成となって おりました
建武集団
主力は陸軍の塚田中将指揮下の陸軍第一挺身《ていしん=自分から希望する》団の高島支隊一個連隊 約700名 撃兵団の一部 高山支隊(機動歩兵第2連隊) そして
多くは一月以降 山下大将指揮下に入った部隊に 海軍のクラーク海防衛隊約23,350名が加わった 混成部隊だったのです 戦後色々な手記が出ているでしょうが 著者の見た範囲でのものが多く 全体的に客観的に把握したものは 見当たりません 総勢は陸軍約2万名海軍約2万名の集団だったといわれているようです 従って 私は主として海軍関係について 調べた結果の資料ですから 中々集団全体像は 判りません
或は防衛省の戦史資料室に 保管されているかも知れませんが
(4)海軍技術兵長(呉二補技 第32125号)について
呉二補技。。。。。わが国には横須賀 呉 舞鶴 佐世保に鎮守府があった
二補。。。。。。。。第二補充兵の意味ではないでしょうか?
第32125号。。。。兵籍番号で 各個人固有のものです
ですから 兵籍番号で 何方かは 判明します 厚生省あたりに書類は残っているのでは 或は 下士官兵の場合は 各都道府県または市町村の方に 残されているようにも聞いておりますが 定かではありません
一度お調べになって 見つかると良いですね
満足な回答にはなりませんが 以上の通りです 又何かあれば お申し越下さい
スカッパー拝
長文の投稿をお読み願って 有難う御座いました
私が当時 内地に移動した後 現地に残された同期の内 1名だけが最後まで16戦区の司令部付として 残され生還した者がおりますが 彼に当時の手記を書くよう何度も 勧めましたが 頑として書こうとはしません 余りにも悲惨な状況だったので 思い出したくも無かったのでしょう 戦後比島の捕虜収容所で私を探してくれたそうですが 見当たらないので てっきり戦死したものと 思っていたらしく 戦後の同期生の集まりで 再会した時の 私に対する第一声が「卑怯者《ひきょうもの》!」だった事を思い出します 彼の複雑な心情は良く理解できました
御質問について 私の判る範囲で 書いてみますが 必ずしも 確実であるとはいえません 既に 60数年は経過しておりますので 忘れた事も多々ありますので その点加味して 判読して下さい
(1) 御祖父様が召集を受けた昭和19年7月での 戦況は
日本海軍のつまずきの初めは 昭和17年6月5日の ミッドウエイ海戦から始まる この作戦は日本は永く闘う戦力は保持していないから 早く結末をつけるべく ミッドウエイ島の攻略を考えたが 敵はこの作戦の暗号を傍受《ぼうじゅ=交信相手でないものが受ける》しており 結果大敗を被り 多くの空母 艦戦を失った これが分岐点となり
以後の戦いは米軍が反撃に始まり 我が方は 防戦一方になる
昭和17年8月のガダルカナルの死闘 で 昭和18年2月同島から撤退
昭和18年5月アッツ島守備隊玉砕 昭和18年7月キスカ島 撤退
昭和18年9月 絶対国防圏をパンダ海よりカロリン群島の線に後退
昭和19年7月 サイパン島玉砕 昭和19年8月 グアム島失陥
昭和19年10月 米軍レイテ島に上陸
と 米軍の反撃で サイパンよりの本土爆撃も可能となり 比島(ヒリピン)を失う事で 資源皆無のわが国として 原油輸送のシーレーンの壊滅を恐れると共に 比島での勝敗を度外視した戦いは 本土防衛の時期を延ばす為にもルソン島での戦いは 必死であったと思われます
(2)混成集団だった建武集団には 構成兵士3万人に いきわたる武器は無く、大多数が丸腰だったという記述を どこかで読みました。事実でしょうか?
陸軍部隊は別として 海軍部隊は もともと航空隊の地上勤務員が殆どで
各兵員に対する個別の武器なんて ある筈《はず》がありません 航空機の整備技術は専門の普通科或は高等科の軍の専門教育は受けてはいるものの 陸戦(地上戦闘)については基礎教育で 習っただけです 従って 平素は個別の武器は携帯しておらず 唯 基地周辺の防衛の為に 派遣されていた少数の陸戦隊(武器を携帯)が居ただけでした その為 航空機搭載の機銃を改造したものとか(但し平地では長時間使用すると銃身が焼け付きますが) 高角砲(高射砲)を平射砲として 一部使用していたとか聴いておりますが 又士官は軍刀は所持しており 搭乗員用の拳銃《けんじゅう=ピストル》は 携帯してたようです でも前近代的です 以上の状況でかき集めた小銃や手榴弾で 満足に武器はありませんでした 丸腰の兵士も居た事だろうと思いますが 戦死した友の武器を拾い 闘ったのでは 無いでしょうか
(3)建武集団の残された兵士達とクラーク防衛海部隊との行動が行程が
重なって居るように気がします この様な場合 どこかに部隊合流の記録が 残っているものなのでしょうか?
建武集団とは 陸軍部隊と クラーク防衛海部隊との混合された 集団の事で 詳しくは次ぎの様な編成となって おりました
建武集団
主力は陸軍の塚田中将指揮下の陸軍第一挺身《ていしん=自分から希望する》団の高島支隊一個連隊 約700名 撃兵団の一部 高山支隊(機動歩兵第2連隊) そして
多くは一月以降 山下大将指揮下に入った部隊に 海軍のクラーク海防衛隊約23,350名が加わった 混成部隊だったのです 戦後色々な手記が出ているでしょうが 著者の見た範囲でのものが多く 全体的に客観的に把握したものは 見当たりません 総勢は陸軍約2万名海軍約2万名の集団だったといわれているようです 従って 私は主として海軍関係について 調べた結果の資料ですから 中々集団全体像は 判りません
或は防衛省の戦史資料室に 保管されているかも知れませんが
(4)海軍技術兵長(呉二補技 第32125号)について
呉二補技。。。。。わが国には横須賀 呉 舞鶴 佐世保に鎮守府があった
二補。。。。。。。。第二補充兵の意味ではないでしょうか?
第32125号。。。。兵籍番号で 各個人固有のものです
ですから 兵籍番号で 何方かは 判明します 厚生省あたりに書類は残っているのでは 或は 下士官兵の場合は 各都道府県または市町村の方に 残されているようにも聞いておりますが 定かではありません
一度お調べになって 見つかると良いですね
満足な回答にはなりませんが 以上の通りです 又何かあれば お申し越下さい
スカッパー拝
KyoYamO
投稿数: 13
スカッパー様
いろいろとご教授ありがとうございます。戦争や軍隊をまったく知らない世代にとっては、少しの情報でも新鮮で、常に新たなことを学んでいるような気がします。
近日中に戦史資料室に行ってみることにします。来月には母と父とともに呉の海軍墓地にも慰霊にって参ります。
さて、質問がひとつあります。お分かりになる範囲だけで結構ですから、ご教示ください。
1.公報に「戦死」と書かれている場合、「交戦死」ということでしょうか。たとえば病気や自殺、あるいは軍法を犯したことによる処刑などは「戦死」とは表記されないのでしょうか。戦没の分類わけがどのようになっているか教えてください。
以上、よろしくお願いします。
KyoYamO 拝
いろいろとご教授ありがとうございます。戦争や軍隊をまったく知らない世代にとっては、少しの情報でも新鮮で、常に新たなことを学んでいるような気がします。
近日中に戦史資料室に行ってみることにします。来月には母と父とともに呉の海軍墓地にも慰霊にって参ります。
さて、質問がひとつあります。お分かりになる範囲だけで結構ですから、ご教示ください。
1.公報に「戦死」と書かれている場合、「交戦死」ということでしょうか。たとえば病気や自殺、あるいは軍法を犯したことによる処刑などは「戦死」とは表記されないのでしょうか。戦没の分類わけがどのようになっているか教えてください。
以上、よろしくお願いします。
KyoYamO 拝