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Re: ルソン島 クラーク西方での戦死者(祖父)について

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スカッパー

通常 Re: ルソン島 クラーク西方での戦死者(祖父)について

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4
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2007/4/30 15:16
スカッパー  半人前   投稿数: 25
kyoyamoさん

あくまで 御祖父様の個別の状況把握は 余程《よほど》の目撃者が居ない限り 判りませんが お手許に保存されている項目別に 判る範囲での解説を致しますが 長くなりますので 2~3回に分けて記載いたします

御祖父様の記録に従って当時の戦線の状況からお話いたしましょう

○大竹海兵団 第318設営隊
○呉二補技  海軍技術兵長

大竹海兵団とは 私も昭和18年に 学徒出陣で入団しましたが
当時呉海兵団の派遣隊として造成された 処で 主に新しく海軍に志願した人の 新人教育を行う 施設です
設営隊とは 基地や飛行場 道路 その他陸上での施設建設を目的とした部隊であって 他の兵科の様に銃砲等での直接兵器をもって戦うのを目的とした部隊ではない 土木建築等の技術集団である
御祖父様も入団前の御職業に関係があったのでは無いでしょうか

昭和19年10月12日マニラ上陸

大竹海兵団での教育が終わり何らかの便で比島の設営隊に移動されたようです 当時の比島(ヒリピンのルソン島)での戦況は 第一航空艦隊の各航空隊では連日の攻撃で 保有している飛行機も殆ど消滅し 司令長官大西中将が 初めての 神風特攻隊の攻撃(体当たり攻撃)を決意し決行した 時期であって敗戦色濃厚な時期でもありました 従って私の着任した攻撃251飛行隊は搭乗する飛行機も皆無で 結果12月に隊の編成替えで内地に移動し ルソン島での機動攻撃は終焉《しゅうえん=最後》の時期でもありました

○昭和20年1月6日クラーク防衛海部隊17戦区に編入。複郭陣地《ふっかくじんち=多人数が入れる壕(堀)》を構築

前述の戦況で1月4日 第一航空艦隊司令長官大西中将は 在比(ヒリピン)全航空隊の焼尽に伴い 先に増成に馳《は》せ参じ一体化して戦って来た 第二航空艦隊に 比島から退いて貰い 第一航空艦隊が残留して陸戦続行を決断
1月6日には在比航空隊の残留兵力で 急遽《きゅうきょ》クラーク防衛海部隊(KBK)を編成 ルソン島の陸戦迎撃要綱では ルソン島を三箇所に分け 山下陸軍大将を最高指揮官として 北部山岳地帯に陸軍による尚武集団 中部クラーク周辺に海軍と陸軍混成の建武集団 東部山岳地帯に陸軍と海軍の混成の振武集団とした
1月8日在比航空隊残留搭乗員は最北基地のツゲガラオから 台湾に引き上げ 第一航空艦隊司令長官も台湾に移動 26航空戦隊司令長官杉本丑衛少将がクラーク防衛海部隊の総指揮を継承 陸戦には殆ど経験の無い しかも武器弾薬 食料も備蓄の無い 急造の防衛隊で ピナツポ山麓の丘陵に 複郭陣地の構築に当られたので ありましょう
戦線を11戦区から17戦区に 山麓の北から南に配置 17戦区は 最南端後方の位置にありました 当時の略図は別途メール添付で送ります
 
○昭和20年1月11日 マバラカットの陸軍陣地に入る

ご祖父様は17戦区からマバラカットの陸軍陣地(マバラカットには)二箇所の飛行場がありましたが 恐らくどちらかの飛行場を 迎撃陣地とする為) 一部の兵員と共に派遣され 陣地構築に当られたのでありましょう 既に1月9日には敵米軍がリンガエン湾から上陸マニラに向けて進出中でありました
 
「クラーク防衛海部隊の編成と陣地場所並びに構成人員」

本丸司令部 26航空戦隊司令長官 杉本丑衛少将「戦死」
      (本丸 )              800名
11戦区部隊  141航空隊司令 中村大佐「戦死」
12戦区部隊   11戦区司令兼任   11+12 約1,500名 
13戦区部隊  14戦区司令兼任(オードネル南西)約3,000名
14戦区部隊  761航空隊司令 松本中佐「生還」約3,000名
      (屋島 富士 箱崎)
15戦区部隊 1航空艦隊参謀 宮本中佐「生還」 約3,000名
      (天神山  高千穂)
16戦区部隊 763航空隊司令 佐多大佐「生還」 約6,000名
      (赤山  黄山)
17戦区部隊 341航空隊司令 船木中佐「戦死」 約3,000名
       (奥山)
雷部隊(兵站)北非航空隊司令 瀬戸口中佐「戦死」約800名
       (本丸)
後方勤務   (本丸西方)           約2,250名
                    合計  23,350名
  (注)本数字は厚生省資料による 推計です
この構成員が終戦時には 僅か450名になるほどの 激戦地でした

○昭和20年6月10日 クラーク西方山地において戦死

マバラカットの陸軍陣地(当時マバラカットには東西二つの飛行場があった)に17戦区から派遣されて 帰隊されていたのか
残られたのか判りませんが いずれにしても 個別情報はありません

 以下次号へ
 

 

              

 




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