心のふるさと・村松 元少通生らが寄せる村松への思い
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多感なる少年期の過大な代償 その1
十一期二中隊四区隊 高市 正一
昭和十八年十二月
日本の国中が戦争一色のなか自分たち少年も国家のために、第一線で貢献できる少年兵になろうと、それなりの夢と希望を抱いて村松少通校第一期として入校した。少年通信兵としては第十一期であり、既に多くの先輩が各方面で活躍していると聞き身の引き締まるおもいであった。
学業・技術の習得・各訓練は自分にとっては、かなり厳しいものもあったが、目的達成のための試練と耐えられた。
昭和十九年十一月
南方派遣要員としての繰り上げ卒業は統制された情報の中でも風雲急を告げるものを感じていた。
十一月六日
村松駅にて在校生・村松町民の見送りを受け一路門司に向かう。同十三日 船団編成後、門司を出港する。少通兵も神州丸・秋津丸・摩耶山丸に分散乗船をした。自分は神州丸に乗船した。
十五日
五島列島沖で敵潜水艦の攻撃により秋津丸沈没する。偶然にも最後の沈没していく状態を目撃することになった。大きな波のうねり、腹に伝わる不気味なエンジンの振動・海原に消えていく船体の姿は今でも我が脳裡に焼き付いている。
フィリピンまでの行動は戦後資料に詳述されているが、当時の自分には断片的に情況を知るのみであった。
台湾にて輸送船秋津丸・摩耶山九の沈没による、戦友少通兵の死を知らされ愕然とした。志し半ばで海の藻くずと化した友、さぞかし無念であったろうと悔しい思い一杯であった。まだ見ぬ敵に対する復讐心のようなものが身体じゆうに渡るのを覚えた。
魔のバシー海峡も無事通過、フィリピン北サンフエルナンドに上陸した。その頃より倫理の欠如と言うか、人間性を疑うような言動も見られる様になった。
十二月上旬
マニラに列車で到着、中央競馬場にて配属部隊への赴任待機中に自分に重大な事が発生した。それは病気 (赤痢) で入院したことであった。配属部隊に赴任もかなわず無念であった。少通校同区隊の柿沢君とは同じ部隊と記憶しているが、遂に原隊に復帰することが出来ず、同期の柿沢君との再会も果たせず残念であった。
昭和二十年一月中旬
入院下番 (退院) 後は兵端部に配属される。
比の時点で自分の適信兵としての夢に幕を引くことになった。
後方支援で食料調達(主に米)の任についたが、戦利品や軍票などによる半強制的な買収方法は、戦況の悪化と共に現地の協力も段々と得られなくなり、詰め所の閉鎖や撤収といったことが起きた。
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多感なる少年期の過大な代償 その2
十九年十二月のマニラ到着当時は空爆に向かう日本空軍の勇姿も見られたが二十年二月には制空権を失っていたと思う。その頃、北方に向かう戦闘機一機の飛行が自分の見た最後の日本空軍の姿であった。
物量による米軍の攻撃には、成す術もなく山中に後退することになり、部隊の任務も退却する兵士の援護などにあった。
その後は、ヘリによる偵察と迫撃砲の砲撃を受けながら山奥へ山奥へと敗退することになった。此の頃から飢えと病気との戦いであり、食物の確保こそが生死の決め手になった。
兵士の退路となった、山道や谷川沿いに横たわる死体に此の世の地獄を見た。生に対する執着心も日を追って無くしていったように思っている。
終戦を知ったのは食物確保のため芋畑に居た時であった。ヘリが飛来し、又砲撃が始まるかと思っていると、ビラを撒きながら飛び去って行った。ビラで半信半疑ながら終戦を知った。要旨は大体以下のように記憶している。
大日本皇軍将兵に告ぐ
大日本帝国は天皇陛下の命により連合国側と講和するに至った事実をこの一紙を以って諸君に通知する。
皇軍将校に告ぐ
白旗をもって我が線に下れ、さすれば我が線に入るの事項を持ち帰らしむ。
六十余年を経ても頭に残っているのは不思議である。
米軍の誘導により五日程かかつての下山であった。
PWの上衣を着て四ケ月の捕虜生活は収容所建設等が主な作業であったが、いつか帰国できるとの思いで悔しい事があっても耐えてこられたと思っている。
昭和二十年十二月中旬 舞鶴に上陸 これでもって軍人としての自分の終結であった。
少通校入校から二年間 多感な少年期の代償としては、余りにも過大であったと思う。
今は、
先の大戦におけるご苦労に対し
衷心より慰労します。
との 内閣総理大臣の 「額」 が唯一の証しとなっている。
大戦で各地に散華した戦友少通兵の霊 安らかにお眠り下さい
合掌
(見事に咲いて!と祈る十月桜)
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五、慰霊碑の建立
現在、村松碑には、先の大戦で散華された八百十二柱の少年通信兵の御霊が祀られていますが、元々少年通信兵の本流は東京東村山にあり、従って、本来なら慰霊碑も東京校跡に建てられるべきだったのですが、当時の風潮から、これを同市に建てることには自治体側から相当の抵抗があり、一時は建立そのものが暗礁に乗り上げかけたこともありました。それだけに、昭和四十五年十月、首尾よく村松碑が建立された時の関係者の喜びは非常なものがあり、その情況を一期生であり、当時区隊長も務められた本川栄吉氏が次のように綴られました。また、
その後の十年祭の慰霊祭に参列された松谷千代様は、その時の思いを数首の歌に託されました。
宿願を達成して
教官 本川 栄吉
宿願達成の朝、記念すべき昭和四十五年十月十一日、夜来の暴風雨は一過し洗い浄められた村松の大地に、木々に、草々に朝の光がさん然と綽いた。前日までの悪天候が拭ったような快晴に一変したのである。誰しもが奇跡を思い厳粛に英霊のご加護を思わずにはおられなかった (因みに翌十二日は再び雨天に戻った)。
全国少通連合会員その他の多くの人々、ならびにご遺族方の長年の念願協力が実を結び、今ここ村松少通校々舎を見下ろす岡の上に戦没陸軍少年通信兵の慰霊碑が姿を現した。
真新しい碑前に高々と奉読されゆく懐かしい百九十九柱のご氏名が萬感を伴って耳柔を打つ。大地の間この声のほかに声なく、粛々として神気あたりを払う。ご遺族の、そして会員の体が打震え感動の涙が頬を伝う。この一瞬のために歩んできた長い道坂のこと、この日を待たたずに逝かれた方々のことがふと頭をかすめる。
献花の列が長々と続く。わが子、わが兄、わが弟のおもかげを偲び菊花を捧げて深々と拝まれるご遺族、校友の名を呼び微衷を花に託す会員。碑前を埋め尽した菊花が英霊の勲を糞えて秋空に馨る。
自衛隊音楽隊によって力強く少年通信兵の歌が奏せられ、四百余名の大合唱が練兵場の澄み切った空気をゆり動かし愛宕の山にこだまする。
東亜に誇る日の本の
皇国の楯と選ばれて………
ああこの歌が絶えて二十有余年、思えば長い忍従の年月であった。今こそ再び思い出の山河に少年通信兵の歌がとどろく。
在天の英霊よ聞こしめせ、兄等と共に歌ったこの歌を--。
白山よ、菅名岳よ、早出川よ、歓喜して我等の歌に和せ--。
草深き校舎に生色甦えり、校門の老松懐旧の念いに突く。秋晴れの村松平野に繰りひろげられた一幅の絵巻物のような除幕式、それは私の戦後における最も幸福な、また充実した一ときであった。
(昭和四十五年・むらまつ)
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十年祭
松谷千代
十一期 故松谷昭二氏ご母堂
一、会員の 愛情満ちた ご尽力
厚くいただき 十年祭祀
二、愛宕山 少通霊碑 十年祀
御霊集いて 国歌のひびき
三、さようなら 霊前最後と 別るけど
むねに六字の 親子同心
四、世のうつり 人こそ変る 村松に
白山の峰 昔なつかし
五、村松の 山川さらば 出陣の
胸に祖国の 平和希いて
六、五年経ち おおた喜こび 言葉とならず
少通霊碑と 槙の木撫でて
(昭五十五年・かんとう少通)
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六、高齢化による慰霊祭の中断、とその復活(「守る会」の誕生)
そして、これ以後、慰霊祭は、毎年の供養会、三年毎の合同慰霊祭等、毎回厳粛に営まれてきたのですが、年を重ねるにつれて、参列される遺族席からご両親の姿が消え、また、これを主催する私共関係者自身も全員が喜寿を超えるに至って、これ以上の継続は無理と判断され、関係者の高齢化を理由に、平成十三年の合同慰霊祭を以て三十年間に亘った慰霊祭の幕を閉じ、後は夫々の「自主慰霊」に任せることになりました。
そうした中で、私と同期の佐藤嘉道君が協力して刊行したのが「村松の庭訓を胸に平和の礎となった少年通信兵」の一書です。これは、同誌の「あとがき」にも書きましたように、偶々、慰霊碑の前で出会ったご夫婦との会話が縁となって、地元の方にさえ忘れ去られようとしている碑の由来を、正しく後世に伝えようと思い立ったのが動機だったのですが、有難いことに同誌の反響は私共の期待を遥かに超え、その最大なものが「こうした村松少通校の歴史は我が郷土の誇りであり、その戦没者の碑を守るのは我々地元の義務である」と仰って下さる地元有志の方々による「慰霊碑を守る会」の誕生だったのです。
以来、「守る会」による慰霊祭は、毎年、厳粛に行われ、私共少通関係者も毎回参列させて頂いていますが、思えば、この碑が建立されている村松公国は、日露戦役の戦捷を記念して設けられた公国であり、其処は忠霊塔や忠魂碑も建てられている公園自体が殉国の志士を祀る聖域になっており、この点、私共少通関係者は、こうして、戦没先輩の御霊が村松という安住の地を得た幸運をしみじみ噛みしめています。
因みに現在、少年通信兵に係る遺品や冊子の類は、村松郷土資料館の二階特別室に常設展示されていますが、慰霊碑としては、この村松碑のほか、九州平戸島の、遭難地点が見渡せる岬にも 「安らかに眠り給へ 陸軍少年通信兵の霊」 と記した平戸島碑があり、村松同様.純朴な地区の皆様によって、毎年十月、心のこもった慰霊祭が営まれています。
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七、結びに代えて
以上、此処までお読み頂いて、皆様には、生徒達が共通して挙げている挙げている強烈な思い出の一つに、会津若松に於ける 「訓育演習」 があることにお気付きかと思います。
即ち、村松校の場合、どの期の生徒も入校して一か月日には必ず会津若松に連れて行かれたのですが、其処でにはご存知の通り、少年兵と同年代の少年達が白虎隊を組織して戦い、城が焼け落ちるのを見て、飯盛山の山上で切腹して果てた悲話が伝えられています。そこで学校側の思いとしては、入校直後のまだ婆婆っ気の抜け切れない少年達に、その史跡を見せ、墓前で地元の少年達が舞う勇壮な剣舞を鑑賞させることによって、散るべき時にはこの少年達のように潔く散る覚悟と自覚を促す大切な行事だったのだろうと思います。因みに、少年通信兵の軍歌の一節には 「仰ぐ操は靖国の、英魂 (みたま) 慕いて戦路に、散るべき秋を忘するるな」 とありましたが、正に、その後の私達生徒には、この 「散るべき秋」 に備えるための猛訓練の毎日が此処・村松で待ち受けていた訳です。
およそ、先の大戦下、祖国の危機に臨んで、進んで昭和の白虎隊の気概を持って少年兵を志願し、報いられることなく黙って散って逝った先輩生徒の精神は、私達民族の誇りであり、同時に、その余りにも痛ましかった最後の模様は、絶対に風化させてはならない戦争自体の残虐さを語る厳然たる史実であることは明らかです。
この点、戦没先輩は勿論、生き残った私共にとっても、人生の修練道場として研鑽に明け暮れた村松の日々が、終生忘れ得ない 「心のふるさと」 としての思い出となって、それが今回の夫々の手記に現れていたものと思われます。
このように私は、限られた手許の資料を基に、村松に寄せる私達元少通生の思いを編集してみたのですが、果たして何処までご理解頂けたでしょうか。一方、私は、碑を詣でる度に、総てが 「殉国」 の二字に美化されてしまっている彼らの死の蔭にあったに違いない複雑な気持ちを、あれこれ推測してしまうのですが、とまれ、これからの世代に、戦没先輩が味わった軍国少年の悲劇を繰り返させることは許されず、従って、村松碑護持の真の意義は、慰霊と共に 「不戦の誓い」 を新たにすることにこそあると思っています。
以上、私は、これまでの人生に多大な恩恵を与えてくれた村松の日々を懐かしむと共に、その村松の皆様が私達に代って碑をお守りくださる温かいお気持ちに、心から感謝申し上げます。
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(付録) 村松少通校校舎の配置図と、その解説
最後に、付録の形で、村松少通校の校舎の配置図を掲載しますが、その解説と、それに纏わる思い出を、十二期の大牧富士夫氏が綴ってくれました。
残念ながら校舎は、歩哨舎を除いて現存せず、当時の面影を偲ぶ縁とてありませんが、戦後は一時、残った兵舎が中学校に利用されたこともあったとか。それは正に 「栄枯盛衰、世のならい」 で、改めて私は、当時、愛唱した 「ポーランド懐古」 の一節を思い起こした次第です。
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(付録) 村松少通校校舎の配置図と、その解説 その1
-番われるままの思い出-
十二第五中隊一区隊 大枚 富士夫
①正門。
歩哨舎と共に、少通校時代から唯一現存しています。
村松町の時、復元工事が行われた。
②学校本部。
普段は近寄りがたい場所。
二階に御真影の奉安室があった。歩哨勤務訓練で、奉安室歩哨に立ったことがある。
夜中、週番士官だった区隊長牛丸中尉が巡視に来たことがあった。
③衛兵所。
普段は軍属がいたので、訓練で生徒も、営舎係、歩哨係の指揮で衛兵所勤務があった。
衛兵所の後ろに営倉があった。
卒業演習で夜間行軍のときに、加茂のあたりの薩摩芋の苗床から、同室の生徒が薩摩芋をとって食い、営倉入りさせられたことがあった。
そのとき、指名されて僕も営倉歩哨に立ったが、太い角材を組んだいかめしい作りだった。分隊長だった柳川も入れられた。
④厩舎。
ここには馬がいたが世話をしたのではない。
通信所訓練では、二号乙無線機を馬が馬車で運んだ。
卒業演習で行動中に僕達の分隊(分隊長柳川)の馬が不意に死んでしまったことがあった。
二十年夏になると新潟空襲があり、空襲警報が発令されて、この厩舎警備に出た。
厩舎には、方形に固めてあった馬糧の高梁があり、それを食った奴がいてひどい下痢で苦しんだ。
⑤医務室・休養室。
⑥通信講堂。
講義室などとして使われていた。国語で、文官の万葉集の講義があったが、これは短期間で終わった。
小林中尉の電磁気学の講義を聴いた覚えがある。
⑦通信講堂。
通信実技の訓練を行なった。
⑧裏門。
敷地の周囲の土手にカボチャを作っていた。
終戦後、ここの歩哨に立っていてカボチャ泥棒を捕まえた。
実弾は込めてなかったが着剣して武装していたので、
誰何して追いつめ胡瓜畑で捕まえた
奥山伍長が駆けつけて連行していった。
犯人は、近所の住民だった。
⑨二階建ての生徒集会所。
畳が敷いてあったがあまり使われていなかった。
⑩炊事場。
交替で炊事当番があった。重い食缶を提げて上官に会うと敬礼するのが、腕がだるくて辛かった。浴場は広く湯はたっぷりありました。
⑪生徒隊兵舎。
第十一期の第一中隊、第二中隊。
第十一期の卒業後、第十三期が入った。
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(付録) 村松少通校校舎の配置図と、その解説 その2
⑫生徒隊兵舎。
第十一期の第三中隊、第四中隊。
⑬弾薬庫。
歩哨の訓練があった。弾薬庫の周りは高い土堤でかこまれていた。
真夜中に土堤の上を銃を構えて巡回したが、真っ暗でとても怖かった。
弾薬庫の扉の前に泥の壷があった。これは非常のときの目張り用で、冬季凍らないように時間を決めてかき回す。
そのためにしゃがむと姿勢が低くなり、周囲の闇に押し包まれるような中で、かき回す泥の音がするのがとても怖かった。
週番将校が廻ってくるのでさぼる訳にはいかなかった。
⑭大きなプールのような貯水槽があった。
先輩第十一期生の一部は、昭和十九年十一月に緊急卒業して南方戦線に向かった。
卒業の直前、先輩生徒が寒さの中、このプールに入り通信機の揚陸訓練をやっていた。
村松校から第十一期生、三百十五名が卒業。
彼らのうち百十六名が、校門で別れてから僅か九日後、五島列島沖で輸送船が撃沈されて戦死したが、終戦まで僕等は知らなかった。
この見取り図を見ていると、寒いプールで揚陸訓練をしていた先輩の姿が思いだされてならない。村松はとても懐かしい。
懐かしいが、僕の孫たちに軍国少年の道は歩ませたくない。
秋津丸.ルソンからの生還者、四中隊一区隊の神頭敬之助さん 「ルソン戦記」の初めにプールで訓練を受けたと書いてある。
⑮雪中演習場。
大きな、大きな建物があった。昭和十九年夏頃か、一度だけここで映画会があって観た。
何を観たか覚えてはいない。
⑯南門と呼んでいた。
出ると右側に馬場があった。
⑰生徒隊第五中隊、第六中隊の兵舎。
僕は、第五中隊第一区隊であったから、この配置図の記憶はここから始まる。
兵舎の前には松の植え込みがあった。
⑱兵器倉庫。
中隊の兵器係亀井曹長がいつも居た。佐藤嘉道もよく居た。
⑲生徒隊第七中隊、
第八中隊兵舎。
⑳通信講堂。
通信実技の訓練を行なった。七.八中隊使用。
㉑南門を出ると、
広大な練兵場が広がって、軍歌演習もあった。
雑草の生い茂る荒野できびしい訓練もあり、葡旬(ほふく)前進の号令で這いずりまわったこともある。
右手はるか前方に村松公園につながる松並木があった。
松並木をたどって視線を動かすと、左手前方の山陰になるあたりに射撃場があり、実弾射撃訓練もやったが、あれはなかなか当たらない。
㉒村松陸軍病院があった。
僕は二十年冬、ジフテリアになって隔離入院した。
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あ と が き
ご覧くださって、どんなご感想をお持ち頂けたでしょうか。
「むらまつ」 ---その名は、村松少通校に学んだ私達にとって、一種独特の響きがあり、人生の最も多感な時期に過ごした村松での日々は、終生忘れることの出来ない体験として、今でも鮮明に記憶が建ってきます。そしてこの 「心のふるさと村松」 に寄せる思いは、村松碑に眠る戦没先輩も全く同じだったろうと思います。
それだけに、先年、関係者の高齢化が原因で幕引きされていた慰霊祭が、地元の皆様のご厚意によって、「慰霊碑を守る会」 として復活し、再びお互いの心の交流の途が拓かれたことは何にも勝る大きな喜びでした。しかし他方、「守る会」 の皆様も世代交替等で、大半の方が当時の事を殆どご存知なく、其処で昨秋私共は、小冊子 「鎮魂・西海に比島に、そしてシベリアへ」 を刊行することで、最も悲惨な最後を遂げた十一期生の敢闘の模様を皆様にお伝えしました。そして今回、これとは別の観点から、手許にあった文献中、当時の村松少通校を中心とした町の様子、思い出など描いた文章を抽出してみたのが本誌です。
尤も当初は、全国の関係者に寄稿を.お願いしようと計画したのですが、結局は、先方のご事情等を考慮してこのようにさせて頂きました。また、本誌の刊行についてはこれまで通り二人の自費出版とし、編集と叙述は大口、タイプと装丁は佐藤が夫々担当しました。
お気づきの点、或いはご感想など、忌悼なくお寄せ頂ければ幸いに存じます。
-完-