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玉音放送の想い出

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しんちゃん

通常 玉音放送の想い出

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/6/10 8:39
しんちゃん  新米 居住地: 河内長野市  投稿数: 20
 昭和20年(1945年)8月15日、ラジオは朝から、本日正午から「天皇陛下御自らの重大放送があります」と放送をしておりました。
 私は、これはきっと本土決戦に備え、国民は最後の一人に至るまで米軍と戦えとの放送に違いないと固く信じておりました。
当時中学校では必ず配属将校《=軍隊式教育のために各学校へ軍人を派遣した》がおり、1年生の時より軍事訓練を通じて「生きて虜囚《りょしゅう=捕虜》の辱《はずかし》めを受ける事勿《なか》れ」「身を挺して《みをていして=自分の身を犠牲にして》皇国《日本国》を死守すべし」と徹底して教えられていました。

 さて、この8月15日 私は15歳で中学4年生でした。その前年の昭和19年4月から私達は大阪の木津川河口にあった軍需工場に動員されておりました。
その工場は久保田鉄工所(=現在のクボタ)でした。当時は国家総動員法《=戦争による労働力や物資不足のため政府は人や物の統制を行った1938~1945年》[/color]とかで、中学3年以上の者はすべて軍需工場に動員されていました。

 そこでは、上陸用舟艇《しゅうてい=小船》の焼玉エンジン《=軽油を燃料とする内燃機関》を製造しておりました。
私はその部品になる鋳物用の油芯を作っておりました。
油を混ぜた砂を鋳型につめて部品を抜き出すという作業ですので、衣服も顔も油だらけでしたが、戦争の勝利を信じ頑張っておりました。

 最初は原材料も豊富にあり忙しい毎日でしたが、昭和20年に入ると、原材料の不足で作業をしたくてもできない日が目立つようになりました。その内、海軍の兵隊の何人かが我々を叱咤《しった=叱り付ける》激励すると称して、工場内を木刀を持ち巡回しだしました。
手を休めている者を見つけると、「気合を入れて働け」「滅私奉公《めっしほうこう=私事を捨てて仕事にまい進する》」と怒鳴り木刀で殴られました。

 仕事をしたくても原材料不足で出来ない状況下で、私達は掛け声を出し、手を動かしていかにも忙しく作業をしている仕草《しぐさ》をすることを自然に覚えました。
海軍の兵隊が工場内におるのも可笑《おか》しいですし、私たちがズルをするようでは報国の精神に欠けるものでした。

 20年6月ごろには、やはり細々と作業をしておりましたが、
今から振返ると矛盾だらけでした。
上陸用の焼玉エンジンを作っても、取り付ける小型船舶もない、燃料もないし、仮に取り付けてもどこへ上陸するというのでしょうかーーーー。

 この年の4月には既に米軍は沖縄に上陸し、住民も悲惨な戦闘に巻き込まれておりました。6月中旬には守備隊とも交信が途絶えました。

 この頃から、本土決戦は避けられない、米軍の上陸は九州の東側か、紀伊半島の田辺付近か、房総半島かと取り沙汰《とりざた=世間のうわさ》されてきました。本土に上陸されたら私達はひとたまりもないだろうが、戦うしかないと覚悟を決めておりました。

 工場は連日B29《ボーイング社の長距離爆撃機》の爆撃を受けておりました。普通は警戒警報が出て、次に空襲警報の順となるものですが、これも最初の頃だけでした。後になると、警戒警報が出るとすぐB29のエンジン音が聞こえてくるという状況でした。
おまけに、日本側の邀撃《ようげき=迎え撃つ》の戦闘機は、警報が発令されると、飛行場の爆撃を避けるため、B29の飛行とは反対の方向に飛び去り疎開《そかい=戦火を避けるため場所を移す》しておりました。(本土決戦に備えての温存との噂《うわさ》でした)。高射砲の対空炸裂《さくれつ=はれつ》音も殆ど《ほとんど》耳にしなくなっておりました。

 この為、B29爆撃機は我々の頭上近くを悠然と飛行しておりました。私達は7月ごろになると、警報と同時に、工場から2キロも3キロも先まで逃げ回り、警報解除と同時に3時間かけて家に帰るという生活を繰り返しておりました。

 その頃は指揮系統の統制は全く無く、誰に断ることも無く皆が自分勝手な行動をしても、全く咎《とが》められませんでした。

 8月に入るや広島と長崎に新型熱戦爆弾《=原子爆弾》が投下されたとの報道がありましたが、私達はその規模の恐ろしさを知るすべはありませんでした。

 8月15日の当日、私は夏風邪を引き工場を休み家におりました。正午前から私は母親と一緒に重大放送を聞くためにラジオの前で待機しておりました。

 正午きっちりラジオからは「只今《ただいま》より重大放送があります。全国の皆様ご起立を願います。」との放送に続いて「君が代」の国歌が流れました。
一般国民が初めてお聞きする天皇の玉音《お声》がラジオにより放送されました。

 しかし、15歳の少年にはあまりにも表現が難しく、途中までは何を言っておられるのか良くわかりませんでした。皇国を死守すべしとの放送と思っていた自分が、どうも様子がおかしい、と気づく頃には半分以上が済んでおりました。
「堪へ難きを堪へ《たえがたきをたえ》、忍ひ難きを忍ひ《しのびがたきをしのび》ーーーーー」と最後まで聞いて、やっとこれで戦争は終わったんやと感じ出しました。
しかし無条件降伏したとの感覚は全くありませんでした。

 何故《なぜ》ならば、この放送が文語体の詔書《=天皇の文書》形式の文体であり、各方面に配慮した文面で、降伏との言葉が全く無かったためです。
ましてやポツダム宣言そのものすら知りませんでした。

 これからの日本はどうなっていくのか、全く未知数の中、大きな不安が残りましたが、ともかく「戦争は終わったんや!」の嬉しさが込み上げてきました。
12時半ごろ屋根の物干し台に上がりました。その時米軍の艦載機《かんさいき=軍艦から発進した飛行機》が飛んできました。その姿をじっと見ておりましたが、機銃掃射《きじゅうそうしゃ=飛行機から機関銃でねらい撃つ》も無く飛び去って行きました。
「アッやっぱり戦争は終わったんや!」この時やっと実感できました。

 8月15日の早暁、大阪砲兵工廠《しょう》(兵器工場)がB29爆撃機の1トン爆弾の総攻撃を受け壊滅しました。当時6万人の人々が動員されて生産に従事されていたと言われています。
この為多くの犠牲者が出たとの噂がありました。
   ---黙祷《もくとう》ーーー

その年の9月初め、私達はようやく2学期の授業に戻ることが出来ました。最初に教えられたのは“デモクラシィー”という言葉でした。
そこから平和日本の再建に向けての第一歩が始まりました。

                 しんちゃん

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しんちゃん

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