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上海の思い出(その二)

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toshy

通常 上海の思い出(その二)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/8/6 18:05
toshy  常連   投稿数: 42
 話が前後しますが、神戸から上海までは確か2泊3日の航海だったと思いました。

 3日目の朝、甲板から水面を見ると茶色でした。
 船員さんが「揚子江に入ったんだよ」と教えて呉れました。
 
 右舷側《げんそく=船の側面》を見ても左舷側を見ても河岸は見えません。
 数時間経って黄浦江に入り、やっと両岸が見えるようになりました。
 
 当時上海には米英両国の共同租界《きょうどうそかい=外国の共同居留地》とフランス租界が有りました。
 私たちは、その共同租界に住んで居ました。
 
 (上海の共同租界に関しては、インターネットで検索して下さい)
 開戦後は共同租界は日本租界と言える状態でした。
 
 現在の四川北路の魯迅《ろじん》公園の正門前に上海神社が有りました。
 その向かい側に日本海軍陸戦隊本部が有りました。
 
 陸軍は登部隊の司令部が当時の名前で新市街の五条が辻に有りました。
  (新市街には後日引っ越すことになりました)
 
 上海にはリッツと言う劇場が有り、李香蘭《りこうらん》と言う歌手が人気でした。
 父が「李香蘭は日本人だよ」と言って居たのを覚えて居ます。
 
 そうです、山口淑子さんです。
 
 当時日本軍の高級将校を狙うテロが頻発《ひんぱつ》しました。
 リッツで日本軍将校がテロにやられたと言うことが新聞に出ていたのを覚えて居ます。
 
 上海には日本人が10万人ほど居たそうです。
 
 今にして思えば、よく外国で安全に住んで居られたものだと思いますが、市中の橋と言う橋の中央には全て日本兵士の歩哨小屋《ほしょうごや=警戒、監視のための建物》が有りました・

 日本人は全て兵隊さん(当時はそう呼んでいました)の前で、頭を下げて通って居ました。

 虹口(ホンキュー)マーケットは、母がよく買い物に行っていました。
 
 床一面に水が流れて居て、ズック靴が湿るので買い物について行くのは嫌《いや》だった事を覚えて居ます。

 ここでディックミネの「夜霧のブルース」を思い出しました。
 ♪夢の四馬路か虹口の街か・・・♪
 この歌は後年、石原裕次郎が歌ったのでしたっけ?
 
 そうそう、上海と言えばガーデンブリッジとブロードウェイマンション(今の上海大厦)ですね。
 
 外灘(ワイタン)の情景は今も脳裏から忘れられません。
                toshy

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