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上海の思い出(その三)

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toshy

通常 上海の思い出(その三)

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2
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/8/7 0:18
toshy  常連   投稿数: 42
 公平路の住まいは 1986 年に行った時も残って居ましたが、3階建てで、一棟《ひとむね》が5~6軒に分かれていたと思います。(何しろ小学1年の頃のこと、記憶は定かでは有りません)

 幅数メートルのコンクリート舗装《ほそう》の道を隔てて、数棟が建って居ました。
 
 日本人は私たち2家族だけだったと思います。
 他はほとんど中国人、向かいには外人が住んで居ましたが、開戦前だったか、あとだったか記憶が定かでは有りません。

 とにかく中国人の中での生活でした。
 近所付き合いとか、遊んだ記憶は全く有りません。
 
 母が団地の外の中国人の店で買い物をする程度でした。
 
 そこも何ヶ月居たのか覚えはないのですが、新市街と言われた日本人の住宅街の有る所に引っ越しました。

 前々回書いた登部隊の有る、今の地図では5角場と書かれて居るところです。

 全くの郊外で、一日に数本のバスで上海神社の所まで行き、またそこから虹口の方まで買い物に行ったようでした。
 
 何度か帰りのバスが出た後で、次のバスまで待てずに1時間以上掛かって上海神社の所から新市街まで歩いて帰った記憶が有ります。(こんな事は60年前の事でも覚えて居るのですね)

 ここでは第十国民学校に入学しました。
 後に第七国民学校と成りました。
 
 住宅街も国民学校も新築でした。
 
 学校からは放射状に、甲・乙・丙・丁と4つの住宅街が有りました。
 それは俗称で、甲は明和街、乙は平昌街、丙と丁は慶林街と言う住宅団地でした。
 
 私たちは丙でした。
 今でもその住所を覚えて居ます。
 
 上海市新市街合作路慶林街○○号です。
 
 新市街に住んで吃驚《びっくり》したのが甲つまり明和街団地です。
 (当時団地と言う言葉は有りませんでした)
 
 どこが吃驚したかと言うと、コンクリート建ての一棟が3階?4階で、中程に階段があり、その両側に玄関が有るのです。そうなのです、私たちが結婚する時にあこがれた住宅公団の建て方の住居なのです。

 私が生まれ育ったのは、京都と大阪の間で、大阪までは当時の省線電車(東海道本線)で30分くらいの所でしたが、当時は村で小学校は畑のあぜ道を通って行くのが近道と言う環境で、もちろん戸建て住宅ばかりでした。

(省線電車の駅までは3分ぐらいの便利な所でした)

 それですから集合住宅に住んだのは上海の公平路が始めてでした。
 
 それまで集合住宅など見たことも無く、さらに上の階、或いは下の階に他人が住んでいる家など考えた事も有りませんでした。
 そして乙、平昌街(へいしょうがい)は今で言うテラス住宅でしょうか。
 
 2階建ての各戸が3~4軒棟《むね》続きで一棟《いっとう》をなして居ます。
 
 明和街は1階の住人しか庭が有りませんが、平昌街は各戸に庭が有ります。
そして慶林街ですが、約100軒の大きな庭の有る戸建て住宅街です。
 
 各戸は10軒位ずつが一ブロックになり、各この周りは高さが 1.5 メートル位の煉瓦塀《れんがべい》で囲まれて居ました。
この煉瓦塀の上を走り回るのが子供たちの遊びでした。
 
 丙と丁の区別は外からでは判らず、建坪が少し広かったようです。
 このような所に住んで、初めて学友との間に生活レベルの差が有ることを知りました。

 なにしろ今まで周りは中国人ばかり、日本人の友達と遊ぶと言えば父の上司の家に行く以外はなかったのですから。

 それが同学年100人以上の世界に成ったのです。
                toshy

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