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上海の思い出(その四)

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toshy

通常 上海の思い出(その四)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/8/7 9:50
toshy  常連   投稿数: 42
 公平路の生活に関してはあまり記憶も残って居ないのですが、新市街の慶林街に引っ越してからは結構いろいろなことを覚えて居ます。

 洋間には暖炉が有りましたが石炭を焚《た》いたことは無く、電気ストーブが置いて有りました。

 そしてマジックアイの付いたラジオが有りました。

 それは短波放送も聴けるものでしたが、開戦後は日本人は短波放送は聞いてはいけないことになり、内部で配線が切断されて居ると父が話して呉れました。

 それまでは父はロンドンのBBCなどを聞いて居たようでした。
 
 さてマジックアイなるものをご存じでしょうか。
 
 緑色に光る真空管で、ダイヤルを回して目的の放送局に同調させると扇型の光る部分の変化で、正しく同調したかどうか判るのです。

 このマジックアイと言う真空管はスーパーへテロダイン方式のラジオでしか使えないものです。

 日本では終戦後しばらく経《た》ってからスーパーへテロダイン方式が普及し、それまでは並三とか並四とか、少し経ってからは高一と言われる方式のラジオしか一般家庭には無かったのに、上海では昭和16年には買うことが出来たのでした。

 ちなみに日本軍がスーパーへテロダイン方式の無線機を使うようになったのは、ずいぶん後だったと思います。

 それから米国のライフと言う雑誌のバックナンバーが沢山有りました。
 父は開戦までは購読していたようでした。
 
 ライフは英語の雑誌ですから私にはもちろん読めませんでしたが、GEやウエスティンハウスの大きな冷蔵庫の広告だけは、今も思い出せます。

 当時、慶林街の家に有ったのは氷で冷やす小さな木造の冷蔵庫だったのですが、米国では既に数百リットルの大きな電気冷蔵庫が普及し、大きなハムなどが一杯入った冷蔵庫の広告がライフなどに出て居たのでした。

 このような国と日本は戦争を始めたのですね。
 
 父は時々日本軍の将校や中国人を招待して歓談して居ました。
 
 私たち子供は、ハムやチーズのおこぼれをちょうだいするだけでしたが、父たちはジョニーウォーカーを飲んで居たようでした。

 これらはいつまで続いたか覚えて居ませんが、慶林街の記憶ですから開戦後で有ったことは確かです。
                 toshy

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