上海の思い出(その五)
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上海の思い出(その一) (toshy, 2004/8/6 10:21)
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上海の思い出(その二) (toshy, 2004/8/6 18:05)
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Re: 上海の思い出(その二) (ザックス, 2004/8/6 21:28)
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Re: 上海の思い出(その二) (toshy, 2004/8/6 22:36)
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上海の思い出(その三) (toshy, 2004/8/7 0:18)
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上海の思い出(その四) (toshy, 2004/8/7 9:50)
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Re: 上海の思い出(その一) (マーチャン, 2004/8/7 17:35)
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Re: 上海の思い出(その一) (toshy, 2004/8/7 18:14)
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上海の思い出(その五) (toshy, 2004/8/8 1:40)
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上海の思い出(最終回) (toshy, 2004/8/11 0:15)
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Re: 上海の思い出(最終回) (るみ) (るみ, 2007/2/11 17:52)
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Re: 上海の思い出(最終回) (るみ) (toshy, 2007/2/12 11:12)
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Re: 上海の思い出(最終回)・李香蘭 (ザックス, 2007/2/26 21:08)
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Re: 上海の思い出(最終回)・李香蘭 (toshy, 2007/3/13 23:01)
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白龍丸 (toshy, 2007/4/27 10:20)
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通知簿(上海の思い出) (toshy, 2007/6/21 8:24)
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Re: 上海の思い出(その一) (toshy, 2007/9/4 10:18)
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toshy
投稿数: 42

父は私たちのために英国製の Hornby と言うゼンマイ式の鉄道のおもちゃを買って呉れて居ました。
これは O(オー)ゲージで、4畳半の部屋に足の踏み場も無いほどレールを敷き詰め、父と私と弟の三人が各所のポイント操作をし、2台も3台もの汽車を同時に走らせては遊んだものでした。
一度線路を敷き詰めると片づけるのが大変なので、何日もレールを敷きっぱなしでした。
またゼンマイは力強く4畳半の部屋を何周もしました。
2番目の弟が生まれてしばらくして、戦争が長引くのが判り、父は家族の安全のためにと母と子供を日本に帰す決心をしました。
昭和18年の事でした。
帰国の船は「帝亜丸」と言う外国で建造された豪華船でした。
(インターネットで「帝亜丸」で調べて下さい)
父は日本まで同行して呉れましたが、今回は一等船客でした。
新田丸で上海に来た時は2等船客だったのでした。
と言うのは船は等級に依ってサービスに大きな差があるのです。
上の方の甲板には一等船客しか行けません。
また、夜の食事時は一等船客の場合は、船長や一等航海士などが、船客と一緒に食事をします。
船長と同じテーブルだったことが有ったのを覚えて居ます。
父はまた上海に一人で戻り、私は地元の国民学校に通うことに成りました。
日本に居る間に下の弟が病気で亡くなって仕舞いました。
そのこともあったのでしょう、父は戦争がひどくなって死ぬ時は家族一緒に考えたようでした。
結局一年間日本に居ただけで、また上海に戻ることに成りました。
今度は米国潜水艦に攻撃される恐れがあったので、航海時間の短い関釜《かんぷ=下関ー釜山》連絡船で釜山に渡り、満州から北京そして南京経由の鉄道で上海に行くことに成りました。
当時満州には有名なアジア号が走って居ましたが、私たちはその姉妹列車の興亜号で、奉天まで行きました。
そこには父が迎えに来て呉れて居ました。
今考えると、母は子供3人を抱えて異国の地を奉天までよく行ったものだと感心します。
奉天で一泊した後は北京で一泊し、紫禁城や天壇、それに萬壽山や石舫の有る昆明湖などを観光しました。
それから鉄道の長旅が南京まで始まりました。
途中、山海関では万里の長城が見られたのですが、私は眠って居て起きた時は既に過ぎ去ったあとで、とても残念でした。
再び慶林街での生活が始まり、再び第七国民学校に戻りました。
上海に戻ったのが昭和19年で終戦の前の年ですから、戦況は厳しくなり、翌20年になると日本が空襲を受け、日本に爆弾を落とした米軍機は中国に帰投したと聞いて居ました。
子供の時の記憶ですから定かでは有りませんが、夜になると空襲警報が発令され、防空壕に待避したものでした。
住宅街から少し離れた所に日本軍の飛行場が有り、赤とんぼとか抹香鯨《まっこうくじら》と呼んでいた練習機がよく飛んで居ました。
空襲警報時に飛行場方面から高射砲の音が聞こえた事も有ったようでした。
ただ上海が空襲を受ける事は無く(日本に爆弾を落とした後なので爆弾を持って居なかったと言われて居ました)、一度だけ北四川路の電話局前の道路に一発落ちたとか新聞に報道された事が有りました。
(これも、子供時代の記憶で裏は取って居ません)
飛行場以外にも登部隊本部を始め、輜重《しちょう=糧食・被服・武器などを扱う》兵隊そのたの日本軍は近くに居ました。
そして時々近所で演習をやって居ました。
ある日、学校から帰ると母が「今日は兵隊さんが庭を貸して呉れと言って、無線機を使って演習をして居たけれど、もう少し早く帰って来たら見られたのに」と話して呉れました。
自宅で間近に見られなかったのは残念でしたが、そのような光景は何度か見たことが有りました。
手回し式の発電機を回して通信して居るのを見て居たことが、終戦後日本帰ってからアマチュア無線をする動機になったようです。
当時は国民学校4年生でしたが、上級生の工作の教科書にはスパイダーコイルを使った鉱石《こうせき》式ラジオの作り方が有りました。
しかし、上海では部品が何処《どこ》に売って居るか判らず、その時の思いも終戦後に理科少年となった原因でしょう。
思いも終戦後に理科少年となった原因でしょう。

4年生の時の通信簿が残って居たので、
ご覧に供しましょう。

変色して居るので、白くしたもの、
しかも大きく表示させましょう。
そうこうして居るうちに、やはり上海も危ないから日本人の多
い大連に疎開することになり、ほとんど引っ越し荷物を作った時、
終戦と成りました。
8月15日は自宅で玉音放送を聞いたような気がします。
もし終戦がもうすこし後だったら、大連に疎開して居たでしょう。
上海から引き上げたのは上海からの日本人引き揚げ者の最後で、
昭和21年4月なのですが、大連に行っていたらどうなっていた
ことやら、運命とは判らないものです。
toshy
これは O(オー)ゲージで、4畳半の部屋に足の踏み場も無いほどレールを敷き詰め、父と私と弟の三人が各所のポイント操作をし、2台も3台もの汽車を同時に走らせては遊んだものでした。
一度線路を敷き詰めると片づけるのが大変なので、何日もレールを敷きっぱなしでした。
またゼンマイは力強く4畳半の部屋を何周もしました。
2番目の弟が生まれてしばらくして、戦争が長引くのが判り、父は家族の安全のためにと母と子供を日本に帰す決心をしました。
昭和18年の事でした。
帰国の船は「帝亜丸」と言う外国で建造された豪華船でした。
(インターネットで「帝亜丸」で調べて下さい)
父は日本まで同行して呉れましたが、今回は一等船客でした。
新田丸で上海に来た時は2等船客だったのでした。
と言うのは船は等級に依ってサービスに大きな差があるのです。
上の方の甲板には一等船客しか行けません。
また、夜の食事時は一等船客の場合は、船長や一等航海士などが、船客と一緒に食事をします。
船長と同じテーブルだったことが有ったのを覚えて居ます。
父はまた上海に一人で戻り、私は地元の国民学校に通うことに成りました。
日本に居る間に下の弟が病気で亡くなって仕舞いました。
そのこともあったのでしょう、父は戦争がひどくなって死ぬ時は家族一緒に考えたようでした。
結局一年間日本に居ただけで、また上海に戻ることに成りました。
今度は米国潜水艦に攻撃される恐れがあったので、航海時間の短い関釜《かんぷ=下関ー釜山》連絡船で釜山に渡り、満州から北京そして南京経由の鉄道で上海に行くことに成りました。
当時満州には有名なアジア号が走って居ましたが、私たちはその姉妹列車の興亜号で、奉天まで行きました。
そこには父が迎えに来て呉れて居ました。
今考えると、母は子供3人を抱えて異国の地を奉天までよく行ったものだと感心します。
奉天で一泊した後は北京で一泊し、紫禁城や天壇、それに萬壽山や石舫の有る昆明湖などを観光しました。
それから鉄道の長旅が南京まで始まりました。
途中、山海関では万里の長城が見られたのですが、私は眠って居て起きた時は既に過ぎ去ったあとで、とても残念でした。
再び慶林街での生活が始まり、再び第七国民学校に戻りました。
上海に戻ったのが昭和19年で終戦の前の年ですから、戦況は厳しくなり、翌20年になると日本が空襲を受け、日本に爆弾を落とした米軍機は中国に帰投したと聞いて居ました。
子供の時の記憶ですから定かでは有りませんが、夜になると空襲警報が発令され、防空壕に待避したものでした。
住宅街から少し離れた所に日本軍の飛行場が有り、赤とんぼとか抹香鯨《まっこうくじら》と呼んでいた練習機がよく飛んで居ました。
空襲警報時に飛行場方面から高射砲の音が聞こえた事も有ったようでした。
ただ上海が空襲を受ける事は無く(日本に爆弾を落とした後なので爆弾を持って居なかったと言われて居ました)、一度だけ北四川路の電話局前の道路に一発落ちたとか新聞に報道された事が有りました。
(これも、子供時代の記憶で裏は取って居ません)
飛行場以外にも登部隊本部を始め、輜重《しちょう=糧食・被服・武器などを扱う》兵隊そのたの日本軍は近くに居ました。
そして時々近所で演習をやって居ました。
ある日、学校から帰ると母が「今日は兵隊さんが庭を貸して呉れと言って、無線機を使って演習をして居たけれど、もう少し早く帰って来たら見られたのに」と話して呉れました。
自宅で間近に見られなかったのは残念でしたが、そのような光景は何度か見たことが有りました。
手回し式の発電機を回して通信して居るのを見て居たことが、終戦後日本帰ってからアマチュア無線をする動機になったようです。
当時は国民学校4年生でしたが、上級生の工作の教科書にはスパイダーコイルを使った鉱石《こうせき》式ラジオの作り方が有りました。
しかし、上海では部品が何処《どこ》に売って居るか判らず、その時の思いも終戦後に理科少年となった原因でしょう。
思いも終戦後に理科少年となった原因でしょう。

4年生の時の通信簿が残って居たので、
ご覧に供しましょう。

変色して居るので、白くしたもの、
しかも大きく表示させましょう。
そうこうして居るうちに、やはり上海も危ないから日本人の多
い大連に疎開することになり、ほとんど引っ越し荷物を作った時、
終戦と成りました。
8月15日は自宅で玉音放送を聞いたような気がします。
もし終戦がもうすこし後だったら、大連に疎開して居たでしょう。
上海から引き上げたのは上海からの日本人引き揚げ者の最後で、
昭和21年4月なのですが、大連に行っていたらどうなっていた
ことやら、運命とは判らないものです。
toshy