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上海の思い出(最終回)

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toshy

通常 上海の思い出(最終回)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/8/11 0:15
toshy  常連   投稿数: 42
 慶林街の住人は終戦時には、疎開《そかい=戦火を避けるため住居を移す》や既に日本に引き揚げた人が居なくなって半分くらいになって居たと思います。

 慶林街は高級住宅街で有ったため、中国軍将校の住宅として接収《せっしゅう=強制的に借り上げる》される事となり、私たちは明和街・平昌街とは違った、それまで行ったたことの無かった本圀街(ホンコクガイ)に引っ越すことになり、そこで日本への引き揚げ船を待つことに成りました。

 終戦後は子供に至るまで常時身分証明書を携帯させられ、行動範囲も制限されて居ました。

 ただ近くに国民学校の分校が作られ、寺子屋《=昔の手習い所》のような授業が日本に引き揚げるまで続けられました。

 終戦の年は4年生、引き揚げたのは翌21年の4月でしたから、一応4年生は修了しました。

 そのときの先生は小林先生で、今もお名前の方も覚えて居ます。
 
 学校のことは休み時間に腕をバットにして野球をしたことなど思い出されるのですが、終戦から半年もの間の生活用品などは何処《どこ》で買って居たのか、覚えが有りません。

 パンや卵なども食べて居ましたから、どこかに店が有ったような・・・。
 
 お米だけは引っ越しの際に米俵を10俵あまり持って来たのは覚えて居ます。(引き揚げる日まで白米のご飯を食べて居られました)

 母が「お父さんは東大出との事で世話役をやることになったので、日本に帰るのは全員の引き揚げが済む時、つまり最後だそうよ」と言ったのを覚えて居ます。

 そのうちに引き揚げが始まり、月に一度だったか、それとももっと多かったのか忘れましたが、だんだん近所に空き家が増えて行きました。

 いつだったか、先に引き揚げる人たちを見送った翌日、その人たちが着の身着のままで帰って来ました。

 なんでも乗船した引き揚げ船が黄浦江に残って居た機雷《きらい=水中に敷設する爆弾》で沈没したとの事でした。

 引き揚げ者に許された僅か《わずか》ばかりの荷物も無くした人たちに、私たち残った者は衣類などを差し上げたのでした。

 そうこうして居る間に翌年の春となり、上海日本人の最後として、白龍丸と言う(砕氷貨物船と聞きました)船で引き揚げる事に成りました。

 携行荷物は大人も子供も一人一つ。
 
 弁当は傷むと言うのでパンを持参することにしました。
 子供の頭ほども有る大きなフランスパンを、一旦《いったん》蒸してから重しを載せて圧縮し、容積を小さくしました。

 そうそう、昭和20年の3月に一番下の弟が生まれて居ました。
 上海の記録がほとんど何も残って居ない状態ですが、戸籍謄本には弟が上海で生まれた事が記載されて居ます。

 その赤ん坊を連れて私たちは米軍のトラックの荷台に載せられ、ウースンの乗船場に向かいました。

 白龍丸は貨物船だったので船室は無く、ハッチから船倉の底まで木の階段を下りて行くのでした。

 上海からは2~3日で博多に着きました。
 
 検疫のため、乗船後7日経たないと上陸出来ないとのことで、日本を目前にしながら数日間、船の中で過ごしました。

 そして上陸してからは例のDDT(粉末殺虫剤)を下着の中まで吹き込まれました。

 そしてバラック小屋で数日間、過ごしました。
 
 その間に配給されたパンはフスマ《=小麦を挽いた後の皮。家畜の飼料》入りの真っ黒なパンで、先日まで白いパンを食べて居た者にとっては大変な驚きでした。

 ようやく汽車に乗り、八幡製鉄所の焼けただれた鉄骨や広島の焼け跡風景を見つつ、祖父の居る大阪にたどり着いたのでした。
                         おわり。

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