Re: 我家の8月15日前後(李鍾根)
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我家の8月15日前後(投稿:李鍾根)<英訳あり> (あんみつ姫, 2004/10/7 9:22)
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Re: 我家の8月15日前後(李鍾根) (あんみつ姫, 2004/10/7 9:31)
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Re: 我家の8月15日前後(李鍾根) (あんみつ姫, 2004/10/22 11:54)
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Re: 我家の8月15日前後(李鍾根) (あんみつ姫, 2004/10/22 12:28)
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Re: 我家の8月15日前後(李鍾根) (あんみつ姫, 2004/10/23 11:56)
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Re: 我家の8月15日前後(李鍾根) (あんみつ姫, 2004/10/23 12:26)
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Re: 我家の8月15日前後(李鍾根) (あんみつ姫, 2004/10/27 8:09)
- Re: 我家の8月15日前後(李鍾根) (あんみつ姫, 2004/10/27 9:02)
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Re: 我家の8月15日前後(李鍾根) (あんみつ姫, 2004/10/22 11:54)
- スタッフからコメント (kousei, 2005/7/20 20:26)
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Re: 我家の8月15日前後(李鍾根) (あんみつ姫, 2004/10/7 9:31)
あんみつ姫
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我家の8月15日前後(李鍾根) ―6―
ソ連兵は脱出者を無条件で射殺するとの前例がある。
我が部隊が苦茂山に近づく時、ソ連軍の命令が突然変更した。
202部隊捕虜軍は目標を変えて咸鏡南道の興南市に南下する様
命令された。羅南市から吉州まで後退、吉州で捕虜になって羅南
を折り返し苦茂山に行く途中、また折り返して興南に南下する。
これはまるで行ったり来たりの連続で皆がびっくりした。
しかし南に行くのは何処《どこ》か希望的である。清津市、羅南
を通過、南へ南へと強行軍し、疲れは勿論、食料が無くなった。
正常な食事をすることが出来ない状態で、胃痙攣《いけいれん=
上腹部が激しく痛む病気》で苦痛をしのぶ将校を、一等兵と二等
兵各1名が看病するのを見て、我々は食べ物に気を付けないと困
ると思いながら、通過して30分経過した時“胃痙攣”で落伍し
た某少尉と看病中の2名の兵士が射殺された。
“落伍するな、我等の行進は死の行進だ、良く覚えておけ”との
発表があった。“死の行進”まさに新用語が誕生した。
悲劇は今から連続的に発生し始め、前進しながら驚くニュースが
しばしば起った。
道路の横に集団死体が10余体たおれている。死体は大部分 刀
で刺《さ》されていた。日本人民間人の集団死体であった。朝鮮
人にやられたと見える。北朝鮮では満州の近くで朝鮮独立軍のゲ
リラ式活動が発生して、日本軍の撃滅《げきめつ=1打ち滅ぼす》
作戦で独立軍家族が多く射殺された噂《うわさ》を聞いている。
その復讐《ふくしゅう=あだ討ち》の身代わり犠牲者《ぎせいし
ゃ》と、僕は判断した。併し、母の背中におぶわれて死んでいる
可愛い幼児を見た瞬間、とめどなく涙が流れ“ああ、人間は果て
しない悪い動物に過ぎない”と思った。
興南には何の為に行くのかを考えて見た。
興南には日本の技術陣が立派《りっぱ》な高周波工場《=電気炉》
を建設していた。ソ連はその工場の施設を分解して、ソ連に運ぶ
意図《いと》らしい。我が部隊をその重労働に投入すると判断し
た。僕の判断を聞いた小隊長、分隊長は“原君 なかなか先回り
するじゃないか”と笑いながら226事件《=1936年青年将校によ
るクーデター》で死んだ原 敬総理が原 敬三だったら、3回程
度、死を免れる機会があったと思うと、からかわれた。
9月が過ぎ、10月になると、捕虜の食料不足は深刻だった。
咸鏡南道新浦に到着した。新浦港は明太魚《めんたいぎょ=すけ
そうだら》の集散地として有名な所であった。新浦では、干明太魚一匹、
大豆一合、これが一日分の食料で、米は皆無《かいむ=全く無い》であった。
― 続く ―
ソ連兵は脱出者を無条件で射殺するとの前例がある。
我が部隊が苦茂山に近づく時、ソ連軍の命令が突然変更した。
202部隊捕虜軍は目標を変えて咸鏡南道の興南市に南下する様
命令された。羅南市から吉州まで後退、吉州で捕虜になって羅南
を折り返し苦茂山に行く途中、また折り返して興南に南下する。
これはまるで行ったり来たりの連続で皆がびっくりした。
しかし南に行くのは何処《どこ》か希望的である。清津市、羅南
を通過、南へ南へと強行軍し、疲れは勿論、食料が無くなった。
正常な食事をすることが出来ない状態で、胃痙攣《いけいれん=
上腹部が激しく痛む病気》で苦痛をしのぶ将校を、一等兵と二等
兵各1名が看病するのを見て、我々は食べ物に気を付けないと困
ると思いながら、通過して30分経過した時“胃痙攣”で落伍し
た某少尉と看病中の2名の兵士が射殺された。
“落伍するな、我等の行進は死の行進だ、良く覚えておけ”との
発表があった。“死の行進”まさに新用語が誕生した。
悲劇は今から連続的に発生し始め、前進しながら驚くニュースが
しばしば起った。
道路の横に集団死体が10余体たおれている。死体は大部分 刀
で刺《さ》されていた。日本人民間人の集団死体であった。朝鮮
人にやられたと見える。北朝鮮では満州の近くで朝鮮独立軍のゲ
リラ式活動が発生して、日本軍の撃滅《げきめつ=1打ち滅ぼす》
作戦で独立軍家族が多く射殺された噂《うわさ》を聞いている。
その復讐《ふくしゅう=あだ討ち》の身代わり犠牲者《ぎせいし
ゃ》と、僕は判断した。併し、母の背中におぶわれて死んでいる
可愛い幼児を見た瞬間、とめどなく涙が流れ“ああ、人間は果て
しない悪い動物に過ぎない”と思った。
興南には何の為に行くのかを考えて見た。
興南には日本の技術陣が立派《りっぱ》な高周波工場《=電気炉》
を建設していた。ソ連はその工場の施設を分解して、ソ連に運ぶ
意図《いと》らしい。我が部隊をその重労働に投入すると判断し
た。僕の判断を聞いた小隊長、分隊長は“原君 なかなか先回り
するじゃないか”と笑いながら226事件《=1936年青年将校によ
るクーデター》で死んだ原 敬総理が原 敬三だったら、3回程
度、死を免れる機会があったと思うと、からかわれた。
9月が過ぎ、10月になると、捕虜の食料不足は深刻だった。
咸鏡南道新浦に到着した。新浦港は明太魚《めんたいぎょ=すけ
そうだら》の集散地として有名な所であった。新浦では、干明太魚一匹、
大豆一合、これが一日分の食料で、米は皆無《かいむ=全く無い》であった。
― 続く ―