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Re: 我家の8月15日前後(李鍾根)

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あんみつ姫

通常 Re: 我家の8月15日前後(李鍾根)

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depth:
7
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/10/27 9:02
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
我家の8月15日前後(李鍾根) ―8―

もうこれ以上あってはならない悲劇を、また見る機会が来た。
脱出に成功して僕を捕虜の身から救出した青年のボスは、咸興
道立病院の清掃夫の長男(名前を忘れた)であった。
彼の家は小さい小屋みたいで貧しい家庭であった。

彼は僕を大市場に連れて行き「皆さんこの青年は南の大邱市出
身で、家も大邱にあり、清津製鉄所で勤務中にソ連軍上陸で避
難中、日本軍憲兵が日本軍に編入させ、数ヶ月間ソ連軍捕虜に
なって居たのを萬歳橋で我々が救出しました。
故鄕に送ってあげる為の旅費を同情してください」と募集した
結果85円が募金されたので、旅費は十分であった。

南に行く列車を求めて咸興駅に到着してみると、駅前の片隅で
7~80人の日本人家族を発見した。良く見ると清津製鉄所の
化工課コークス係長さんも、家族と共に見えた。

僕が係長さんに挨拶する為に近くに歩いて行く途中、ソ連兵2
名が日本人夫人二人を連れ出し、駅前の半分壊れた建物に入っ
て行った。おそらく強姦《ごうかん=婦女暴行》されたと思う。
30分位後、御婦人二人が頭を下げて力ない表情で集団に帰っ
て行くのを見た。

戦争は今も昔も勝たなければならぬと思った。

突然、藤堂君が前を通り過ぎるのを見た。藤堂君は僕と同じ化
工課で勤務して居る化工課の養成工出身である。
藤堂君は 原 敬三じゃないかと ―― 二人は抱き合った。
藤堂君は真黒焼けでげっそりした僕の顔を見て驚いた。どうし
たのか?

日本軍に8月17日入隊して数日前にソ連軍から脱出して汽車
を利用して故鄕の大邱に帰るところだ。「おい、藤堂君は僕と
一緒に南に行こう。南の米軍はなかなか紳士らしい。君は38
度線《=北緯38度を境に朝鮮は南北に分かれ、北はソ連が、
南はアメリカが支配した》
を越えるのに朝鮮語を解らぬから、
僕と一緒に行けば君は黙っていれば南に行けるのだ。旅費も準
備が出来た。」

明後日この時間にここで会おう。僕をソ連の捕虜から脱出させ
てくれた若者達に挨拶して感謝の意を伝えなければならないか
らと、約束して再会を誓《ちか》った。

2日後、約束通り咸興駅で藤堂君を探《さが》して3時間も待
ったが発見できず、駅前の日本人集団も何処《どこ》かへ消え
て見当らなかった。それでは孤独《こどく》な故鄕帰りと、元
気を取り戻して南への汽車の終点に到着、38度線を歩いて越
え、東豆川駅から汽車に乗車して京城駅で降りた。

聖仏蘭西《せいふらんす》病院の庭で一夜を過ごそうと寝てい
たら、雨が降ってびしょぬれになり寒かった。午後5時頃やっ
と釜山行きの列車に乗ったが、驚いたことに日本軍人が軍服を
着て対話中でありまた日本人と朝鮮人が親しく笑いながら話し
合う場面を見て、南と北がこんなに違うものか、これは天と地
の差だと思った。

朝4時半、汽車は故鄕の大邱駅に到着した。照明も明るく母が
待っている明治町2番地に到着した。
母はまだ寝ている時間なので外で2時間ほど待つ心算《つもり》
で軽く門をノックすると、母の声が「誰ですか」と大きく聞こ
えた。姉と弟が庭を通って大門を開いた。お互いに抱き合って
感激の涙を流した。

15日後に兼ニ浦製鉄所の兄が、また一ヶ月後にはウラジオス
トックの向い側の人造石油会社で負傷した兄が帰ってきて、我
が家は明るい感謝と感激に包まれた。
四方に分散していた我が家族
1)満州 和龍県
2)咸鏡北道 阿吾地
3)平安南度 鎮南浦
4)咸鏡北道 清津市
に分散していた家族は、母が待って居る大邱の我が家に帰って
来た。その中で一番幸運な人は、終戦1ヶ月前に帰って来た姉
李慶姫である。姉は誰も汚す事の出来ない姫様であった。
              ― 完 ―

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