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我家の8月15日前後(投稿:李鍾根)<英訳あり>

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/10/7 9:22
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485

韓国のシニアネット元老坊の日本語同好会(KJCLUB)のgarish
さんから、会員の李鍾根(イ・ジョングヌ)さんの手記を頂きました。

**************
我家の8月15日前後 ―1―

1943年3月末、僕は朝鮮咸鏡北道(Hamgyongbukto)
清津Chongjin)港の日本製鉄清津製鉄所に青雲の夢《せいうん
のゆめ=高い志を持つこと》
を抱いて就職した。

技能養成工として応徴《おうちょう=非常の場合、国家の呼びかけ
に自主的に応じること》
の形で入社したのである。

当時は何処《どこ》も人手不足で徴用《ちょうよう=非常の場合、
国家が国民を強制的に集めて一定の仕事につかせること》
者も
沢山居た。

徴用者は強制的採用であり、応徴方式は本人が志願した型式
であったが、実際には両者には区別が無かった。

私の故鄕は 大邱(Taegu)市明治町(今は 桂山洞)であった。父
は私が7歳の時病死し、家族は母と2人の姉と4人の兄そして
弟が2人の、総勢10名の大家族であった。

3男の私は4~5歳から家の壁にでたらめの絵ばかり書いて、
兄や姉から制裁《せいさい=お仕置き》を受け、鉛筆を持つ事が
許されなかった。

それでも懲《こ》りずに庭に木筆《ぼくひつ=木の枝先を焼いて
焼筆にする》
で何か書いたので、姉からたたかれ、泣き虫であった
ようである。

父は洋靴材料店を経営して大邱警察署の向側に慶北洋
(Kyongbukyo)靴皮革商会の看板《かんばん》を掲《かか》げ、従
業員も4~5人居たので、裕福な生活を送った。

父の死後長兄が未だ18歳であったので、店を畳《たた》んで
《閉じて》中央通りに慶一(Kyongil)皮革商店と転落したが、
生活には問題が無かったようである。

大東亜戦争《だいとうあせんそう=第二次世界大戦》が勃発《ぼっぱ
つ=突然起こる》
すると、皮革材料は皆軍用として徴発《ちょうはつ
=戦時中、人や物を強制的に軍のために使うようにすること》
された
ので、大部分の材料店は閉門した。私等の店も閉門せざるを
得なかったのである。

戦況が不利に成るにつれ国民生活も困難に落ち、長兄は平安
南道(Pyongnamdo)の日本製鉄鎮南浦(Chimnampo)工場に
徴用され、工員と成った。

次兄もソ連のウラジオストックの向い側にある咸鏡北道(Ham
gyongbukto)阿吾地(Aoji)人造石油会社に徴用された。
次兄は勤務中長靴をはいたまま熱油に左足を失足、大火傷をし、
4個月治療をしたが、其の後10年間苦痛の生活を続けた。

最後に4番目の姉 李慶姫 (原洋子)が未だ処女であったので、
軍人慰安婦《いあんふ=性的奉仕をする女性》と成る女子挺身
《じょしていしんたい=戦争労働力として国家に動員された
14歳から25歳までの女性の集団》
に徴用される危機に直面し
(注1)

姉は大邱女子技芸学校を卒業と同時に、母が満州(Mangiu)
和龍Helong)県で勤務して居る朴仁鎬さんに依頼して、満州で勤務
する様計らい、挺身隊徴発《ちょうはつ=強制的動員》を免《まぬ》
がれた。

                ― 続く ―

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注1: この文章については、運営スタッフとして、この記事へのコメント
を付加しました。ここから 直接読むこともできます。
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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/10/7 9:31
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
我家の8月15日前後(李鍾根) ―2―

朴仁鎬さんは姉の履歴書を彼が勤務して居る和龍県開公所
に提出すると、開公所の人事担当は 「こんな履歴書を提出
しては困る、本人直筆の履歴書を出す様に」と言われた。

朴さんは本人が書いた履歴書ですと説明すると、本人の直筆
であるかを試す事になった。
姉の直筆を確認した担当者は、姉の達筆に驚いて即日採用が
決まった。

姉は大邱喜道小学校5年の時、東京で開催された全日本学生
書道大会に小学校代表として出品した作品が銅賞を受賞した
才媛である。
受賞後 京城・大邱の各新聞社の紙面に報道され、学校では
人気者であった様である。

開公所で4個月勤務の後、達筆処女との評判で和龍県県公署
人事課に ピックアップされ、昇給は言うに及ばず、当時は食料
配給も日系、鮮系、満系、中系の4段階があったが、日系の
配給券を特別配慮される程優遇を受けたと聞いて居る。

姉は大邱に手紙を出して事情を説明し、洋服を送ってくれる
様頼んだ。
大邱では家族が総動員して8着の洋服を送り届けたため、姉
の衣装は衆人の注目を浴び「アリモノ屋だなあ」と羨望の的
であった様である。

姉は1944年5月に満州に避難し、1945年7月15日、
故鄕の大邱に戻った。
その頃、女子挺身隊の風向が変ったので、母が母危篤と数回
電報を打ったのが奏效し、帰郷する事が出来たのである。

1個月後終戦と成り、若し帰郷して居なければ、どんなひど
い目に会ったかわからない。
本当に 姉は 好運であった。

              ― 続く ―
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/10/22 11:54
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
我家の8月15日前後(李鍾根) ―3―

僕は清津製鉄所の養成工の基礎教育を受け、化工科cokes係
で専門教育を受ける予定であったが、戦況はますます不利に
なり、沖縄も占領され神風《かみかぜ》特攻隊《とっこうた
い=飛行機で航空母艦などに体当たりする目的の特別攻撃隊》

も大した効果もなく、本土決戦《=最後に日本の本土で戦う》
状態であった。

戦略物資《せんりゃくぶっし=戦争に必要なもの》である鉄
の生産にはコークスが必須《ひっす=必ず必要》であるので、
連日無給のコンベアーベルトのコークスが落ちてベルトが運転
不能の状態となるのを防ぐため、僕らは毎日重労働を
余儀《よぎ》なくされた。

朝9時から午後5時まで、落下したコークスをベルトに上げなけ
れば溶鉱炉《ようこうろ=製鉄に用いる大きい炉》が稼動で
きないので、毎日12名を1組として編成し、10組くらい
が作業をした。

僕は体力が無く重労働は無理であった。
連日の労働は限りなく続き、同僚《どうりょう》の労働者は
同情してくれたが、人情は雀の涙ほどもない労務課長には通
じなかった。休息の15分間は、母・兄・姉の顔が浮かび、
涙と苦痛の連続であった。
ああ、この戦争は何故《なぜ》起って、何故戦わなければな
らないのか?

1945年8月6日 広島に原爆《げんばく=原子爆弾》
投下されたが“新型爆弾が投下され我方の被害大なり”と新
聞に報道された程度である。

1945年8月7日11:00頃、運命の日が来た。

ウラジオストック軍港を出港したソ連艦隊と上陸用船団は、日
ソ不可侵条約《ふかしんじょうやく=相手を侵略しない約束》
期限が締結《ていけつ》されているのを無視して、米英連合軍
と隊列を共にして清津港に艦砲射撃《かんぽうしゃげき=軍艦
から大砲や高射砲を発射する》
を開始、上陸準備を始めた。

我々はコークス爐《ろ》の扉を一斉に解放して製鉄所を離れた。
清津市清訓合宿52号室で手荷物を整理し、南の故鄕に向けて
走った。羅南(Lanam)駅前100m付近に到着した時、突然憲兵
けんぺい=軍事警察官》
30余名が現われ「満16歳以上の青年は
全員軍隊に入隊して羅南を死守し、清津に上陸したソ連軍を撃
《げきめつ=打ち滅ぼす》する。」と宣言した。

皆 手荷物を捨て、憲兵の指示に従った。
羅南師団司令部がある軍部隊に入隊してみると、外観上木造単
《たんそう=一階建》の建物に案内されたが、内部は2階で
一寸《ちょっと》驚いた。軍需《ぐんじゅ=軍が必要とする》
倉庫で軍服《ぐんぷく》、軍靴《ぐんか》、階級章《=階級を
示す印を軍服の襟に着けた》
、背嚢《はいのう=すべての持ち
物を入れる背負い袋》
、小銃、短剣《たんけん》、弾薬120
発を支給され、予備弾50発は背嚢に入れた。
我が部隊は「朝鮮202部隊、星野部隊、安部隊」と公式に発
表された。
僕は第3小隊第2分隊陸軍2等兵 原敬三(李鍾根)となった。

僕の姓の原は我家の元祖の姓で“高麗《こうらい》時代《918
~1392》
”に中国の大将軍が高麗に帰化して高麗王から下賜さ
れた姓である。僕の祖先が高麗王から下賜された姓をそのまま
継承《けいしょう=受け継ぐ》した。
理由は、陸軍2等兵に変身した僕を朝鮮の大将軍の祖先が僕の
武運《ぶうん=戦争での運》を守護してくれるだろうとの微
《かす》かな望みでもあった。

226事件で射殺された原敬さんの名の後に3を付けたのは命
が3つあって欲しいという欲望でもあった。
226事件の内容は、当時明治大学に遊学《ゆうがく=留学》
中であった兄李鍾潤の小学校同期生が夏休みに帰郷して、細密
に説明をしてくれたのを覚えている。日本は神国で、天皇陛下
を乗り越えて反乱を起した種が育ってこのような敗戦に導き、
僕のか弱い力まで要求するのは酷《ひど》すぎる。

僕は日本人の美点を愛している。僕の恩師、税所健次郎(九州
熊本出身)、長尾 勉先生の正直一辺倒の教えを、僕はこの世
を去るまで守ってゆきたい。

                 ― 続く ―

--
あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/10/22 12:28
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
我家の8月15日前後(李鍾根) ―4―

さて、部隊編成が終ると僕ら幼年兵を集めて、射撃姿勢、小銃
の使い方等を徹底的に教えてくれた。ソ連軍は重戦車を先頭に
清津市内を制圧して、次は師団司令部がある羅南市に総攻撃体
制で布陣した。我が軍は敵の重戦車を撃滅しなければ勝算が無
いのは、新兵の僕でも良く解っている内容だ。

我が第3小隊長は40歳前後と見える陸軍准尉《じゅんい=
もと陸軍軍人の階級の一つ。将校と下士官の間》
で、その名は
忘れたけれども、彼はとても人情深い人だった。

夜間攻撃命令が下達《かたつ=上の人の意思・命令を下の者に
伝えて、その趣旨を徹底させること。》
され、第3小隊は全員
“被甲《ひこう=かぶとをかぶった》爆雷《ばくらい=爆発の
条件を備えた爆弾》
特攻隊《とっこうたい=特別の目的のため
に体当たり行動をする部隊》
”と名付けられた。

爆雷は白い木造箱で背嚢に担ぐように準備してあり、横に紐が
付いていた。その紐を引っ張ると爆発するようになっていた。

「戦車のキャタピラを破壊して自決《じけつ=自殺》せよ」と
の命令である。
全身を草で擬装《ぎそう=カムフラージュ》して、真夜中にソ
連軍重戦車がある地点に向かって、死を決した総攻撃時間が迫
って来た。

僕は、ああこれが特攻隊の死の寸前か、飛行機に乗って出発す
る神風特攻隊だったらスリルがあるが僕らは草の上で敵の重戦
車に迫って行く可憐《かれん》な少年達だ、年寄りの特攻隊長
よ、敵の戦車を爆破後 自決せよとの暴令か?

後25mの距離に到達した時、突然 敵の照明弾《しょうめい
だん=あたりを照らすための爆弾》
が破裂《はれつ》して、
我等は全身敵に露出された。特攻隊長の大声が響いた。
“特攻隊員 全員爆雷を捨てて後退しろ、命令だ”

隊長の命令は迅速《じんそく=大変早い》に伝播《でんぱ=伝
わる》
し、我等は超速度で四方に散会、後退した。敵の機関銃
《きかんじゅう》が頭上すれすれにかすめて行った。数百米を
後退して点検すると、戦死者も負傷者も居なかった。
《まさ》に天佑神助《てんゆうしんじょ=天や神の助け》
あった。原 敬総理の第一次救助か? 
我等は特攻隊長を神の如く囲んで、救世主のように尊敬した。

1945年8月10日以後、202部隊全軍に後退命令が一斉
に下達され、我が中隊も1名の戦死者も無く後退作戦の先頭に
立った。
第一次後退は咸鏡北道吉州に到着後、日本人鉄道作業員官舎に
入って休息した。鉄道従業員は皆一番先に逃げたらしい。我が
安部中隊はその官舎に一晩大休止《だいきゅうし=行軍中長い
時間休むこと》
した。                ― 続く ―

--
あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/10/23 11:56
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
我家の8月15日前後(李鍾根) ―5―

1945年8月15日、天皇陛下がラジオの肉声放送で無条件降
伏を発表されたのに、我が中隊はそれを聞いていなかった。
8月17日の朝、中隊長安倍大尉の命によって、我らは小銃に刻
《きざ》んである菊の御紋章《=16花弁の菊は天皇家の紋印》をヤ
スリで削《けず》った後、我が中隊は列を整えて徒歩行軍し、
吉州(Kilju)金融組合に到着すると、ソ連将校、兵士、重型戦車
群が我等を待っていた。

ソ連女子軍人の長身に長銃を持ったそのスタイルは、その体格、
その大きな乳房、まるで外国映画を見ている気分であった。
武装解除《ぶそうかいじょ=強制的に武器をとりあげる》された
後、吉州江付近に案内されて見ると、3,000余名の日本捕虜
《ほりょ》を目撃して、ああ日本は100%負けたと、はっきり
納得した。

我等の周辺にはソ連軍が包囲網《ほういもう》を固めて居るのが
気分が悪かった。日本軍捕虜202部隊3,000名に、ソ連軍
騎馬兵が10米間隔で多発銃を首にひっさげ前進を命令した。
我が軍が後退した羅南(Lanam)師団司令部付近に戻って行く
命令だった。

今まで一生懸命後退した道を折り返しながら、これは演劇か映画
か、僕が少年から青年に変ってゆきながら、歴史の変化と人生の
苦痛が身にしみて、はかない心の傷あとは自殺したい心境がむら
むらと起るのを押さえた。

落伍《らくご=付いていけなくなる》すると隣の兵士が“貴様
《きさま》、しっかりしろ!射殺されるぞ”と僕をかばって行き
ながら、彼も涙を流して居るのを見て、有難い人間愛をしみじみ
感じながら“上等兵殿 すみません”と答えて正常の隊列に戻っ
た。

我が捕虜連隊は羅南市入り口に到着して、202部隊長の命によ
って全員広い丘の上に座《すわ》った。馬上から一大訓示が始まった。
その訓示内容は「刀折れ、矢つきて破れたのではない。我々は、
大命《=天皇の命令》に依《よ》って服従しただけである。我が軍
はいかなる苦痛もしのんでゆく精神的団結が必要だ。」連隊長の
訓示は、その声が余り悲壮《ひそう》なので、皆 涙を流した。

我が捕虜部隊は、咸鏡北道(Hamgyongbukto)苦茂山(Kumusan)
に行けというソ連側指示で行進が始まった。羅南、清津を通過、苦茂山
に向かって行進しながらよく考えて見ると、苦茂山は朝鮮半島唯一の
良質の鉄鉱石産地である。今更こんな鉄鉱石が必か? 
良く考えて見ると、これは我々をシベリアに移動させる計画的目
的地ではないか?冬のシベリアは考えて見ただけでも凍死《とう
し》
する懼れ《おそれ》が100%だ。僕は脱出を計画した。


                  ― 続く ―

--
あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/10/23 12:26
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
我家の8月15日前後(李鍾根) ―6―

ソ連兵は脱出者を無条件で射殺するとの前例がある。
我が部隊が苦茂山に近づく時、ソ連軍の命令が突然変更した。
202部隊捕虜軍は目標を変えて咸鏡南道の興南市に南下する様
命令された。羅南市から吉州まで後退、吉州で捕虜になって羅南
を折り返し苦茂山に行く途中、また折り返して興南に南下する。
これはまるで行ったり来たりの連続で皆がびっくりした。

しかし南に行くのは何処《どこ》か希望的である。清津市、羅南
を通過、南へ南へと強行軍し、疲れは勿論、食料が無くなった。
正常な食事をすることが出来ない状態で、胃痙攣《いけいれん=
上腹部が激しく痛む病気》
で苦痛をしのぶ将校を、一等兵と二等
兵各1名が看病するのを見て、我々は食べ物に気を付けないと困
ると思いながら、通過して30分経過した時“胃痙攣”で落伍し
た某少尉と看病中の2名の兵士が射殺された。

“落伍するな、我等の行進は死の行進だ、良く覚えておけ”との
発表があった。“死の行進”まさに新用語が誕生した。
悲劇は今から連続的に発生し始め、前進しながら驚くニュースが
しばしば起った。

道路の横に集団死体が10余体たおれている。死体は大部分 刀
で刺《さ》されていた。日本人民間人の集団死体であった。朝鮮
人にやられたと見える。北朝鮮では満州の近くで朝鮮独立軍のゲ
リラ式活動が発生して、日本軍の撃滅《げきめつ=1打ち滅ぼす》
作戦で独立軍家族が多く射殺された噂《うわさ》を聞いている。

その復讐《ふくしゅう=あだ討ち》の身代わり犠牲者《ぎせいし
ゃ》
と、僕は判断した。併し、母の背中におぶわれて死んでいる
可愛い幼児を見た瞬間、とめどなく涙が流れ“ああ、人間は果て
しない悪い動物に過ぎない”と思った。

興南には何の為に行くのかを考えて見た。
興南には日本の技術陣が立派《りっぱ》な高周波工場《=電気炉》
を建設していた。ソ連はその工場の施設を分解して、ソ連に運ぶ
意図《いと》らしい。我が部隊をその重労働に投入すると判断し
た。僕の判断を聞いた小隊長、分隊長は“原君 なかなか先回り
するじゃないか”と笑いながら226事件《=1936年青年将校によ
るクーデター》
で死んだ原 敬総理が原 敬三だったら、3回程
度、死を免れる機会があったと思うと、からかわれた。

9月が過ぎ、10月になると、捕虜の食料不足は深刻だった。
咸鏡南道新浦に到着した。新浦港は明太魚《めんたいぎょ=すけ
そうだら》
の集散地として有名な所であった。新浦では、干明太魚一匹、
大豆一合、これが一日分の食料で、米は皆無《かいむ=全く無い》であった。
                 ― 続く ―
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あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
我家の8月15日前後(李鍾根) ―7―

朝鮮がソ連軍を迎えた態度はどうであったかと言うと、官公署
には皆赤旗《=共産党・革命家などが用いた赤地の旗》を掲げ
てあり、赤旗畑であった。
ソ連軍の服装は汚れており、洗濯などは全然無考慮《むこうり
ょ=考えない》
の状態であった。彼等が食べるパンも黒パンで、
白パンは見た事がなかった。

我が2020部隊は南の興南に向かって継続的に南下しながら
小休止すると、全員の10分の1程度が、下痢《げり》の大便
をした。小隊、中隊とならんで妙音を立てながら、小休止も少
し長くなる事が多かった。

生大豆を食べたので、これは必然《ひつぜん=必ずそうなる》
の結果であった。併《しか》し僕は意外にも一度も下痢をせず、
優秀な黄便をすると、隣の将校さんが“貴様 良い糞《くそ》
をたらすのう”と叫んで羨まし《うらやまし》がった。
二等兵階級章が、今日だけは将校さんと代りたくなかった。

興南に向かって南下する我が202部隊は、ソ連の旗がはため
く咸興市の道庁《どうちょう=道の役所》前を過ぎ、道立病院
を越え、萬歳橋という大きな橋を越えて中休止して居る時、僕
の目前で朝鮮語で「朝鮮人が居たら手を挙《あ》げて下さい。僕
が脱出させてあげますから」と大声で叫んでいた。

僕は脱出機会と判断したが、ソ連兵の多発銃がこわかった。
ある朝鮮青年が小さい声で朝鮮人でしょうと囁《ささや》いた。
僕は頭でうなずいて、彼に、ソ連兵は日本軍の軍服を着た者の
脱出を無条件で射殺するので、皆さんがこの辺りのソ連兵を集
めて万歳を叫んだり抱いたりしてくれたら、機会を見て君達青
年一人と一緒に、一生懸命走りますからと説明すると、頭が賢
《かしこ》
いと言いながら同僚青年達を説得した。

チャンスが来た。
青年4~5名がソ連兵を集めて万歳を叫んだり抱擁《ほうよう
=抱き合うこと》
したりして彼等の気分を高揚させ、左手を挙
げて脱出の信号をした。
僕の横で待っていた青年が僕の手をとって川の堤防《ていぼう》
の下の道へ全速で走り出した。200米ばかり走り大きな木の後
ろに回ったとき、助かったと声を挙げて抱き合った。
脱出成功の感激だった。
遠くへ去って行く202部隊を眺めながら、僕は同僚の兵士に対
する人間愛を忘れることはできない。

憲兵《けんぺい》さん達に捕えられて
1)202部隊で軍服と階級章を付けた時の気分
2)被甲爆雷特攻隊《ひこうばくらいとっこうたい》のソ連戦車爆
 破攻撃に失敗して、退却《たいきゃく》した時の恐怖
3)吉州でソ連軍に降伏した時の気分
4)落伍者は無条件射殺するソ連兵の死の行軍
5)日本人民間人の幼児の死体を見た時の人間愛
6)必死の脱出に協力した咸興青年達に感謝したい気分

                 ― 続く ―
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あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
我家の8月15日前後(李鍾根) ―8―

もうこれ以上あってはならない悲劇を、また見る機会が来た。
脱出に成功して僕を捕虜の身から救出した青年のボスは、咸興
道立病院の清掃夫の長男(名前を忘れた)であった。
彼の家は小さい小屋みたいで貧しい家庭であった。

彼は僕を大市場に連れて行き「皆さんこの青年は南の大邱市出
身で、家も大邱にあり、清津製鉄所で勤務中にソ連軍上陸で避
難中、日本軍憲兵が日本軍に編入させ、数ヶ月間ソ連軍捕虜に
なって居たのを萬歳橋で我々が救出しました。
故鄕に送ってあげる為の旅費を同情してください」と募集した
結果85円が募金されたので、旅費は十分であった。

南に行く列車を求めて咸興駅に到着してみると、駅前の片隅で
7~80人の日本人家族を発見した。良く見ると清津製鉄所の
化工課コークス係長さんも、家族と共に見えた。

僕が係長さんに挨拶する為に近くに歩いて行く途中、ソ連兵2
名が日本人夫人二人を連れ出し、駅前の半分壊れた建物に入っ
て行った。おそらく強姦《ごうかん=婦女暴行》されたと思う。
30分位後、御婦人二人が頭を下げて力ない表情で集団に帰っ
て行くのを見た。

戦争は今も昔も勝たなければならぬと思った。

突然、藤堂君が前を通り過ぎるのを見た。藤堂君は僕と同じ化
工課で勤務して居る化工課の養成工出身である。
藤堂君は 原 敬三じゃないかと ―― 二人は抱き合った。
藤堂君は真黒焼けでげっそりした僕の顔を見て驚いた。どうし
たのか?

日本軍に8月17日入隊して数日前にソ連軍から脱出して汽車
を利用して故鄕の大邱に帰るところだ。「おい、藤堂君は僕と
一緒に南に行こう。南の米軍はなかなか紳士らしい。君は38
度線《=北緯38度を境に朝鮮は南北に分かれ、北はソ連が、
南はアメリカが支配した》
を越えるのに朝鮮語を解らぬから、
僕と一緒に行けば君は黙っていれば南に行けるのだ。旅費も準
備が出来た。」

明後日この時間にここで会おう。僕をソ連の捕虜から脱出させ
てくれた若者達に挨拶して感謝の意を伝えなければならないか
らと、約束して再会を誓《ちか》った。

2日後、約束通り咸興駅で藤堂君を探《さが》して3時間も待
ったが発見できず、駅前の日本人集団も何処《どこ》かへ消え
て見当らなかった。それでは孤独《こどく》な故鄕帰りと、元
気を取り戻して南への汽車の終点に到着、38度線を歩いて越
え、東豆川駅から汽車に乗車して京城駅で降りた。

聖仏蘭西《せいふらんす》病院の庭で一夜を過ごそうと寝てい
たら、雨が降ってびしょぬれになり寒かった。午後5時頃やっ
と釜山行きの列車に乗ったが、驚いたことに日本軍人が軍服を
着て対話中でありまた日本人と朝鮮人が親しく笑いながら話し
合う場面を見て、南と北がこんなに違うものか、これは天と地
の差だと思った。

朝4時半、汽車は故鄕の大邱駅に到着した。照明も明るく母が
待っている明治町2番地に到着した。
母はまだ寝ている時間なので外で2時間ほど待つ心算《つもり》
で軽く門をノックすると、母の声が「誰ですか」と大きく聞こ
えた。姉と弟が庭を通って大門を開いた。お互いに抱き合って
感激の涙を流した。

15日後に兼ニ浦製鉄所の兄が、また一ヶ月後にはウラジオス
トックの向い側の人造石油会社で負傷した兄が帰ってきて、我
が家は明るい感謝と感激に包まれた。
四方に分散していた我が家族
1)満州 和龍県
2)咸鏡北道 阿吾地
3)平安南度 鎮南浦
4)咸鏡北道 清津市
に分散していた家族は、母が待って居る大邱の我が家に帰って
来た。その中で一番幸運な人は、終戦1ヶ月前に帰って来た姉
李慶姫である。姉は誰も汚す事の出来ない姫様であった。
              ― 完 ―
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/7/20 20:26
kousei  管理人   投稿数: 4

文中に《軍人慰安婦と成る女子挺身隊に徴用される》とありますが、「軍人慰安婦」と「女子挺身隊」とは全く別のものと認識しています。

韓国ではこの混同が通例と聞きますが、戦後の混乱で、事実とは違う風評が定着してしまったようです。

最近、両国が共同で歴史認識の調査をすることが決ったので、正しい事実関係が明白にされることを願っています。

なお、日本では「軍人慰安婦」ではなくて「従軍慰安婦」と呼ばれています。
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