浜で育った松の木 『限秒』より
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浜で育った松の木 『限秒』より (夏子, 2005/8/1 23:04)
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その2 ★ 諏訪の大松 ★ (夏子, 2005/8/3 16:00)
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その3 ★ 遊ぶ浜っ子 ★ (夏子, 2005/8/5 21:17)
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その4 ★ 浜のかいこさん ★ (夏子, 2005/8/6 16:27)
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その5 ★ 本買い ★ (夏子, 2005/8/7 23:08)
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その6 ★ 地引きあみ ★ (夏子, 2005/8/10 15:45)
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その7 ★ 通学六里 ★ (夏子, 2005/8/11 14:27)
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その8 ★ 限秒談義 ★ (夏子, 2005/8/15 13:26)
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その9 ★ おふくろの味 ★ (夏子, 2005/8/16 21:33)
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その10 ★ 教生と唱歌指導 ★ (夏子, 2005/8/17 20:43)
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その11 ★ 一つ星から金線 ★ (夏子, 2005/8/19 22:56)
- その12 ★ 新任教員 ★ (夏子, 2005/8/25 10:10)
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その11 ★ 一つ星から金線 ★ (夏子, 2005/8/19 22:56)
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その10 ★ 教生と唱歌指導 ★ (夏子, 2005/8/17 20:43)
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その9 ★ おふくろの味 ★ (夏子, 2005/8/16 21:33)
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その8 ★ 限秒談義 ★ (夏子, 2005/8/15 13:26)
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その7 ★ 通学六里 ★ (夏子, 2005/8/11 14:27)
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その6 ★ 地引きあみ ★ (夏子, 2005/8/10 15:45)
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その5 ★ 本買い ★ (夏子, 2005/8/7 23:08)
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その4 ★ 浜のかいこさん ★ (夏子, 2005/8/6 16:27)
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その3 ★ 遊ぶ浜っ子 ★ (夏子, 2005/8/5 21:17)
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その2 ★ 諏訪の大松 ★ (夏子, 2005/8/3 16:00)
- その13 ★ 学校の松つくり ★ (夏子, 2005/8/29 16:22)
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その14 ★ 育った松のこぼれ話 ★ (最終回) (夏子, 2005/9/2 14:19)
- Re: 浜で育った松の木 『限秒』より (やっすー, 2012/10/2 1:29)
- Re: 浜で育った松の木 『限秒』より (夏子, 2012/10/2 16:40)
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投稿日時 2005/8/1 23:04
夏子
投稿数: 22
これから私が書き込む一連の文書は、聞き書きと言うにも当たらないような発言であることを、
まずはお断り申し上げておきます。
遠縁のおじ松岡忠男が、1979年(昭和54年)77歳のころ刊行した『限秒』(げんびょう
)(非売品)から、主に幼少年期の部分を取り上げ、その中からさらに伝承館にふさわしいと思
われる部分を抜粋《ばっすい=要所の抜書き》しました。
このおじ(生前、松岡のおじさん、と親しく呼んでいましたのでそう言わせて下さい)は長い教
育者としての生活を終えたあとに自らの人生を振り返り、反省資料として、周囲の先輩や友人
などに感謝を込めて捧げられ、且つ残された自らの生命の充実を願う、として刊行し、知人、
親戚《しんせき》等に配られたものす。
なお、ネット上で読んでいただくことを考慮して、適当に空白行を挿入しました。文頭を一字下
げてあるのは原文どおりの段落で、下げてないのは私、夏子が改行をしたものです。
( )内の(前略)(中略)(後略)(夏子注:・・・)は私が書き入れました。
松岡 忠男 1901年(明治34年)生
鳥取県米子市大篠津(おおしのづ)に生まれ育つ
小学校訓導《くんどう=旧制小学校の教員》から始まり、その後教育関係
一筋を歩む
元米子市教育長
========================================
★★★ 浜で育った松の木 ★★★
松岡忠男著『限秒』より抜粋
その1 ★ 生まれ故郷と人々 ★
私達の村は昔この地に沢があって篠《しの=小竹・笹》が多生していたことによって、大篠津と地名ができたときいている。(中略)
村は面積〇、一七七方里《ほうり=平方里=0.177方里は約0.7キロ四方》の小村で、浜(夏子注:弓ヶ浜半島のことを地元では浜という)でも耕地面積狭く、高度の集約《=集めまとめる》的経営によって収入をあげる方向で、海外渡航、県外進出の多いのも必然であった。依《よ》って村人は教育を尊重重視して、純農村ではなく商業的雰囲気《ふんいき》もあった。浜では官衙《かんが=官庁》的施設多く、駅・郵便局・裁判所出張所(登記所)・銀行等一応の施設あり町造りをなしていた。教育については村民あげて関心があり、明治の初期小学校開校には教える教師稀《まれ》のため、藩《はん=明治以前の大名の領地》の塾《じゅく=私設の学舎》出身者を招いたのであったが、この村は村出身者で経営が出来たようである。(中略)
私はささやかな農家に生まれ姉二人があって三人姉弟、男兄弟なく育ったが、父は私が三歳頃渡米したので母が中心で下男《げなん=下働きの男》を雇って農業経営(養蚕《ようさん=蚕を育てまゆを取る》業)をし、祖父は町の名誉職で毎日を費やしていた。
私は小学校二年生頃までは病弱で村の開業医有田、角両医師には随分お世話になったものである。幼い時は牛乳と肝油《かんゆ=ビタミンA.Dを含む製剤》がきらいで母からよく叱《しか》られた。今は老婆になっている姉たちがお前の薬取りに毎日行ったものだと話してくれると感謝の念がわき起こってくる。
家に男兄弟がないことはもの淋しいものだ。従って従兄弟《いとこ》あたりは兄弟つき合いで、懐かしかった。私は学校が休みになると必ず従兄弟の家(島根県揖屋《いや》)を往来したもので二、三日位泊まって何かと指導を受けたものであった。ちょうど年令が私より二つ三つ上であったから自然弟気分でつきまとった。
従兄弟の一人に大変盆栽《ぼんさい=鉢で植物を栽培し樹形を整える》好きなのがいて、よく苗木をくれて育て方の指導を受けた。現在まで下手な盆栽いじりでもやっていられるのはこの従兄弟のお陰だ。男の兄弟は大切だ。「男兄弟があったら・・・・」私は今もなお思うのである。(後略)
まずはお断り申し上げておきます。
遠縁のおじ松岡忠男が、1979年(昭和54年)77歳のころ刊行した『限秒』(げんびょう
)(非売品)から、主に幼少年期の部分を取り上げ、その中からさらに伝承館にふさわしいと思
われる部分を抜粋《ばっすい=要所の抜書き》しました。
このおじ(生前、松岡のおじさん、と親しく呼んでいましたのでそう言わせて下さい)は長い教
育者としての生活を終えたあとに自らの人生を振り返り、反省資料として、周囲の先輩や友人
などに感謝を込めて捧げられ、且つ残された自らの生命の充実を願う、として刊行し、知人、
親戚《しんせき》等に配られたものす。
なお、ネット上で読んでいただくことを考慮して、適当に空白行を挿入しました。文頭を一字下
げてあるのは原文どおりの段落で、下げてないのは私、夏子が改行をしたものです。
( )内の(前略)(中略)(後略)(夏子注:・・・)は私が書き入れました。
松岡 忠男 1901年(明治34年)生
鳥取県米子市大篠津(おおしのづ)に生まれ育つ
小学校訓導《くんどう=旧制小学校の教員》から始まり、その後教育関係
一筋を歩む
元米子市教育長
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★★★ 浜で育った松の木 ★★★
松岡忠男著『限秒』より抜粋
その1 ★ 生まれ故郷と人々 ★
私達の村は昔この地に沢があって篠《しの=小竹・笹》が多生していたことによって、大篠津と地名ができたときいている。(中略)
村は面積〇、一七七方里《ほうり=平方里=0.177方里は約0.7キロ四方》の小村で、浜(夏子注:弓ヶ浜半島のことを地元では浜という)でも耕地面積狭く、高度の集約《=集めまとめる》的経営によって収入をあげる方向で、海外渡航、県外進出の多いのも必然であった。依《よ》って村人は教育を尊重重視して、純農村ではなく商業的雰囲気《ふんいき》もあった。浜では官衙《かんが=官庁》的施設多く、駅・郵便局・裁判所出張所(登記所)・銀行等一応の施設あり町造りをなしていた。教育については村民あげて関心があり、明治の初期小学校開校には教える教師稀《まれ》のため、藩《はん=明治以前の大名の領地》の塾《じゅく=私設の学舎》出身者を招いたのであったが、この村は村出身者で経営が出来たようである。(中略)
私はささやかな農家に生まれ姉二人があって三人姉弟、男兄弟なく育ったが、父は私が三歳頃渡米したので母が中心で下男《げなん=下働きの男》を雇って農業経営(養蚕《ようさん=蚕を育てまゆを取る》業)をし、祖父は町の名誉職で毎日を費やしていた。
私は小学校二年生頃までは病弱で村の開業医有田、角両医師には随分お世話になったものである。幼い時は牛乳と肝油《かんゆ=ビタミンA.Dを含む製剤》がきらいで母からよく叱《しか》られた。今は老婆になっている姉たちがお前の薬取りに毎日行ったものだと話してくれると感謝の念がわき起こってくる。
家に男兄弟がないことはもの淋しいものだ。従って従兄弟《いとこ》あたりは兄弟つき合いで、懐かしかった。私は学校が休みになると必ず従兄弟の家(島根県揖屋《いや》)を往来したもので二、三日位泊まって何かと指導を受けたものであった。ちょうど年令が私より二つ三つ上であったから自然弟気分でつきまとった。
従兄弟の一人に大変盆栽《ぼんさい=鉢で植物を栽培し樹形を整える》好きなのがいて、よく苗木をくれて育て方の指導を受けた。現在まで下手な盆栽いじりでもやっていられるのはこの従兄弟のお陰だ。男の兄弟は大切だ。「男兄弟があったら・・・・」私は今もなお思うのである。(後略)