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その14 ★ 育った松のこぼれ話 ★ (最終回)

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夏子

通常 その14 ★ 育った松のこぼれ話 ★ (最終回)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/9/2 14:19
夏子  半人前   投稿数: 22
1 小学校低学年時代の遊びの一つ「汽車ごっこ」遊びは、人気のある遊びで暇さえあれば停車場(駅)に行って、汽車の発着状況を見学したものだ。

級友の一人が構内に「しば」が繁って居ったので、秋枯れの「しば」に火をつけた。初めは大したことでなかったものが、風が出て大火となり構内の柵にまで燃え移り子供の手で消すことが出来ず大騒ぎとなり、駅員の応援を得てようやく消し止めた。

私達五人は駅につれられ色々と事情を聴取せられ、米子の管理局に送られることになったが、五人の一人に父親が鉄道員であることがわかり説諭で放免《ほうめん=解き放たれる》となった。学校にこの事が報ぜられば、学力優秀品行方正の池田賞受賞が出来なかったのだが幸いこれも難をのがれた。

当時の同僚は今は既に故人で、私一人が生存している。汽車ごっこの発展は、こんな邪道にまで進行してストップ。


2 鳥取師範入学許可され、いよいよその出発の日が来た。祖父は可愛い孫が出発するので駅まで見送った。発車になると祖父は「学校がつらいと帰って来い」としきりに言った。

折しもその列車には当時の有名校長であった箕蚊屋高等小学校校長松本秀松先生が同車して居られ、その一幕をつぶさに眺め、こんな家族の見送りでは立派な教師になれないと嘆かれた。

後で崎田茂信先生に、大篠津は教育村というが、子供を教育するには一考を要すると諭《さと》されたと聴く。今も身にしみ、松本秀松先生の骨のある教師らしい姿が浮かび恥ずかしい。


3 大正十一年訓導を拝命し、いよいよ教壇に立つ身となった。当時の足立正一校長は余子(夏子注:あまりこ)小学校松篠允先生や境の柳楽さん等と境晋《しん》門会を結成し、境港の真光寺を会場として、京都清水寺管主大西良慶師を招いて仏教講座を開かれ、月一回数ヶ年続いた。

講義教本(原人論、仏説四十二章経、その他)会員一同は熱心に受講した。私は其の後の努力成長がなかったので、平凡な人生行路になった。

大僧正は「静坐養高志」と揮毫《きごう=書画をかくこと》してくれた。今や老師は百何歳の齢にも生き生きと説教に余念なき姿は有難き極みである。


4 東京どまん中、中央区の教育長として活躍した浜田忠治君は小学校の同級生で、交際は今も続く。

彼は小学校を卒業するや大志を抱き上京し、向学の念に燃え努力力行大学を経て区役所に就職した。

たまたま上京すると必ず彼氏を訪れたものだが、最後は銀座裏を散歩、浜弁(夏子注:鳥取県西部、弓ヶ浜半島の方言)そのまま語り続けた。同席していた者ども何のことやら英語なら多少わかるけど、浜弁は絶対他人のものにならず、談は益々《ますます》快調、二人で一夜をあかしたものだ。(中略)

私も米子の教育長をやらされ、NHK、山陰放送のマイクに立つ機会を得て標準語でやったつもりが全く浜弁でものにならなかった。浜っ子は何処《どこ》までも浜っ子で、下手な東京弁を止めて、純粋な浜弁が人間らしいことをさとった。

浜の松は白砂青松に育つことが意義がある。

 松岡忠男 著  『限秒』より「浜で育った松の木」 終わり

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