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その7 ★ 通学六里 ★

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夏子

通常 その7 ★ 通学六里 ★

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/11 14:27
夏子  半人前   投稿数: 22
 小学校六年の担任は堀江勝胤先生といって鳥師(鳥取師範《=教員養成学校》)新卒の先生で単身赴任せられた。学生時代は柔道の猛者《もさ》で境(夏子注:現在の境港市)の金畑誠一先生はよきライバルで、師範学校の重鎮《じゅうちん=一方のかしら》ときく。酒豪家でそれに音楽家で当時立派なオルガン所持というハイカラな先生であった。

 この先生、体操時間終了後には必ず浜の波打ち際まで(片道約一キロ)往復を走らせ、採点表を作って記録して走ることを奨励《しょうれい=すすめ励ます》せられた。同級生の安田忠久君(この人は体格抜群、ジャイアントという異名の持ち主)と競うけど、どうしても彼に勝つことは出来ず、残念ながら二位にとどまるを得なかったこの行事の印象は深い。

 中学(夏子注:旧制米子中学/現米子東高)に入学すると私達の先輩に安田友明、安田義憲、本池栄、榊原精三、安田啓治等の諸兄が通学していたが、総て徒歩で片道二時間位要していたようだ。その慣例《かんれい=ならわし》に従って新入生も徒歩通学、雨の日も風の日もやらねばならぬ毎日の行事だった。

もしや時間に間に合わぬと見たときは走らねばならぬ。遅刻すれば成績総合点より一回につき二点減点という厳重なる規則があり、生徒達は容易に遅刻も出来ず休めず、成績のよくない私達には一大痛手で、よく頑張って横着をいやしめ健康を願ったものだ。

 中学一年の校内マラソン(約十二キロ)大会が行われこれに参加した。出発四キロ地点までは第一集団で走って居ったが、ちょっとスピードを出して見たところ、他生徒と差が大きくなり先頭にたった。これは作戦のつもりであったが、ついにそのままゴール入りし一着のテープを切った。

それから自信もつき学校のマラソン選手として、幾度か大会に出場した。結局毎日の徒歩通学のたまものと感謝するのである。

それから歩く運動に興味を持つようになった。二・三人の友達と中海(夏子注:鳥取県と島根県の県境にあり、弓ヶ浜半島と島根半島に囲まれた湖)を一周して脚を鍛え、又は日野路を通って、四十曲峠を越えて岡山に出たり、四国・九州まで脚をのばして歩く等全く歩く想い出は水戸黄門さんに続くであろう。

 子等は走る!

 私だけが走ったのではなく、浜出身は大体よく走ったものだ。浜の小学校は砂でボクボクザラザラ、土を入れないそのままの運動場が多く、脚力が強くなければ走られぬのであった。素足で砂浜を走り通すことは浜っ子は誰もがやらねばならなかったことだ。それが土が入れられアスファルトとなるにつれ段々脚は弱くなるらしい。

 大正中頃から昭和初期は陸上競技の盛んになった頃で、松江の山陰オリンピック大会を始め、各地で陸上競技大会が開催された。

特に当時渡小学校、富益小学校の選手はどこの大会でも立派な成績を残している。(中略)浜の子はよく走ったものだ。


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