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その2 ★ 諏訪の大松 ★

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夏子

通常 その2 ★ 諏訪の大松 ★

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/3 16:00
夏子  半人前   投稿数: 22
菊花薫る十一月二日は郷里氏神さんの秋祭、その翌日三日は天長節《明治天皇誕生を祝う日》で学校では拝賀式が行われ、天長節の歌を奉唱《ほうしょう=つつしんで歌う》し祝賀したものである。これは明治時代の一風景で、当時(明治四十年頃)は小学校が尋常科四年制度《=旧制小学校》から六年制度となった頃で、私は六年制度になってからの入学生である。

 村の小学校は氏神さんの門前に位置し、何時でも神社境内で遊んで鐘が鳴ると教室に入ったものだから学校の敷地内に神社があるか、神社境内に学校があるか、どっちかわからない状況で、然《しか》も一年生担任の先生はいつも門脇豊美先生といって、諏訪神社の神主さんであったので益益《ますます》わからぬのが本当であった。

 校舎は三棟からなり一棟は二教室と玄関、それに一棟は職員室と一教室、もう一棟は二教室全部平屋、学級は総て複式《=二つ以上の学年を同クラスにする》、四・五学級のささやかな愛労尋常高等小学校《=尋常小学校に高等科を併設した学校》であった。

高等科は明治三十九年上道(夏子注:アガリミチ)村にあった組合立弓ヶ浜高等小学校から分離しての併置《へいち=同じ所に置く》である。隣りの和田村にはその当時は高等科が設置してなかったので、和田村からも入学して来る高等科の生徒が幾名かあった。

 私は明治四十一年四月の小学校入学であるが、その前年即ち明治四十年五月 大正天皇が皇太子の当時天皇の名代《みょうだい=代理》として山陰に行啓《ぎょうけい=皇后・皇太子等が外出されること》になられた。山陰では初めての行啓であったから県民は米子・鳥取・倉吉にそれぞれ御宿泊所を建て其他《そのた》お迎えの準備におこたりなかった。

先ず殿下《=皇太子》は軍艦「鹿島」に搭乗《とうじょう》されて舞鶴港をご出発、十五日境港にご上陸なされ、公式鹵簿(夏子注:ロボ=天子の行列)で外浜街道をご通過、米子の錦公園今はなき鳳翔閣《ほうしょうかく》に成られ《=おいでになり》御宿泊になった。

境港より順路の途中愛労小学校で小憩《しょうけい=少しの休憩》遊ばされ、その際特別にご真影《ごしんえい=天皇のお写真》を下賜相成った《かしあいなった=下したまわった》と聴く。当時由緒《ゆいしょ》ある学校として児童達は誇りを持って勉学に励んだのであった。これを記念するため弓浜南部の各小学校で連合して運動会が催され出場した記憶がある。

 担任の門脇先生は諏訪神社の大松を指さして、名誉ある学校だ。生徒だ。とあの大松のように大きくなれ、そして皆から尊敬される人となれと教えられた。時々大松の下に行って大空を仰ぎ、その偉大なる姿を敬慕したものだ。

私達の小学校時代は勿論《もちろん》、先年迄三本で森をなして、野鳥の巣、洞穴《どうけつ》には大きな「コーモリ」などが巣作り、何処《どこ》からでも望められて浜の漁夫達は沖からの目標にして居ったものだが、樹齢は詳らか《つまびらか=くわしい》でないが何百年も村の人達に何か教訓を示して呉れたことであろう。

それがお宮の西方が航空隊の基地(夏子注:現在の米子空港で、自衛隊の基地でもある)となり、飛行するに邪魔になるということで切りたおされた。その思い出は痛ましい。

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