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私の生家「赤壁の家」その3

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通常 私の生家「赤壁の家」その3

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/1/10 19:42
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 蔵は大部分が米倉であった。小作人たちが夥《おびただ》しい年貢米《ねんぐまい》を荷車に載せて運び込むので、街道から米倉まで続く石畳には今でも未だ轍の跡《わだちのあと=道に残った車輪の跡》がハッキリと残っている。その米俵を表門の傍らにある「取立場」という検査所に入れ、俵を箆《へら》でグサッと突き刺して米粒の質を調べるのであるが、合格した良い米は玄関の前にある「十番」という、ここだけ白壁の大きな蔵に納められた。広い蔵の中に整然と堆《うずたか》く積まれた俵の山の間を、ここでもまた三匹の子猫がよく飛び回って遊んだものである。

 蔵はまた、砦《とりで=要塞》の役目も兼ねていた。江戸時代に農民一揆が起こるとまず狙《ねら》われるのが、年貢米を納めた神津家の米倉だった。だから、母屋のほうにはいざという時は何時でも持ち出せるよう、長押《なげし=日本建築で柱と柱をつなぐ横木》に刺股《さすまた=木製の棒に金具をつけ人を押さえる江戸時代の武器》などが掛けてあり、それは今でも置いてある。

 それでも、天明四《1784》年には農民一揆に襲われ、大被害を蒙《こうむ》っている。この年、浅間山の大噴火があり、その火山灰が天高く舞い上がって太陽の光を遮《さえぎ》ったために気候が寒冷化し、全国的な大凶作となった。ことに上州は降灰のための大被害にあった。もともと畑作地帯の多い上州では信州米に依存していたのであるが、凶作のため飢饉《ききん》に迫られた上州の民衆は一揆となって内山峠を越えて、通路の神津家を真っ先に襲った。土蔵から米俵を担ぎ出して大掛かりな炊き出しをさせた上、略奪と破壊をほしいままにした。

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