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父と島崎藤村・その2

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通常 父と島崎藤村・その2

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/1/18 19:17
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
  考古学と禅《=禅宗》は、父の人生では既に趣味と言えない域に達していたが、もう一つやはり病膏盲《やまいこうこう=どうしようもないほど物事に熱中すること》に近い状態だったのが俳句の世界であった。父の自伝を見ると、「自分が俳句を始めたのは慶応義塾の頃からで、俳号を雨村と定め、友人と句の遣り取りなどをして居った」とある。明治四十五《1912》年三月渡辺水巴《すいは》氏の門を叩き、翌年鎌倉に転地した折、水巴氏の紹介で高浜虚子氏を由比ヶ浜に訪ね、大正二《1913》年十月には水巴、虚子両氏を信州に招き、それから親交を重ねていくことになる。

 虚子氏は戦時中小諸に疎開したので、父を訪ねてその後も志賀に来てくださったが、昭和二十一《1946》年に父が亡くなった時は、近在のお弟子さんと一緒にご弔問下さり、父を偲《しの》んで「枕頭《ちんとう》句会」を催してくださった。私も参会した。

 父の句作は生涯で二千余句となっているが、それを整理し母の句二百も加えて仮綴じ《かりとじ》にしたものを「双鶴集」と名付けて、虚子先生の序文も貰《もら》い、句集を発行することを父は長い間念願にしていた。然し戦中、戦後父の生存中は誰も皆その日その日を生き抜くのに精一杯で、とても句集の発行どころではなかった。それで昭和四十二《1967》年六月、父の二十三回忌を営むに当たり、父の俳句百五十句と母五十五句に日記と遺稿を加えて「後凋」と改名した追悼録《ついとうろく》を子供達一同で出版した。父にも多分満足してもらうことが出来ただろうと思っている。

 俳句についで、趣味として父が打ち込んでいたのは篆刻《てんこく=木や石、金属などに印を掘る》と鎌倉彫《かまくらぼり=素地に彫刻を施して漆塗りで仕上げる漆器》だった。篆刻の方は明治四十三《1910》年、二十九歳の頃から始めたというから長い年季の入った趣味であるが、私の記憶にある限りでも晩年に至るまで、先の鋭く尖《とが》った細い木彫刀を駆使して刻んだ大小様々な印形はかなりの数に上っている。印材を押さえる特殊な形をした木型に挟んで細かく彫っていく父の真剣な眼差しを、心配しながら覗《のぞ》き込んでいた覚えがある。

 然し、初めのうちは趣味で始まった篆刻も次第に自己流では収まらなくなったのであろう、大正十《1921》年からは専門家の関野香雲師の門を叩《たた》き指導を仰ぐことになった。そして本格的に刻まれるようになった印形、印鑑は次第に評価されて広く使われるようになり、宗演老師や大眉老師が晩年に書かれた揮毫《きごう=書画を書くこと》や大きな掛け軸、屏風《びょうぶ》、扁額《へんがく=細長い額》などの落款《らっかん=署名や印》を見ると、その大部分が父の作品である。
 関野香雲師への師事は、篆刻だけに止まっていなかった。木彫《もくちょう》や鎌倉彫などにも広がり、観音《=観世音菩薩像》、笏《しゃく=貴族が正装の時、右手に持つ木製の板切れ》、掛け軸、横額、小棚、机など、私の知っているだけでも沢山の作品があるが、いずれも素人の作とは見えない職人並みの仕事である。台面の四周と脚の部分に複雑な唐草模様を浮彫にした格調高い机は、いまも軽井沢の別荘で客間に納まり異彩を放っている。

 さらにもう一つ、謡曲があった。上田に在住の頃熱中していて、銀行から帰ると座敷の床の間の前へ見台《けんだい=書見台》を引っ張り出し、その上に和綴じ《わとじ=日本風の本の綴じ方》の本を関《ひら》いて載せ、朗々たる声で謡い出した。よく徹《とお》るなかなかよい声で、母も一緒に声を合わせることがあった。

 そのほか、子供達を連れて昆虫採集に行ったり、絵はがきやマッチのレッテル蒐集《しゅうしゅう》などにも手を出しているし、兎《と》にも角にも趣味の広い人で、まさにディレッタントというに相応《ふさわ》しいが、私もよく友達からの悪口にそう言われるのを聞くたびに、それは親譲りの性格だから仕方ない、と十分自分で納得できるだけの自信を持っている。

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