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父と島崎藤村・その3

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通常 父と島崎藤村・その3

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/1/19 17:18
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 さて、父が志賀で考古学の土器発掘を始めたのは二十一歳の時だったが、その翌年、小諸町の名門校小諸義塾の木村熊二先生が赤壁の家に来訪された。そしてその時のお誘いで明治三十七年三月父は小諸義塾を訪ね、塾長から教員の島崎藤村を紹介された。その日は小諸義塾の卒業式だったが、式後父は藤村に誘われて近郷の素封家を訪ねて懇談の時を過ごした。

 この頃、小諸義塾は経営が極めて困難な上、日露戦争《日本とロシアの戦争、1904~5年》が始まって小諸町からの補助金が三百円削減されることになってしまった。藤村は二十五円の薄給だったうえ母校明治学院から六十円出すので来てくれと言われていたので、いよいよ辞任を決意して上京しようとしていた。ところが藤村の実力と生徒間の人気を評価する同僚の職員一同は自分たちの月給二割削減を申し合わせて、島崎先生の留任運動を起こした。
 父は、この美談に感動するとともに、小諸町のやり方に憤慨した。そして職員の割く月額の一部の助けにもと、五十円寄付することを木村塾長に申し出た。この話を聞いて、多感な詩人藤村が感激したことは想像に難くない。こうして藤村は小諸義塾に一応留まることになり、このときから父と藤村とは、生涯を通した深い友情で結ばれてゆくことになったのである。

 島崎藤村が初めて志賀に赤壁の家を訪ねて来たのは、明治三十七《1904》年十月十五日だった。父の招きで木村熊二、丸山晩霞、立川雲平の三氏とともに二泊し、裏山で松茸《まつたけ》狩りをしている。

 家の裏にある正住寺山は、樹齢百年を超す松が何百本と生え茂っている松の山だったから、秋になると昔から良質の松茸がいくらでも採れた。山の中腹には番小屋があって、番人が目を光らせているが、石の寵《かまど?》を築いてあって、お客様が来ると採りたての松茸を焼いてご馳走《ちそう》する。大勢の人たちが集まると、それが松茸狩りになるのである。


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