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私の生家「赤壁の家」その7

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通常 私の生家「赤壁の家」その7

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/1/16 20:22
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 昭和十九《1944》年十二月、私は海軍軍医学校を卒業していよいよ任地に赴任するというとき、最後の挨拶《あいさつ》に志賀の家に帰してもらうことが出来た。その時、父はこの権現さまの前に私を連れて行った。そして「一番」から持ってきた日本刀を私の手に渡すと、じっと私を見つめて、ひと言、「これで、五人分死んでこい」といった。

 私の兄弟は十人であるが、男は七人だった。
 そのうち上の二人は夭折《ようせつ=若死に》して成人したのは五人だったが、三人の兄達は皆肺結核で、徴兵検査《ちょうへいけんさ=兵役義務に服するための身体検査》は全部丙種《へいしゅ=徴兵検査の結果 甲種、第一乙種、第2乙種、丙種に分けられた》。弟は小児麻疹《ましん》で人並みの男ではない。赤壁の家からは誰も兵隊になったものがいなかったのである。敗戦を前に国中が戦況に一喜一憂し、一人前の男は皆兵隊に取られて命を国に捧げる美談が喧《やかま》しく讃《たた》えられていた時に、「赤壁さんでは、だれも……」と後ろ指を差されているような気持ちで、父はどんなにか肩身の狭い思いをしていたのだろうと思う。

 それが、この「五人分死んでこい」という激しい言葉になったのだと思うが、この日本刀は、出征用の軍刀に仕込むとき、刀屋から「旦那、これは勿体《もったい》ないですね」と言われたように、「関の兼永」の名刀だった。家宝の一つにも数えられるような大事な刀と一緒に私を戦場に送り出し、死んでこいというのだから、国を守る使命を神津家の誇りにかけて私に托《たく》そうとした父の気迫には、胸をえぐるような深い感動を禁ずることが出来なかった。

 しかしこれは、結局一人もブッタ切るのには使うことなく、敗戦後苦労して持ち帰ったが、占領軍の刀剣類供出命令であっさりアメリカに持って行かれてしまった。

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