父と島崎藤村・その1
投稿ツリー
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私の生家「赤壁の家」その1 (編集者, 2007/1/9 9:33)
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私の生家「赤壁の家」その2 (編集者, 2007/1/9 19:51)
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私の生家「赤壁の家」その3 (編集者, 2007/1/10 19:42)
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私の生家「赤壁の家」その4 (編集者, 2007/1/11 22:02)
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私の生家「赤壁の家」その5 (編集者, 2007/1/13 21:04)
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私の生家「赤壁の家」その6 (編集者, 2007/1/14 22:09)
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私の生家「赤壁の家」その7 (編集者, 2007/1/16 20:22)
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父と島崎藤村・その1 (編集者, 2007/1/17 19:07)
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父と島崎藤村・その2 (編集者, 2007/1/18 19:17)
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父と島崎藤村・その3 (編集者, 2007/1/19 17:18)
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父と島崎藤村・その4 (編集者, 2007/1/20 19:13)
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父と島崎藤村・その5 (編集者, 2007/1/21 20:05)
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父と島崎藤村・その6 (編集者, 2007/1/22 19:50)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298

私の出征に当たり、激しい言葉を浴びせた父猛は、父自身がまた波瀾万丈《はらんばんじょう=波の起伏のように変化が激しいさま》とも言える生涯を送った人だった。今その人生を彩る多才な足跡を辿《たど》ってみると、不肖の息子《ふしょうのむすこ=父に似ない愚かな息子》としてはなにか賛嘆に似た思いを禁ずることが出来ない。
明治二十五年、曾祖父《そうそふ》包重の遺言により十一歳で第十二代目の家督を相続した父は、祖父禎次郎の計らいで、勉学のため直ちに慶応義塾《現慶応大学》幼稚舎に入学させられた。当時の教育界では福沢諭吉の声望が高く、特に私学を選ぶ素封家《そほうか=財産家》達の子弟は多くが慶応義塾に送り込まれた。神津各家の若い当主達も藤平、邦太郎などが既に東京・三田で学ぶ先輩となっていた。
慶応義塾普通科を卒業した明治三十二《1899》年、母てうと結婚、明治四十《1907》年から志賀銀行に勤務、大正六《1917》年頭取となり、佐久地方に段々範囲を広げて大正十二《1923》年、中信銀行頭取となったがさらに全県的な拡張を図り、昭和三《1928》年本店を上田に移して信濃銀行を設立した。
その間、慶応義塾で福沢諭吉先生に品川の古墳跡地に連れて行かれ、じかに土器の発掘を手伝わされた体験を活かして、志賀に帰るとその近辺の古墳に目をつけ、多忙な公務の合間に土器の発掘を始めている。それはまた直接土着の強い郷土愛にもつながっていったのだろうと思うが、村の仕事でもいろいろな役職を引き受けている。二十七歳で志賀村農会長となり、二十八歳から二宮尊徳《にのみやそんとく=江戸末期の篤農家、605ヶ町村を復興した人》の報徳思想を広めて報徳会の事業推進を始め、二十九歳で村会議員、三十歳で東信明徳会の会長を引き受け、三十六歳で志賀村の村長となっている。
明治二十五年、曾祖父《そうそふ》包重の遺言により十一歳で第十二代目の家督を相続した父は、祖父禎次郎の計らいで、勉学のため直ちに慶応義塾《現慶応大学》幼稚舎に入学させられた。当時の教育界では福沢諭吉の声望が高く、特に私学を選ぶ素封家《そほうか=財産家》達の子弟は多くが慶応義塾に送り込まれた。神津各家の若い当主達も藤平、邦太郎などが既に東京・三田で学ぶ先輩となっていた。
慶応義塾普通科を卒業した明治三十二《1899》年、母てうと結婚、明治四十《1907》年から志賀銀行に勤務、大正六《1917》年頭取となり、佐久地方に段々範囲を広げて大正十二《1923》年、中信銀行頭取となったがさらに全県的な拡張を図り、昭和三《1928》年本店を上田に移して信濃銀行を設立した。
その間、慶応義塾で福沢諭吉先生に品川の古墳跡地に連れて行かれ、じかに土器の発掘を手伝わされた体験を活かして、志賀に帰るとその近辺の古墳に目をつけ、多忙な公務の合間に土器の発掘を始めている。それはまた直接土着の強い郷土愛にもつながっていったのだろうと思うが、村の仕事でもいろいろな役職を引き受けている。二十七歳で志賀村農会長となり、二十八歳から二宮尊徳《にのみやそんとく=江戸末期の篤農家、605ヶ町村を復興した人》の報徳思想を広めて報徳会の事業推進を始め、二十九歳で村会議員、三十歳で東信明徳会の会長を引き受け、三十六歳で志賀村の村長となっている。