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慰安婦よし子 (雨森康男)

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通常 慰安婦よし子 (雨森康男)

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/3/9 9:00
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 慰安婦よし子 (1) 93/09/02 22:01

 僕たちの中隊に転属者3名を出せと命令が来た、人事係曹長が選んだ3名は、前科3犯のHと被差別部落出身のM、それに思想犯と見なされていた僕の3名だった。
 転属何名を出せと命令が来ると、優秀な兵士は絶対に出さない、一番始末に困るのから放り出す、これは何処でも同じ事、まあ体のいいトランプのババ抜きである。
 始末に困ると言ってもこれは当時の社会の偏見に基ずく故の無い差別です。転属先は満州の牡丹江、厳冬一月の事です。召集されて未だ6ケ月、一つ星の新兵、一度でも軍隊に行った事のある人なら、星一つで転属になった奴の惨めさはよく判るでしよう。 転属してすぐ星が二つになったけれど、初年兵に変わりはない、徹底的にしごかれ、その場にぶっ倒れて仕舞いたいほど眠りたかった。
 3ケ月は外出も無い、そしてやっと始めての外出が許された朝、外出点呼が終っていよいよ営門を出る時召集兵のN上等兵が僕に声をかけた。
 「おい、おまえ何処に行くんだ」
 「はあー、映画を観に行きます」と僕は答えた、これは嘘ではなく、ゆっくり眠りたかったら映画館が一番だぜ、と言う古兵に教わったからだ、
 「映画?まだ始まっちゃいないぜ、いいとこへ連れてってやるからついて来い」N上等兵は中隊一の助平と言われてる奴、彼の言ういいとこが何処なのか凡そ《およそ》の見当はつく、かと言ってもしいやだなんて言おうものならどんな事になるか、僕は渋々N上等兵の後に付いて行った。彼の連れて行ったのは案の定ピーヤだったピーヤって判りますね、兵隊は慰安婦の居る家をそう呼んだ。(つゞく)
                           サラテイ

 慰安婦よし子(2) 93/09/03 12:29

 『こいつにいい子を世話してやれ』N上等兵は千代子と言う相方に言った、いやも応もない、こうなったら成行きに委《まか》せるしかない、それで僕は『ハムン出身の子が居たらその子にしてくれ』と頼んだ、
 『ハムン?』千代子は妙な顔をして奥へ行った、ハムンと言うのは僕が4才から大学に入るまで住んでいた北朝鮮の街だ、待つほどもなく千代子が女の子を連れて戻ってきた。
 その子の部屋は猫しか通れないような小さな窓がある4畳半くらいのオンドル部屋で、薄っぺらな布団が敷いてあった。雀斑《そばかす》の丸っこい顔、少し上向きの可愛いらしい鼻、泣いているような潤《うる》んだ瞳、その子はろくに僕の顔も見ないでブラウすのボタンを外し始めた、
 『チョコム カマイカラヤ(ちょっと待って)』と僕は言った、その子は脱ぎかけたブラウスを胸に抱き、蒼白になった顔を始めて僕に見せ、『タンシム ヌグヤ!(あんた 何者!)』と叫んだ、僕は女の怒りに満ちた顔を見た時、何が彼女をこんなに怒らせたか、直ぐに察した、当時日本軍に志願兵として朝鮮の若者が参加していた、彼女は僕をてっきりそんな志願兵の一人で、同胞である自分を侮辱《ぶじょく》しに来たと思ったのだ。
  『ナガラヤ!(出て行け!)』女が再び叫んだ、『待ってくれ…』僕は立ちすくんでいる女を座らせ、N上等兵に無理やり連れられて来てからのいきさつを話した、『俺は君と寝ようとは思っていない、頼むから時間までここで眠らせてくれ』半信半疑《はんしんはんぎ》で身を固くしていた女も、やっと事情を呑込んだらしく、『判ったわ、時間になったら起こして上げる』と言って部屋を出て行った。

 そんな事があってから、僕は外出すると真っ先に慰安所に行って眠った。女は店では日本名をよし子と名乗っていた、本名はキム・ヨンジャ、これを愛称で呼ぶとヨンスガァとなる。
 よし子はぼつぼつ身の上話をするようになった。幼い時に母親を亡くし、残された弟妹と、結核を病んだ呑んだくれの父親を抱え、16才のよし子が紡績会社で働く僅《わず》か30銭の日給では、この一家を支えてゆくのはとても出来ない、「満州で働けば今の5倍の賃金が貰える、支度金も15円出そう」と言う言葉に騙《だま》され、その男に犯された上慰安所に売り飛ばされた。
 それから2年身も心もずたずたになって、『それでも未だ生きている自分が恨《うら》めしい…』とよし子は哭《な》いた。僕にどんな慰めの言葉があるだろう、でもよし子は言った、『あんたと故郷の話が出来るだけでもいい…』と、僕は一度もよし子と寝てはいない、その時のよし子は僕にはまるで妹のような存在だった。   (つゞく)


 慰安婦よし子(3) 93/09/05 09:34

 僕は字が上手だと言う事で(無論他の兵隊に比べて)時々事務室のガリ版《=謄写版》書きに使役に使われた、その時もそんな使役に行っていた、ふと見ると曹長のデスクに郵便物が積んである、僕は入隊以来、僕宛の郵便物は必ず検閲を受ける事になっていた。しかも隊長室に呼ばれ、隊長の前で声を上げて読まなければならない、その上訳の判らない精神訓話を聞かされ、やっと解放される。  
 僕はそれが厭で、郵便物の中から自分宛の手紙を見つけ、そっとポケットにしまった。
 夕食の食缶あげから帰った僕に、班長が隊長室に行けと言う、厭いや》な予感がして渋々隊長室に行くと、そこには隊長と人事係曹長が居た。
  『手紙を出せ』僕は曹長にポケットの手紙を渡した、曹長の拳《こぶし》が僕の頬に飛び、僕の躯《からだ》はドアまですっ飛んだ、倒れている僕の躯を曹長の革のスリッパが襲った『その手紙を読んでみろ』 手紙は弟からのものだった、手紙の上に僕の鼻血がポタポタ落ちる、手紙の内容は、特高警察が僕の蔵書を総て押収していったと言うものだつた、「大事にしていたプドウキンもエイゼンシュタインも持って行かれた」としてあった。
  『貴様はアカか』 隊長が憎々し気に吐き出すように言って、曹長に僕を3日間の営倉に処するよう命じた。
 営倉が何か知らない人もいると思います、早く言えば留置場です。営倉入りをする時は、襟の階級章をはぎ取られ、ボタンは総て取られ、袴下の紐も切られ、朝から夜まで板張りの床に正座していなければならない。少しでも姿勢を崩すと、見張りの衛兵《=番兵》に殴られた。牡丹江の冬はマイナス30度、営倉の中に暖房などありはしない、たつた2枚の毛布でマイナス20度の寒気に堪えなければならないとても眠る事など出来はしない。
  営倉入りして2日目僕は一日早く出された、妙だなと思ったらなんのことはない通称自殺部隊と呼ばれている「海上機動第2旅団」への転属だった。
 無論僕一人ではなく、聯隊から数十人が転属になった。転属者は特別に外出を許されて街に出て行った、残されたのは僕だけ、牡丹江《=牡丹江中流に臨む工業都市》に未練はないけれど、よし子にだけは”さよなら”を言いたかった。思い余った僕は小隊長のK小尉に外出を頼みに行くと、小尉は自分の権限であっさり許可してくれた。
  僕はよし子の居る慰安所に飛んで行った、転属と聞いてよし子は声を上げて哭いた、僕はそんなよし子に言うべき言葉もなかった、特別許可の時間は僅か1時間だ、長居は出来ない、僕は”さよなら”を言って直立不動の姿勢でよし子に軍隊式の敬礼をしたね、よし子は僕の胸に縋《すが》って叫んだ、『オディエカッソト アンチュゴヨ(何処へ行っても死なないで!)。

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編集者 (代理投稿)

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