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ロザリーナ (雨森康男)

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通常 ロザリーナ (雨森康男)

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/3/10 8:50
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 ロザリーナ(1) 93/09/09 10:45

 雷撃を受けた船は、そこから一番近いフィリッピンのミンダナオ港に命からがら逃げ込んだ。僕たちの中隊は港から4・5キロ入った飛行場の近くに駐屯《=軍隊がある土地にとどまること》し、我々を迎えに来る軍艦を待った。 飛行場の周囲に駐屯している部隊からは、港の司令部まで毎日命令受領の伝令が出ていた、むろん僕の中隊からも伝令が出ていた駐屯地から港に行く道の半分が椰子《やし》林を抜ける一本道で、ここで港から帰隊する伝令がしばしばゲリラに襲われた。
 日本軍がフィリッピンを占領したと言ってもそれは海岸線からほんの2キロ位を支配しているだけで、そこから先はアメリカ軍の将校に指揮されたゲリラに押えられていた。大本営の言う「勘定作戦」とはこの事を言うのだ。
 ゲリラは当然命令文書を持った兵隊を狙《ねら》う、それも白昼堂々と襲って来る。この種の任務は大抵の場合下士官か、下士官勤務の兵長あたりと相場は決まっているのに、なぜか僕にそのお鉢が回ってきた。冗談じゃない、それでなくったっていつも割を食ってる一等兵、今度は一番危険な任務を押し付けられた。と言って反抗は出来ない、仕方なくびくびくもので命令受領に出かけた。
 行きはよいよい帰りは怖いこの道の途中に、ポツンと一軒のコーヒを飲ませる店があった、無類のコーヒー好きの僕は司令部からの帰り道に必ずこの店に寄ることにしていた。店と言ってもニッパ椰子の葉を葺《ふ》いただけの小屋で、16・7の娘が一人店番をしていた。コーヒーを注文すると、娘はテーブルにコーヒーカップをガチャンと投げ出すように置いて、カウンターの向こうから白い目で僕を見ていた。
 フィリッピン人に日本兵が嫌われているのは、ここに上陸した時から聞かされていたから、別に娘の態度にも驚きはしなかった。僕はコーヒーを飲み終ると、石川伍長から借りてきた南部式拳銃の弾倉に弾を篭《こ》め、安全装置を外して拳銃を右手に、店から駐屯地に向かった。
 それから3日ほど経ったある日、僕は初めて娘に声をかけてみた、『What’s your name?』コーヒーカップを投げ出してくるっとカウンターに歩きかけた娘が、驚いたような表情で振り返った、娘は僕に向かって立ち、しげしげと僕を見つめた、『Can you speak English?』フィリッピン人にとって日本兵は鬼である、その鬼が英語を喋《しゃべ》った、娘にとってこれは思いもかけないことなのだ。
 店には客は僕一人、娘は僕のテーブルに座って不思議なものでも見るように僕を観察していた、娘は名前をロザリーナと言った、この広大な椰子林は彼女の父親の所有で、椰子のコプラから椰子油を取る工場も経営していると言った。ローザの英語は酷《ひど》いスペイン訛《なま》りがあって参った、でもそれに慣れると会話はスムースに進んだ、要するにFをPに発音し、語尾のerをエルと言えばいい、フィリッピンはピリッピン、ヒフティはピプティ、フアーザーはパーゼルと言う具合いだ。
 それからはローザの店に寄るのが楽しみで、ゲリラの怖さもなんとなく平気になっていた。ある日例のごとくローザとお喋りをして、拳銃に弾を篭めていると、ローザが急に笑い出した、『Never minde』ローザはそう言ってまたひとしきり笑った、僕はその時やっとローザの笑いが判った、そうだったのか、僕もローザと一緒に笑いだしていた。


 ロザリーナ(2) 93/09/14 10:28

 日本軍はフィリッピンを占領したと言っても、それは海岸線からほんの2・3キロを押さえているに過ぎない、そこから先は米軍の将校に指揮されたゲリラの勢力範囲だ、大本営はこれを「勘定作戦」と呼んだ。
 僕は命令受領に出てそれまで一度もゲリラに遭遇した事は無かった、これは偶然だろうか?そこまで考えた時ローザが笑い出した理由がはっきり判った、それで僕もついローザにつられて笑ってしまった。街の人たちとゲリラはいわば表と裏お互いつうつうなのだ、日本軍の動向は市民を通じてゲリラに筒抜けと言う訳けだった。僕は拳銃をケースに戻し、ローザにウインクした、ローザも1・2度うなずいて片目をつむって見せた。
 そんな事があってからローザとは急速に仲良くなった、ローザの父親はスペイン人、母親は福建省出身の中国人、ローザは髪も瞳も黒く、一見東洋人に似ているが、貌立ち《かおだち》はヨーロッパに近かった。ロザリーナ・キュネノーラ、これが彼女のフルネームです。
 ある時ローザに映画を観に行かないかと誘われた、このザンボアンガには映画館が一軒あって、週末にだけ映画が上映されていた。映画館と言ってもローマの円形劇場をうんと小さくしたような屋根もない建物で、布を張っただけのスクリーンが風にはためいている、と言った風情の劇場で、それでも週末になると、腕を組んだカップルが三々五々集まって来た。むろん屋根が無いからマチネーなんて気の利いた興行は出来ない、上映は専ら夜だけ、一等兵の僕に夜間外出など出来っこないからそれは諦めた。
 ザンボアンガで待機すること約2ケ月、突然我々の乗る軍艦「厳島」が入港して来た。中隊の乗艦がすぐに始まった、ローザに別れを告げる暇《ひま》もない。「おい、雨森、貴様彼女に逢いたいだろう、今夜俺と一緒に来い」小隊長の須藤少尉が声をかけてくれた、彼にも別れを言う人がいる、少尉は僕を自転車の後ろに乗せて病院に走った、「貴様はこの自転車に乗って行け、一時間経ったら戻れ」僕は自転車に飛び乗ってローザの家目指してペダルを漕《こ》いだ。「何処に行くの」ローザは不安な顔で尋ねた、軍艦の行き先はむろん軍事機密だ、でも僕はニューギニアだとはつきり言った、「NO!」ローザは激しく首を振って叫んだ、「そんな所に行ったらあなたは死ぬ、私と一緒に逃げて、ゲリラの所に行けば助かるわ、逃げて!」僕は迷った、逃げれば僕は助かるだろう、でも、そのために親兄弟は「逃亡兵」の家族と言う汚名を着せられて、どんなに辛い思いをするか…、しかしこんな考え方がローザに理解出来ようはずもない、「家族が…どうして?」と首をかしげるローザに説明のしようもなく、別れを言った、ローザは僕にここの住所を書いた紙を渡し、もし生きて帰ったらきっと手紙を頂戴と言って泣いた。
 僕はたまらずに表に駆出して自転車に跨《またが》った、「MEMORI COME BACK TO ME!」
 裸足《はだし》で飛び出し、叫んでいるローザを振り切って僕は泪《なみだ》を堪えペダルを踏んだ。


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編集者 (代理投稿)

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