帰還 (雨森康男)
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「戦争を語り継ぐ」 (雨森康男) (編集者, 2007/3/9 8:43)
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「なぜ戦争を書くのか」など (雨森康男) (編集者, 2007/3/9 8:47)
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慰安婦よし子 (雨森康男) (編集者, 2007/3/9 9:00)
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雷 撃 (雨森康男) (編集者, 2007/3/9 9:01)
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ロザリーナ (雨森康男) (編集者, 2007/3/10 8:50)
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地獄への道 (雨森康男) (編集者, 2007/3/11 8:05)
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死神 (雨森康男) (編集者, 2007/3/12 8:30)
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さらばジャングル (雨森康男) (編集者, 2007/3/13 8:22)
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消えた軍隊 (雨森康男) (編集者, 2007/3/14 9:08)
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帰還 (雨森康男) (編集者, 2007/3/15 8:52)
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弟は手榴弾を抱いた (雨森康男) (編集者, 2007/3/16 8:02)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298

帰還(1)93/10/15 14:36
昭和21年5月18日待ちに待った復員船がやって来た。乗船が始まると、オランダ軍の身体検査と所持品が調べられる、書類に類する物は小さな手帳でも取り上げられた。
僕が陸軍の通信用紙に克明に記録した日記も無論没収された、今もあの記録があったらと残念に思う。そればかりではない、彼らは兵隊達の持っている時計から万年筆まで奪った、将校達は腕に5ッも6ッも時計を巻いている、要するにこれは戦利品の積もりなのだ、それでも僕達はとにかく生きて帰れるだけ幸せだった。
全員が乗船すると船はすぐに出港した、僕は甲板の手摺《てすり》にもたれ次第に遠ざかって行くニューギニア大陸に心の中で「さよなら」を言いながら、ボロボロと泪を流していた。
「諸君!君達が戦争に負けたお陰で、日本は今たいへんな食料難である、従ってこの船にも充分な食料が無い、食事は朝と夜の2回乾パンを支給する」。
船長の宣言通り、一回の食事は乾パン5・6粒と塩水のようなスープ、それだけだった、それでも僕達は我慢した、「君達が戦争に負けたお陰で」と言われれば返す言葉も無い、生きて帰れる…食事に文句を言う筋合いでは無い、みんなそう思ってじっと耐えた。
日本に後3・4日となった頃からあちこちで私刑が始まった、復員船に乗るまで統制のために維持されていた旧軍隊の階級も、乗船すると襟の階級章が外され、ここに一切の身分上の差別がなくなった。
階級を笠にやりたい放題をやってきた将校、下士官達に兵隊の復讐が始まったのだ、あれほどそっくり返って威張っていた上官達は、土下座をして涙を流して謝っていた。
船員に聞こえないように低いそしてドスの利いた怒声が響き、肉を打つビシッビシッと言う音が聞こえる。
「君達は何をしている、すぐに止め給え、日本人の恥だぞ」船のサーチライトがリンチの場所を照らし出し、船長のマイクの声が飛んだ、僕は「日本人の恥だ」と言った船長の言葉を、日本の港に入った時、そのまま船長に叩き付けてやりたい出来事が待っていた。
帰還(2) 93/10/16 13:59
昭和21年5月27日、復員船は9日間の航海を終えて名古屋港に入港した。下船は28日と言うことで、その夜は船中泊だ。何もすることもなく、僕達が甲板に出て港の明りを懐かしく見ていた時、数隻の艀《はしけ》が本船に横付けになり、本船から何やら荷物を下ろしている、時間はもう真夜中、こんな時間に仲士が仕事をする筈も無い、何か犯罪の匂いがする。兵隊達はその時やつと艀に下ろしているのが大量の食料だと気付いた。
船員達は僕達に1日12・3粒の乾パンを与え、余剰の食料を横流しして莫大《ばくだい》な利益を上げていたのだ。
「日本人の恥だ!」と偉そうに怒鳴っていた船長も当然グルだ、「お前達が戦争に負けて日本人は食べる物もなくて困っている」と船長は言った。僕は腹が立つより情けなく、暗闇に消えて行く艀を見送っていた。
下船すると僕達に靴下一足分の米と缶詰2ケ、それに未払いの給与300円と故郷までの汽車のキップが渡され放り出された。
後で聞いた話だと、復員兵には新品の軍服と靴、それに毛布が支給されたと言う、むろん僕はそんな物は全く貰《もら》ってはいない、これも担当者が僕達が知らないのを良いことに横流ししたのだ。
僕はボロボロになった軍服に、底革がパックリ口を開けた靴を履いて東京行きの復員列車に乗った。
各駅停車の復員列車はやっと品川に着いた、僕はここで下車して山手線で恵比寿《えびす》駅に降りた、駅の周辺はことごとく焼野原、不思議なもので、こうなるといったい自分の住んでいたのが何処なのか見当もつかない。どうやら捜し当てた家は、石の門を残して完全に焼け落ちていた。
僕には日本に故郷は無い、行くべき当ても無い、呆然《ぼうぜん》と立ちすくんでいる僕にだれ一人振り向く者もいない。僕はトボトボと歩き始めた、「お前は何処へ行く?」。僕のアウトサイダー人生がその時始まった。
サラテイ
昭和21年5月18日待ちに待った復員船がやって来た。乗船が始まると、オランダ軍の身体検査と所持品が調べられる、書類に類する物は小さな手帳でも取り上げられた。
僕が陸軍の通信用紙に克明に記録した日記も無論没収された、今もあの記録があったらと残念に思う。そればかりではない、彼らは兵隊達の持っている時計から万年筆まで奪った、将校達は腕に5ッも6ッも時計を巻いている、要するにこれは戦利品の積もりなのだ、それでも僕達はとにかく生きて帰れるだけ幸せだった。
全員が乗船すると船はすぐに出港した、僕は甲板の手摺《てすり》にもたれ次第に遠ざかって行くニューギニア大陸に心の中で「さよなら」を言いながら、ボロボロと泪を流していた。
「諸君!君達が戦争に負けたお陰で、日本は今たいへんな食料難である、従ってこの船にも充分な食料が無い、食事は朝と夜の2回乾パンを支給する」。
船長の宣言通り、一回の食事は乾パン5・6粒と塩水のようなスープ、それだけだった、それでも僕達は我慢した、「君達が戦争に負けたお陰で」と言われれば返す言葉も無い、生きて帰れる…食事に文句を言う筋合いでは無い、みんなそう思ってじっと耐えた。
日本に後3・4日となった頃からあちこちで私刑が始まった、復員船に乗るまで統制のために維持されていた旧軍隊の階級も、乗船すると襟の階級章が外され、ここに一切の身分上の差別がなくなった。
階級を笠にやりたい放題をやってきた将校、下士官達に兵隊の復讐が始まったのだ、あれほどそっくり返って威張っていた上官達は、土下座をして涙を流して謝っていた。
船員に聞こえないように低いそしてドスの利いた怒声が響き、肉を打つビシッビシッと言う音が聞こえる。
「君達は何をしている、すぐに止め給え、日本人の恥だぞ」船のサーチライトがリンチの場所を照らし出し、船長のマイクの声が飛んだ、僕は「日本人の恥だ」と言った船長の言葉を、日本の港に入った時、そのまま船長に叩き付けてやりたい出来事が待っていた。
帰還(2) 93/10/16 13:59
昭和21年5月27日、復員船は9日間の航海を終えて名古屋港に入港した。下船は28日と言うことで、その夜は船中泊だ。何もすることもなく、僕達が甲板に出て港の明りを懐かしく見ていた時、数隻の艀《はしけ》が本船に横付けになり、本船から何やら荷物を下ろしている、時間はもう真夜中、こんな時間に仲士が仕事をする筈も無い、何か犯罪の匂いがする。兵隊達はその時やつと艀に下ろしているのが大量の食料だと気付いた。
船員達は僕達に1日12・3粒の乾パンを与え、余剰の食料を横流しして莫大《ばくだい》な利益を上げていたのだ。
「日本人の恥だ!」と偉そうに怒鳴っていた船長も当然グルだ、「お前達が戦争に負けて日本人は食べる物もなくて困っている」と船長は言った。僕は腹が立つより情けなく、暗闇に消えて行く艀を見送っていた。
下船すると僕達に靴下一足分の米と缶詰2ケ、それに未払いの給与300円と故郷までの汽車のキップが渡され放り出された。
後で聞いた話だと、復員兵には新品の軍服と靴、それに毛布が支給されたと言う、むろん僕はそんな物は全く貰《もら》ってはいない、これも担当者が僕達が知らないのを良いことに横流ししたのだ。
僕はボロボロになった軍服に、底革がパックリ口を開けた靴を履いて東京行きの復員列車に乗った。
各駅停車の復員列車はやっと品川に着いた、僕はここで下車して山手線で恵比寿《えびす》駅に降りた、駅の周辺はことごとく焼野原、不思議なもので、こうなるといったい自分の住んでいたのが何処なのか見当もつかない。どうやら捜し当てた家は、石の門を残して完全に焼け落ちていた。
僕には日本に故郷は無い、行くべき当ても無い、呆然《ぼうぜん》と立ちすくんでいる僕にだれ一人振り向く者もいない。僕はトボトボと歩き始めた、「お前は何処へ行く?」。僕のアウトサイダー人生がその時始まった。
サラテイ
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編集者 (代理投稿)