死神 (雨森康男)
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「戦争を語り継ぐ」 (雨森康男) (編集者, 2007/3/9 8:43)
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「なぜ戦争を書くのか」など (雨森康男) (編集者, 2007/3/9 8:47)
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慰安婦よし子 (雨森康男) (編集者, 2007/3/9 9:00)
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雷 撃 (雨森康男) (編集者, 2007/3/9 9:01)
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ロザリーナ (雨森康男) (編集者, 2007/3/10 8:50)
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地獄への道 (雨森康男) (編集者, 2007/3/11 8:05)
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死神 (雨森康男) (編集者, 2007/3/12 8:30)
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さらばジャングル (雨森康男) (編集者, 2007/3/13 8:22)
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消えた軍隊 (雨森康男) (編集者, 2007/3/14 9:08)
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帰還 (雨森康男) (編集者, 2007/3/15 8:52)
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弟は手榴弾を抱いた (雨森康男) (編集者, 2007/3/16 8:02)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298

死神(1) 93/09/21 16:48
僕たちがジャングルに入る頃島は雨期に入った、霧のような雨がジャングルを包み、しとしとと降り続いた。湿地からやや高い場所に木を切り出して小屋を建てる、屋根は木の葉で葺《ふ》き、高床には木の枝を並べ毛布を敷き、そこに寝た。
ジャングルに入ると同時に兵隊達はマラリアに冒されていった、40度の高熱が続き、熱が去ると猛烈な寒気に襲われる、かてて加えて飢餓で弱った体は抵抗力もないままにばたばたと死んでいった。
風土病《=その地方特有の病気》はマラリアだけではない、慢性のアメーバー赤痢、南方潰瘍《かいよう》、兵隊達が言う黒水病、これは強烈な黄疸《おうだん》病で、白眼の部分や排泄《はいせつ》物が真茶色になり、脳神経を冒され、罹病《りびょう=病気にかかる》して一週間と持たずに気が狂って死ぬ。次がこれも病名の判らない奇妙な病い、先ず摂取した水分が全く排泄しなくなり、汗さえ止まってしまう、水分が出ないから体全体がむくみ、横になって寝ると水分が胸に上がって呼吸が苦しいから、皆上半身を起こした格好で寝る、すると今度は水が下半身に溜《たま》り、キンタマがまるで風船のように膨らむ。南方潰瘍は始め小さなできものが化膿《かのう》し、崩れた傷口が次第に広がってゆく出来る場所は足のすね、しまいには骨が見えるような穴が開く、今度はそこへツエツエ蝿《はい》がやって来て卵を生みつける、やがて蛆《うじ》が傷口を這い回る、その痛いことったらない。
宿舎の中はそんな病人がまるで腐った魚を並べたように横になっている。死人が出ても埋葬も出来ない、3日もすると死体は鼻や耳から糸のような血が流れ、腐臭があたりを漂う。「健康者集まれ」の命令が出る、健康者と言ってもどうやら自分の体だけは動かせる者だ、いよいよ埋葬だ、吐瀉《としゃ=吐くことと下痢をすること》物と排泄物と膿だらけの毛布に死体諸ともくるんで4・5人がかりで湿地を引きずって行く。埋葬する場所に来ると穴を掘る、4・50センチも掘ると水が湧き出る、そこへ死体を横にして泥のような土を掛ける、やっと埋葬が終わってほっとする間もなく、今埋葬したばかりの上に仲間の一人がばったり仆れる《たおれる》、「もう一つ穴を掘れ」。
死神(2)石川伍長の死 93/09/22 14:03
こんな状況の中でも米軍機は定期的にやって来て、爆弾を落し30分間機銃掃射をしては帰って行った。もしその時機関砲の応戦する音がしないと、すぐに旅団長から「機関砲隊は何をしている」と文句が出た。僕たちは仕方なくきっかり9時にやって来るP40様をお迎えに、飛行場の誘導路近くに設営された陣地に出て行った。
情けない事に、我が中隊長は腹が痛いのケツが痛いのと言って、決して一緒には来なかった、指揮するのは第三小隊長の須藤少尉、その後に続くのが本間伍長と石川伍長、それに僕の総勢たったの4名。
20ミリ高射機関砲(海軍では50ミリ以下は砲とは言わない)は6人で操作する、中隊は3門の機関砲があるから、本来なら18人の人員が必要なのに、1門を一人で操作しなければならない。
僕はジャングルの梢すれすれに襲撃して来るP40に照準器無しで射ちまくった、20発入りの弾倉はすぐに射ち尽くしてしまう、照準器を操作する者も、弾倉交換をする者もいない、僕は20発を射ってしまうと砲から離れ、交通壕に隠れた。機関砲を射つのは、P40を落とすと言うより、旅団長を満足させるためにやってるようなもの、例えここでP40の1機を落したからって命を賭けるほどの事もない。
石川伍長の砲はまだ射っている、やがてその音も聞こえなくなった、30分、P40が飛び去って行くと、須藤少尉が点呼の名を呼ぶ、しかし石川伍長の返事が無い、僕は不吉な予感がして20メートル離れた石川伍長の所に走った。
石川伍長は砲座の下に斜め横になり倒れていた、顔には団扇《うちわ》ほどもある木の葉がかぶさっている、木の葉を取ってみると、顔に僅かばかりの血が飛んでおり、顔はまるで眠っているように穏やかな表情だった。何処をやられたのだろうと頭を持ち上げてみると、後頭部に拳《こぶし》大の穴が開き、鉄帽に白い脳味噌が流れ出ていた即死である。他の2人も駆けつけてきた、手の施しようもない、僕は脳の入った鉄帽を持って近くを流れる小川で洗った、鉄帽を離れた脳は、川の中間を浮くでもなく沈むでもなく、ふわふわと流れて行った。僕はそれをぼんやり見送りながら、「脳って…比重は水と同じなんだなー」と、まるで関係のない事を考えてた。
石川伍長、この人は忘れられない人だ、僕は彼が部下を殴《なぐ》って居るところを一度も見たことがない、思いやりがあり、それでいて勇気があり、無口で行動力がある男だった。フィリッピンで命令受領に行く僕に、拳銃を貸してくれたのも彼だった。後にも先にも戦死したのは石川伍長ただ一人だ。
死神(3) 93/09/24 08:37
僕たちの中隊は7人を残して全滅した。どうした事かお客さん(P40)もぱったり来なくなった、そんなある日久し振りに飛行機の爆音がした、すわ敵襲と緊張したが、敵さんはビラを撒《ま》いて飛び去って行った。ビラには天皇の名において戦争は終わった、日本軍はジャングルを出て速やかに降伏せよ、としてあった。
中隊長は、これは米軍の謀略《=あざむくはかりごと》だ、と言ってビラを破り捨てた、旅団司令部との電話線も断線していて確認の方法も無い。雨期が終わったのか晴れる日が多くなった或日、隊長は監視要員として僕一人を残し、他の5人を連れてジャングルを出て海岸へ行ってしまった。
宿舎には戦病死した者の兵器や衣類が残っている、泥棒などいるはずもないジャングルに監視要員など必要もない、その時殆ど歩くことも出来ない僕を連れて行こうなんて誰も考えていなかったのだ。
ましてただの兵卒は僕一人後は将校と下士官、僕を背負ってまで連れて行こうなんて思った者は一人もいなくて当り前、要するにほって置けば死ぬ、それで解決なのだ。
僕は相変わらずマラリアと慢性アメーバー赤痢と潰瘍、そして飢餓《きが》の世界に呻ぎん《しんぎん=苦しみうごめく》していた。高熱と衰弱で意識すら定かではなかった、その内にしばしば幻覚を見るようになった、音一つないジャングルの暗黒に、死神がじっと僕を見つめている、髑髏《されこうべ》の姿に黒いマント、手には大きな草刈鎌《くさかりがま》を持っている、確かに物語の中に出て来る死神だ。
もし本当に死神がいるのなら、そんな姿である筈はない、これは俺の幻覚だとは思いながら、それでも僕は恐怖に肌が粟《あわ》立った。
死神(4) 93/09/27 11:25
このままジャングルに居たら死ぬのは時間の問題だ、そう思った僕は歩行の訓練から始めた。先ず木を切って松葉杖を作った、それを左の脇の下に挟《はさ》んだ時、僕は激しい痛みに思わず悲鳴を上げた、左上はく部の弾傷が激痛に襲われたのだ。
高射機関砲は砲座に座り、右手で撃鉄を握り、左手で砲身を上下する転把を操作する、P40を射っているとき、やけに転把を握った手がぬるぬるする、汗だと思ってひょいっと見ると、なんと左の腕が血だらけになっている。何時やられたのか全然気付かなかった、左上はくの肉がえぐられている、針一本刺しても痛いのに、しびれはあつても痛みは感じなかった。その傷はいつまでも治らない、やがて化膿し撃たれた時の何倍かの痛みと発熱に苦しんだ。
僕は歩行訓練を兼ねて食料を捜した、口に入りそうな物ならなんでも食べた、木の芽草の根、それさえ口に出来ない時は革のベルトをくちゃくちゃと噛《か》んだ。
夜の訪れは恐ろしい、漆黒の闇《しっこくのやみ=漆をぬったように真っ黒な闇》なのに死神の姿ははっきり見えるのだ。一晩一晩死神と僕の距離が狭まってくる。
ある朝目覚めると眼の前に死神が立って僕をじっと見つめている、僕は恐怖に声も上げられない、全身が震え、一瞬死を覚悟した。
「死ぬのが怖いか」死神がそう言ったように聞こえた、僕は答えも出来ずに死神を睨《にら》んでいた、
「人間誰でも死ぬ、お前もな、ふゝゝゝゝ」
「俺は今死にたくない」僕は蚊の鳴くような声で答えた、
「それじゃあ明日か?それとも明後日か? 百年後かふゝゝゝゝ」
死神の姿がフッと消えた、でもあの不気味な嗤い《わらい=あざけり笑うこと》だけは何時までも耳に残った。
死神(5) 93/09/28 08:23
誰も話す相手もいない沈黙、幾日も幾日も風の音すら無い長い長い沈黙、耳を澄ましても耳鳴りの音しか聞こえない沈黙、今にも気の狂いだしそうな沈黙の世界、その恐怖にたまらず僕は独り言を暗闇に投げる、しかし木霊《こだま》さえ返って来ない。
僕はいつか死神の来るのを心待ちするようになった。僕は死神と会話をする事でいくらかでも心が慰められていたのだ。死の使者を僕はどんなに待ち望んだか、「はゝゝゝゝ」
僕の告白を聞いて死神はしゃれこうべの歯をカチカチ鳴らして嗤った、「俺の来るのを待っている奴が居たとはな、俺は死の使者で人殺しではない、お前が死にたくて俺を待っているのならお門違いだ」
「ではなぜ僕の所にやって来るんだ」
「なぜかって?おいおいここは俺の島だ、そこへのこのこやって来たのはお前たちの方だ、馬鹿な戦争で迷惑したのは俺だぜ、文句があるならとっとと島から出て行ってもらおうか」
確かに招かざる客は僕たちの方だ、僕だってとっととこの島からおさらばしたい、マラリアの高熱が出ると僕は幻覚を見、聞こえない声を聞いた、高熱が続き遂に発狂して死んだ本間伍長の惨めな最後をふっと思い出す。自分の排泄物を両手でかき混ぜ、それを顔に塗りたくってげらげら笑い、終いには真っ茶色のものを吐いて、泡を吹いて息を引き取っていった。
僕は潰瘍の傷口に這回るツエツエ蝿の蛆をつまんで取りながら、暗さを増して来るジャングルの闇に眼を向け、死神を待った。
死神(6) 93/09/30 23:12
マラリアの発作が起きると40度の高熱が続き、それが治まると今度は猛烈な悪寒《おかん》に襲われる。頭は錯乱《さくらん》状態になり、夜なのか昼なのか、何日経ったのか、生きているのか、死んでいるの幻聴と幻覚を繰り返す内に、心は発狂寸前まで追い詰められる。
なんとか生き残るにはジャングルから出なければならない、僕は手作りの松葉杖を頼りに再び歩行の練習を始めた。そして夜が訪れると死神もやって来た、『お前は何を信じて生きている』と憎々し気に言う、『俺が何を信じようと信じまいと大きなお世話だ、俺は貴様以外なら何でも信じてやる、例え悪魔だろうな』、死神はふゝゝゝゝゝと低く嗤う、『お前は愚か者だ、死ぐらい確実なものがあるか、お前の信じているものは総て幻さ、形あるものは滅《ほろ》ぶ、肉体も滅ぶ、その肉体に寄生しているものも、その肉体の醸し出す想念もみんな幻よ、神さえもな』『それじゃあ貴様も幻じゃあないか』
『はゝゝゝゝ、やっと判ったようだな、むろん幻よ、貴様の想念が産んだ幻よ、貴様は自分の創り出した幻を見ているのさ』
死神はそう言い残してふっと消えた。
確かにその頃の僕は人間の善意も、愛も、理想も、泪も信じていた。それを信じなくて人間は何を信じ生きてゆくのだ…と思い込んでいた。
今それが僕の中で音を立てて崩れてゆく、僕は眼の前が真っ暗になり、なぜか泪が後から後から流れていった。しかし価値観の180度の転換はむしろ爽《さわ》やかでさえあった、泪が出尽くしたその夜、僕は珍しくぐっすり眠った。
僕はその時始めて学生時代にはどうしても理解出来なかったニーチェの『善とは人間にとって一種の精神的病(やまい)である』と言う意味を理解することが出来た。
僕たちがジャングルに入る頃島は雨期に入った、霧のような雨がジャングルを包み、しとしとと降り続いた。湿地からやや高い場所に木を切り出して小屋を建てる、屋根は木の葉で葺《ふ》き、高床には木の枝を並べ毛布を敷き、そこに寝た。
ジャングルに入ると同時に兵隊達はマラリアに冒されていった、40度の高熱が続き、熱が去ると猛烈な寒気に襲われる、かてて加えて飢餓で弱った体は抵抗力もないままにばたばたと死んでいった。
風土病《=その地方特有の病気》はマラリアだけではない、慢性のアメーバー赤痢、南方潰瘍《かいよう》、兵隊達が言う黒水病、これは強烈な黄疸《おうだん》病で、白眼の部分や排泄《はいせつ》物が真茶色になり、脳神経を冒され、罹病《りびょう=病気にかかる》して一週間と持たずに気が狂って死ぬ。次がこれも病名の判らない奇妙な病い、先ず摂取した水分が全く排泄しなくなり、汗さえ止まってしまう、水分が出ないから体全体がむくみ、横になって寝ると水分が胸に上がって呼吸が苦しいから、皆上半身を起こした格好で寝る、すると今度は水が下半身に溜《たま》り、キンタマがまるで風船のように膨らむ。南方潰瘍は始め小さなできものが化膿《かのう》し、崩れた傷口が次第に広がってゆく出来る場所は足のすね、しまいには骨が見えるような穴が開く、今度はそこへツエツエ蝿《はい》がやって来て卵を生みつける、やがて蛆《うじ》が傷口を這い回る、その痛いことったらない。
宿舎の中はそんな病人がまるで腐った魚を並べたように横になっている。死人が出ても埋葬も出来ない、3日もすると死体は鼻や耳から糸のような血が流れ、腐臭があたりを漂う。「健康者集まれ」の命令が出る、健康者と言ってもどうやら自分の体だけは動かせる者だ、いよいよ埋葬だ、吐瀉《としゃ=吐くことと下痢をすること》物と排泄物と膿だらけの毛布に死体諸ともくるんで4・5人がかりで湿地を引きずって行く。埋葬する場所に来ると穴を掘る、4・50センチも掘ると水が湧き出る、そこへ死体を横にして泥のような土を掛ける、やっと埋葬が終わってほっとする間もなく、今埋葬したばかりの上に仲間の一人がばったり仆れる《たおれる》、「もう一つ穴を掘れ」。
死神(2)石川伍長の死 93/09/22 14:03
こんな状況の中でも米軍機は定期的にやって来て、爆弾を落し30分間機銃掃射をしては帰って行った。もしその時機関砲の応戦する音がしないと、すぐに旅団長から「機関砲隊は何をしている」と文句が出た。僕たちは仕方なくきっかり9時にやって来るP40様をお迎えに、飛行場の誘導路近くに設営された陣地に出て行った。
情けない事に、我が中隊長は腹が痛いのケツが痛いのと言って、決して一緒には来なかった、指揮するのは第三小隊長の須藤少尉、その後に続くのが本間伍長と石川伍長、それに僕の総勢たったの4名。
20ミリ高射機関砲(海軍では50ミリ以下は砲とは言わない)は6人で操作する、中隊は3門の機関砲があるから、本来なら18人の人員が必要なのに、1門を一人で操作しなければならない。
僕はジャングルの梢すれすれに襲撃して来るP40に照準器無しで射ちまくった、20発入りの弾倉はすぐに射ち尽くしてしまう、照準器を操作する者も、弾倉交換をする者もいない、僕は20発を射ってしまうと砲から離れ、交通壕に隠れた。機関砲を射つのは、P40を落とすと言うより、旅団長を満足させるためにやってるようなもの、例えここでP40の1機を落したからって命を賭けるほどの事もない。
石川伍長の砲はまだ射っている、やがてその音も聞こえなくなった、30分、P40が飛び去って行くと、須藤少尉が点呼の名を呼ぶ、しかし石川伍長の返事が無い、僕は不吉な予感がして20メートル離れた石川伍長の所に走った。
石川伍長は砲座の下に斜め横になり倒れていた、顔には団扇《うちわ》ほどもある木の葉がかぶさっている、木の葉を取ってみると、顔に僅かばかりの血が飛んでおり、顔はまるで眠っているように穏やかな表情だった。何処をやられたのだろうと頭を持ち上げてみると、後頭部に拳《こぶし》大の穴が開き、鉄帽に白い脳味噌が流れ出ていた即死である。他の2人も駆けつけてきた、手の施しようもない、僕は脳の入った鉄帽を持って近くを流れる小川で洗った、鉄帽を離れた脳は、川の中間を浮くでもなく沈むでもなく、ふわふわと流れて行った。僕はそれをぼんやり見送りながら、「脳って…比重は水と同じなんだなー」と、まるで関係のない事を考えてた。
石川伍長、この人は忘れられない人だ、僕は彼が部下を殴《なぐ》って居るところを一度も見たことがない、思いやりがあり、それでいて勇気があり、無口で行動力がある男だった。フィリッピンで命令受領に行く僕に、拳銃を貸してくれたのも彼だった。後にも先にも戦死したのは石川伍長ただ一人だ。
死神(3) 93/09/24 08:37
僕たちの中隊は7人を残して全滅した。どうした事かお客さん(P40)もぱったり来なくなった、そんなある日久し振りに飛行機の爆音がした、すわ敵襲と緊張したが、敵さんはビラを撒《ま》いて飛び去って行った。ビラには天皇の名において戦争は終わった、日本軍はジャングルを出て速やかに降伏せよ、としてあった。
中隊長は、これは米軍の謀略《=あざむくはかりごと》だ、と言ってビラを破り捨てた、旅団司令部との電話線も断線していて確認の方法も無い。雨期が終わったのか晴れる日が多くなった或日、隊長は監視要員として僕一人を残し、他の5人を連れてジャングルを出て海岸へ行ってしまった。
宿舎には戦病死した者の兵器や衣類が残っている、泥棒などいるはずもないジャングルに監視要員など必要もない、その時殆ど歩くことも出来ない僕を連れて行こうなんて誰も考えていなかったのだ。
ましてただの兵卒は僕一人後は将校と下士官、僕を背負ってまで連れて行こうなんて思った者は一人もいなくて当り前、要するにほって置けば死ぬ、それで解決なのだ。
僕は相変わらずマラリアと慢性アメーバー赤痢と潰瘍、そして飢餓《きが》の世界に呻ぎん《しんぎん=苦しみうごめく》していた。高熱と衰弱で意識すら定かではなかった、その内にしばしば幻覚を見るようになった、音一つないジャングルの暗黒に、死神がじっと僕を見つめている、髑髏《されこうべ》の姿に黒いマント、手には大きな草刈鎌《くさかりがま》を持っている、確かに物語の中に出て来る死神だ。
もし本当に死神がいるのなら、そんな姿である筈はない、これは俺の幻覚だとは思いながら、それでも僕は恐怖に肌が粟《あわ》立った。
死神(4) 93/09/27 11:25
このままジャングルに居たら死ぬのは時間の問題だ、そう思った僕は歩行の訓練から始めた。先ず木を切って松葉杖を作った、それを左の脇の下に挟《はさ》んだ時、僕は激しい痛みに思わず悲鳴を上げた、左上はく部の弾傷が激痛に襲われたのだ。
高射機関砲は砲座に座り、右手で撃鉄を握り、左手で砲身を上下する転把を操作する、P40を射っているとき、やけに転把を握った手がぬるぬるする、汗だと思ってひょいっと見ると、なんと左の腕が血だらけになっている。何時やられたのか全然気付かなかった、左上はくの肉がえぐられている、針一本刺しても痛いのに、しびれはあつても痛みは感じなかった。その傷はいつまでも治らない、やがて化膿し撃たれた時の何倍かの痛みと発熱に苦しんだ。
僕は歩行訓練を兼ねて食料を捜した、口に入りそうな物ならなんでも食べた、木の芽草の根、それさえ口に出来ない時は革のベルトをくちゃくちゃと噛《か》んだ。
夜の訪れは恐ろしい、漆黒の闇《しっこくのやみ=漆をぬったように真っ黒な闇》なのに死神の姿ははっきり見えるのだ。一晩一晩死神と僕の距離が狭まってくる。
ある朝目覚めると眼の前に死神が立って僕をじっと見つめている、僕は恐怖に声も上げられない、全身が震え、一瞬死を覚悟した。
「死ぬのが怖いか」死神がそう言ったように聞こえた、僕は答えも出来ずに死神を睨《にら》んでいた、
「人間誰でも死ぬ、お前もな、ふゝゝゝゝ」
「俺は今死にたくない」僕は蚊の鳴くような声で答えた、
「それじゃあ明日か?それとも明後日か? 百年後かふゝゝゝゝ」
死神の姿がフッと消えた、でもあの不気味な嗤い《わらい=あざけり笑うこと》だけは何時までも耳に残った。
死神(5) 93/09/28 08:23
誰も話す相手もいない沈黙、幾日も幾日も風の音すら無い長い長い沈黙、耳を澄ましても耳鳴りの音しか聞こえない沈黙、今にも気の狂いだしそうな沈黙の世界、その恐怖にたまらず僕は独り言を暗闇に投げる、しかし木霊《こだま》さえ返って来ない。
僕はいつか死神の来るのを心待ちするようになった。僕は死神と会話をする事でいくらかでも心が慰められていたのだ。死の使者を僕はどんなに待ち望んだか、「はゝゝゝゝ」
僕の告白を聞いて死神はしゃれこうべの歯をカチカチ鳴らして嗤った、「俺の来るのを待っている奴が居たとはな、俺は死の使者で人殺しではない、お前が死にたくて俺を待っているのならお門違いだ」
「ではなぜ僕の所にやって来るんだ」
「なぜかって?おいおいここは俺の島だ、そこへのこのこやって来たのはお前たちの方だ、馬鹿な戦争で迷惑したのは俺だぜ、文句があるならとっとと島から出て行ってもらおうか」
確かに招かざる客は僕たちの方だ、僕だってとっととこの島からおさらばしたい、マラリアの高熱が出ると僕は幻覚を見、聞こえない声を聞いた、高熱が続き遂に発狂して死んだ本間伍長の惨めな最後をふっと思い出す。自分の排泄物を両手でかき混ぜ、それを顔に塗りたくってげらげら笑い、終いには真っ茶色のものを吐いて、泡を吹いて息を引き取っていった。
僕は潰瘍の傷口に這回るツエツエ蝿の蛆をつまんで取りながら、暗さを増して来るジャングルの闇に眼を向け、死神を待った。
死神(6) 93/09/30 23:12
マラリアの発作が起きると40度の高熱が続き、それが治まると今度は猛烈な悪寒《おかん》に襲われる。頭は錯乱《さくらん》状態になり、夜なのか昼なのか、何日経ったのか、生きているのか、死んでいるの幻聴と幻覚を繰り返す内に、心は発狂寸前まで追い詰められる。
なんとか生き残るにはジャングルから出なければならない、僕は手作りの松葉杖を頼りに再び歩行の練習を始めた。そして夜が訪れると死神もやって来た、『お前は何を信じて生きている』と憎々し気に言う、『俺が何を信じようと信じまいと大きなお世話だ、俺は貴様以外なら何でも信じてやる、例え悪魔だろうな』、死神はふゝゝゝゝゝと低く嗤う、『お前は愚か者だ、死ぐらい確実なものがあるか、お前の信じているものは総て幻さ、形あるものは滅《ほろ》ぶ、肉体も滅ぶ、その肉体に寄生しているものも、その肉体の醸し出す想念もみんな幻よ、神さえもな』『それじゃあ貴様も幻じゃあないか』
『はゝゝゝゝ、やっと判ったようだな、むろん幻よ、貴様の想念が産んだ幻よ、貴様は自分の創り出した幻を見ているのさ』
死神はそう言い残してふっと消えた。
確かにその頃の僕は人間の善意も、愛も、理想も、泪も信じていた。それを信じなくて人間は何を信じ生きてゆくのだ…と思い込んでいた。
今それが僕の中で音を立てて崩れてゆく、僕は眼の前が真っ暗になり、なぜか泪が後から後から流れていった。しかし価値観の180度の転換はむしろ爽《さわ》やかでさえあった、泪が出尽くしたその夜、僕は珍しくぐっすり眠った。
僕はその時始めて学生時代にはどうしても理解出来なかったニーチェの『善とは人間にとって一種の精神的病(やまい)である』と言う意味を理解することが出来た。
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編集者 (代理投稿)