私の戦時体験 (らくてん)
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私の戦時体験 (らくてん) (編集者, 2007/11/23 7:48)
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投稿日時 2007/11/23 7:48
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
はじめに メロウ伝承館スタッフより
インターネットが一般家庭にまで普及したのは20世紀末で、それ以前は、パソコン通信による交流が行われており、このメロウ倶楽部の出身母体もニフティーサーブの運営していたパソコン通信の高齢者向けフォーラムの「メロウフォーラム」です。
この投稿は、その当時、パソコン通信上に掲載されたもので、投稿者のご了承を得て転載させていただいているものです。
・タイトル脇の数字は、投稿日を示しています。
私の戦時体験 その1 95/06/14
商業学校 (1941-43)
今年は戦後50年にあたり、戦時中《太平洋戦争(大東亜戦争1941~1945米英蘭ソ連合軍との戦いの最中》の体験者の一人として、何かを書き残すのは自分としての責務であると感じ、拙文《せつぶん=自分の書いた文章をへりくだっていう言葉》を綴ることにした。
太平洋戦争は私が商業学校に入った年に始まり、卒業した年に戦争が終った。
そこでその時代の学生生活を書き記すことは、一つの戦時体験として無意味ではないような気がする。なにしろ50年以上前の少年時代のことなので、記憶も薄れ考えも纏まっているわけではない。ただ、ここにその間の日記があるので、それを辿りながら記したいと思っている。
先ず当時の日記から(12才、字句はママ)
『昭和16年12月8日(月)
朝礼の時に校長先生から日・米英の戦端が開かれたことを聞いた。後再度のニュースによれば最早我が軍は赫々《かくかく=勢いが盛んな様子》たる戦果を納めている。朝畏くも《かしこくも=もったいなくも》米英に対する宣戦布告の詔書《天皇の命令を伝える文書》が下された。家へ帰ると昼間線が通って居ないのに電気がついてゐたのでラヂオの戦況を聞いた。』
(注)昼間線=農業用の機械に使用する時だけは昼間でも電気が来ていた。
それ以外、電灯用の電気は夜間にしか来ない。当時電池式ラジオなど
一般家庭にはないから昼間ラジオを聞くことができなかった。
『昭和17年2月16日(月)
帝国万歳!! 英、東亜侵略《東南アジア地方を欧米が殖民地政策を行なう》第一の拠点「新嘉坡」は遂に陥落せり。時に十五日午後七時五十分遂に敵は我軍門に降った。』 以下略
(注)新嘉坡=シンガポール、日本軍占領中は昭南市と改称。
こんな調子で皆が浮かれていたのに、戦況は昭和17年6月のミッドウエー海戦を境に次第に暗雲が垂れ込めるようになったがそれは知る由もない。
毎月1回校長の訓話があったが、「戦況は不利で米英の力を侮ってはいけない」としきりに言う。当時は何と腰抜けな校長かと思っていたが、後で考えると大した人であった。あの頃に大本営発表と違うことを言うのは、相当な見識《けんしき=広い知識》と勇気が必要であった。その校長は開明的《かいめいてき=聡明で進歩的》な人で毎年朝鮮半島からの学生を受け入れており、私の組にも一人いて、私とは席を隣り合わせで親しくしていたが昭和19年初め頃に帰省した儘で遂に戻ることはなかった。きっと故国北鮮へ帰って世界の情勢を知って戻れなかったのかも知れない。50年経った今はどうしているのだろうか。
当時の学校教育は理科系優先で商業科目は殆ど力が入らない。学校も上から工業校に転換を迫られていたらしく、多くの商業校は工業校に転換又は工業科を併設したが、我が校は校長が長州人の頑固さを貫いたようで遂に商業校で通した。その頃教員のうちで一番羽振が良かったのは配属将校《軍事訓練を指導する陸軍から派遣された将校》であった。学科目のなかでは軍事教練が最優先となり、やがて英語教育は敵性語《てきせいご=敵国と認められる国の言葉》との理由で廃止されることになる。
インターネットが一般家庭にまで普及したのは20世紀末で、それ以前は、パソコン通信による交流が行われており、このメロウ倶楽部の出身母体もニフティーサーブの運営していたパソコン通信の高齢者向けフォーラムの「メロウフォーラム」です。
この投稿は、その当時、パソコン通信上に掲載されたもので、投稿者のご了承を得て転載させていただいているものです。
・タイトル脇の数字は、投稿日を示しています。
私の戦時体験 その1 95/06/14
商業学校 (1941-43)
今年は戦後50年にあたり、戦時中《太平洋戦争(大東亜戦争1941~1945米英蘭ソ連合軍との戦いの最中》の体験者の一人として、何かを書き残すのは自分としての責務であると感じ、拙文《せつぶん=自分の書いた文章をへりくだっていう言葉》を綴ることにした。
太平洋戦争は私が商業学校に入った年に始まり、卒業した年に戦争が終った。
そこでその時代の学生生活を書き記すことは、一つの戦時体験として無意味ではないような気がする。なにしろ50年以上前の少年時代のことなので、記憶も薄れ考えも纏まっているわけではない。ただ、ここにその間の日記があるので、それを辿りながら記したいと思っている。
先ず当時の日記から(12才、字句はママ)
『昭和16年12月8日(月)
朝礼の時に校長先生から日・米英の戦端が開かれたことを聞いた。後再度のニュースによれば最早我が軍は赫々《かくかく=勢いが盛んな様子》たる戦果を納めている。朝畏くも《かしこくも=もったいなくも》米英に対する宣戦布告の詔書《天皇の命令を伝える文書》が下された。家へ帰ると昼間線が通って居ないのに電気がついてゐたのでラヂオの戦況を聞いた。』
(注)昼間線=農業用の機械に使用する時だけは昼間でも電気が来ていた。
それ以外、電灯用の電気は夜間にしか来ない。当時電池式ラジオなど
一般家庭にはないから昼間ラジオを聞くことができなかった。
『昭和17年2月16日(月)
帝国万歳!! 英、東亜侵略《東南アジア地方を欧米が殖民地政策を行なう》第一の拠点「新嘉坡」は遂に陥落せり。時に十五日午後七時五十分遂に敵は我軍門に降った。』 以下略
(注)新嘉坡=シンガポール、日本軍占領中は昭南市と改称。
こんな調子で皆が浮かれていたのに、戦況は昭和17年6月のミッドウエー海戦を境に次第に暗雲が垂れ込めるようになったがそれは知る由もない。
毎月1回校長の訓話があったが、「戦況は不利で米英の力を侮ってはいけない」としきりに言う。当時は何と腰抜けな校長かと思っていたが、後で考えると大した人であった。あの頃に大本営発表と違うことを言うのは、相当な見識《けんしき=広い知識》と勇気が必要であった。その校長は開明的《かいめいてき=聡明で進歩的》な人で毎年朝鮮半島からの学生を受け入れており、私の組にも一人いて、私とは席を隣り合わせで親しくしていたが昭和19年初め頃に帰省した儘で遂に戻ることはなかった。きっと故国北鮮へ帰って世界の情勢を知って戻れなかったのかも知れない。50年経った今はどうしているのだろうか。
当時の学校教育は理科系優先で商業科目は殆ど力が入らない。学校も上から工業校に転換を迫られていたらしく、多くの商業校は工業校に転換又は工業科を併設したが、我が校は校長が長州人の頑固さを貫いたようで遂に商業校で通した。その頃教員のうちで一番羽振が良かったのは配属将校《軍事訓練を指導する陸軍から派遣された将校》であった。学科目のなかでは軍事教練が最優先となり、やがて英語教育は敵性語《てきせいご=敵国と認められる国の言葉》との理由で廃止されることになる。