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私の戦時体験 (らくてん)・その4

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通常 私の戦時体験 (らくてん)・その4

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/11/26 8:06
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 勤労動員つづき (1944-45)

 その陸軍造兵廠の工場は疎開《空襲や災害に備え地方に移転する》工場のため、3つの地域に亘って広い農地や山林を潰して造られ、大小の建物が畑や林の中に散在して出来ていた。第1期は発射火薬の仕上工場、第2期は原料工場、第3期は最も危険なニトログリセリン(ダイナマイトの原料)工場であった。我々はそこで工場の建設から火薬の製造まで携わってきた。

 特に最後に携ったNG(ニトログリセリン)工場は、一つの建物ごとに高さ6~7(?)位の掩堤に囲まれており、一棟が爆発しても他に誘爆しないようになっていた。
 入り口は狭い通路が1カ所しかなく、火薬を運搬するのにも衝撃を与えないよう、1分間に何歩で歩くと決められていたようだ。

 因みに勤労動員中の勤務時間は朝7時から夜の6時まで、時には交替で夜勤があり、その時の勤務時間は夜7時から翌朝の6時までである。そして休日は月に2回の日曜日だけであった。

 その当時一番嬉しかったのは月に1~2回、物資が配給になることだった。日記にその都度書いてある位だから余程嬉しかったに違いない。
 どんな物が配給になったかその頃の日記から拾ってみよう。

    パン、梨、団栗パン、紅白の餅が2個づつ、
    赤飯、ビスケット、蜜柑、煙草または菓子のいずれか、
    手袋、ズボン、土瓶、化粧石鹸、コップ、
    下駄(抽選で) など

 それらは大切に持ち帰って家族で分け合ったのであろう。その頃の家庭では主食をはじめ衣類、燃料、酒、煙草、砂糖、塩からマッチ棒に至るまで、生活物資すべてが配給制で商店はどこも空っぽで、自由に買えるものは何一つなかった。

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