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私の戦時体験 (らくてん)・その3

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通常 私の戦時体験 (らくてん)・その3

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/11/25 9:04
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 勤労動員 (1944-45)

 昭和19年に入ると戦局《戦争の状況》は一段と悪化してきたが、何も知らされてない我々は商業学校の4年生に進んだがもう学業どころではない。通年動員といって埼玉北部に疎開してきた陸軍の造兵廠(兵器や火薬の製造所)に勤労学徒として年間を通して働くようになった。4年生に進級する頃には同級生のうち予科練(海軍飛行予科練習生)や特幹乙種(陸軍特別幹部候補生)に志願した者は学年生徒の3分の1に達し、学級も編成替えを余儀なくされていた。
 あの頃は既に陸海軍に入隊した先輩が、格好の良い軍装で母校を訪問し「君達も俺に続け」と呼びかけるので、それに憧れて志願する者が多かった。

 陸軍造兵廠は東京の王子、板橋と群馬からの寄集めの工場であり、近県や広島県忠海の人達が来ていた。綿火薬(めんかやく・ニトロセルロース)の製造という危険な作業で、現に火薬原料の反応中に化学分解が起きて、赤黄色の有毒ガスが発生することもしばしばあり、半鐘《火災等を知らせる釣鐘》を鳴らしてその度に職場を放棄して風上に逃げるのだった。友人は作業衣に火薬の粉が付着していたのを知らずにたき火に当って火傷を負ったこともあった。工員の人達も髪の毛が抜けていたり歯の悪い人が多かったのも有毒ガスのせいだったかも知れない。

 当時の日記の中に、こんな工場火災の記録があった。(字句はママ)

 『昭和20年5月21日(月)  (注、この日は夜勤)

  9時一寸過ぎ時分だったらうか「火事だ」という声に一寸見ると硝化(注、隣の建物で硝酸を化合させる所)が一面に火が揚って炎上している。驚いて飛び出しポンプを見つけに行ったがどこにもない。火の粉が飛び煮洗(注、隣の建物の名称)も危なく、水を出すにも停電にて水は停る。硝化は無論駄目で延焼防止に努める。その内にガソリンポンプも来て消火する。約1時間半遂に消火を終る。ガス(注、有毒ガス)も相当に発生した様だ。食事後は休養をとる。』

 『昭和20年5月22日(火)

  火事の原因は何だったらうか。裸線によるというもの、自然発火というもの、何しろ綿受(注、火薬の原料を受け入れる所)の1号室から発火したのだそうである。下はコンクリートであったけれども上はすっかり焼けてしまった。
 旋回器(注、反応用の機械)も焼けた。復旧するにはどれだけかかるだろうか。
 それはともあれガス発生の為に吸った者もあると軍医殿も来られて診察される。
 朝工場長殿より此の事は口外せぬ様言われる。此の為もう夜勤もなくなり自分等も明日より昼勤に廻ることになった。今日は一日休む。』

 この火災によって、火薬の製造ラインは暫くの間ストップすることになった。

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